01

 長きに渡る戦争が終わり、フォドラはファーガス神聖王国の名の下に統一され、新たな道を進みつつあった。
 ファーガス、延いてはフォドラの王となったディミトリは旧帝国領、及び旧同盟領の諸侯もまとめて新たな治世に踏み出した。そして、セイロス聖教会も変化の時を迎えており、帝都より救出されたレアは大司教引退を決意。彼女の意思を継いで新たな大司教となったのは、ディミトリやその同胞を率い、彼らに様々な知識と経験を与えたベレスだった。
 あの戦いはあまりにも悲しく、辛いものだった。誰もがそう簡単には癒えない大きな傷を負って、「今」という時代を迎えている。だがきっと、これからフォドラは、ファーガスは、もっと良いものになる。国と聖教会が手を取り合い、人が人に虐げられることの無い未来を目指して、前へ歩んでいく。この平穏が永遠のものになるように、と誰もが強く願いながら。

 この地の冬は特に長く厳しい。昨日の昼からずっと雪が降り続いている。理由は分からないが、なかなか眠ることが出来ずにいたメルセデスは静かに上半身を起こす。隣では彼女と永遠の愛を誓った人物――シルヴァンが寝息を立てている。
「……」
 戦後、シルヴァンは正式にメルセデスに結婚を申し込み、そして新しいゴーティエ辺境伯となった。メルセデスと彼は戦時中に想いを通わせていたのだが、ふたりはすべてが終わるまで、仲間の誰にもそのことを打ち明けることがなかった。
 それは、ひとつのけじめだったのかもしれない。ベレスやディミトリといった仲間は、その関係を告白すれば、皆、口を揃えて祝福してくれただろう。だがふたりは敢えて言わなかった。その為なのか、戦争が終わって、フォドラにようやく清々しい風が吹き始めてからそれを明らかにすると、仲間内からは過剰では無いかと思えるほどの反応があった。
 なかでも、メルセデスの親友で、彼女にとっての一番の理解者であるアネットに至っては涙を見せたくらいだ。イングリットも大きく驚きを見せ、あのフェリクスも珍しく動揺したようで、他の仲間たちも驚きと共に祝いの言葉を口にした。

 静かな夜は、いろいろなことを思い出す。ガルグ=マク大修道院での日々。そして、それよりもっと前の出来事。メルセデスの胸にちくりとした痛みが走った。
 今夜もまた、だ。彼女は左胸を右手で押さえる。幸福というものに慣れることを、本当の自分は未だ躊躇っているのかもしれない。待ち侘びた穏やかな日々が実際に訪れると、いつかまた大切なものを引き裂かれるのではないか、というどうしようもない不安に駆られる。
「……メル、セデス?」
 名前を呼ばれて、彼女は我に返る。その声の方向に目を向ければ、シルヴァンが心配そうな顔でこちらを見ていた。
「ごめんなさい、起こしてしまったかしら……」
 メルセデスは小さく頭を下げ、やはりか細い声を発する。それを聞いたシルヴァンはメルセデス同様に上半身をベッドから起こして、首を何度か横に振ると、じっとメルセデスのことを見つめた。
 まだ朝は遠い。厚手のカーテンの向こう側で広がる空に満ちるのは相変わらずの闇だろう。おそらく、そんな世界に白い雪が降り続いていると思われる。春の足音は僅かも聞こえてこない。
「眠れないのか?」
「……ええ」
「そうか……」
 そんな短いやり取りのあと、シルヴァンは一度視線をメルセデスから逸らした。そして、こう呟く。
「……いろいろなことがあったからな」
 その声は普段よりずっと小さいのに、室内は静寂に包まれているので、メルセデスは聞き逃さない。重い台詞だった。彼が言う通り、自分たちにはいろいろなことがあり過ぎた。
「シルヴァン……」
 彼はファーガス神聖王国でも屈指の名家、ゴーティエ家の次男として生まれた。彼の実兄にあたるマイクランは、紋章を持たずに生まれたということだけで廃嫡されている。そのマイクランが賊に身を窶し、英雄の遺産を持ち出し――資格を持たずにその力を求めた代償で魔獣と化したことを、メルセデスも良く覚えていた。そう、そのマイクランを討ったのは当時の「青獅子の学級」の生徒たちなのだから。
 目の前で化け物になり果てた兄に、とどめをささざるを得なかったシルヴァンの苦しみは、想像を絶するものだったに違いない。辺境伯となった今も、きっとその痛みは消えていない。メルセデスはそっとシルヴァンに手を伸ばす。
「メルセデス……」
 彼女の手に、シルヴァンも自らの手を重ねる。あたたかい。そのぬくもりに、泣きそうになる。もう、孤独では無いのだと優しく教えてくれているかのようなそれに。シルヴァンはそこまで敬虔なセイロス信徒というわけでは無かったけれど、メルセデスという女性に愛され、そして自身も彼女を愛することが出来たということに、女神へ深く感謝した。

 もう少し起きていたかったけれど、この領地を統治するシルヴァンには明日も仕事が山積みだった。それにそもそも夜更しは良くない。シルヴァンはメルセデスの薄紅色をした唇に自らのものを優しく重ねると、もう一度ベッドに身体を横たえる。メルセデスも倣うような形で彼の隣に横になった。
 暫くするとシルヴァンの寝息が聞こえてきたけれど、メルセデスはまだ眠りの国に落ちてはいなかった。澄んだ瞳は天井を見ている。それから、隣に眠っているシルヴァンの寝顔を見つめた。どうやら彼は、悪夢に魘されること無くよく眠れているようだ。そのことにメルセデスは安堵する。
 そして、メルセデスも時間を確認し、そっと目を閉じた。数時間後に訪れるであろう新しい日が穏やかで安らかなものでありますように――女神への祈りをそっと紡いで。


 翌朝。雪はやんでいた。けれど大地は更に白く染まっている。シルヴァンが目を覚ました直後、メルセデスも瞳を開く。おはよう、と朝の挨拶を交わして、それぞれの頬に唇を寄せて。こうして新たな日を迎えられたことにメルセデスは女神へ感謝する。
 支度を整え、揃って寝室を出る。シルヴァンはどんなに忙しくても朝食は基本的にメルセデスと一緒に摂っていた。様々な都合上、昼食は別になってしまうことも多かったが、夕食も出来る限り共に楽しむ。食堂へ向かう間も、シルヴァンの手はメルセデスのものと繋がれており、互いにそんな些細なことに喜びを感じている。今の自分たちはとても――とても幸福だ。

 朝の食事を終えると、シルヴァンはばたばたと執務室へ向かった。そんな彼が食堂を出ていくのを見届けてから、私室に戻ろうとしたメルセデスを若いメイドが呼び止める。何かしら、と彼女が首を傾げれば、メイドが手渡したのは手紙だった。薄いブルーの封筒にはどこか見覚えのある印が押されている。メルセデスはメイドに礼を言って、封筒の中身が一体何であるのか疑問符を浮かべながら、取り敢えずは自室へ急ぐ。

 掃除の行き届いたメルセデスの部屋は、彼女が好む花の香りがほんのりとする。それは彼女が、ガルグ=マク大修道院に併設された士官学校の生徒であった頃から好きだった香りだ。
 自分たちが本当にまだ「士官学校の生徒」だった頃は幸せだった。そんなことをメルセデスは考える。勿論、愛する人に愛されている今だって、途轍もなく幸福だ。これ以上の幸福はどこを探したって無い。けれど、あの頃はあの頃で幸せだった――戦争ですべてが轢き潰される迄は。
 士官学校には三つの学級があった。ファーガスの若者が集う「青獅子の学級」に、レスター諸侯同盟出身者の集まる「金鹿の学級」、そして「黒鷲の学級」にはアドラステア帝国出身者が属する。学級の垣根を超えた交流も勿論あった。一緒に課題に取り組むこともあれば、食事を共にしたことだって何度もある。休日には茶会を楽しんだこともあったな、とメルセデスは思い出す。
 けれど、ある時、その穏やかな日常は呆気なく崩される。エーデルガルトがアドラステア帝国の皇帝に即位すると、彼女は宣戦を布告した。フォドラの殆どすべてを敵に回して、自らの理想を掲げたのだ。
「……」
 思い出したくないことを思い出し、メルセデスは何度か首を横に振る。ディミトリが何もかもを失って、心すらも氷のように凍てついて、その手を人間の赤き血で汚しながら復讐心に囚われていたのは、もう過ぎ去った出来事なのに、と。メルセデスたちの学級で級長を務めていた彼は、仲間たちの支えと――そしてベレスの存在によって、妄執から解き放たれて、今はこの世界を統べる王という立場にある。
 それより今は、この手紙だ。メルセデスは丁寧に封を剥がすと、やはり薄いブルーの便箋を取り出す。そこに綴られた綺麗な文字には見覚えがある。これはメルセデスにとって親友と呼べる女性――アネットからの手紙だ。
 終戦後、メルセデスがシルヴァンのもとに嫁ぐと、それとほぼ時期を同じくしてアネットもフェリクスと一緒になる道を選んだ。フェリクスは亡き父ロドリグのあとを継ぎ、フラルダリウス公爵となり、そんな彼の一番近くに寄り添ったのがアネットだった。メルセデスとシルヴァンが自分たちの関係を仲間にも隠していたように、ふたりも戦後になってからその関係を仲間たちに打ち明けたのである。
 メルセデスは何となくではあるが察知していた。親友のアネットが、フェリクスと良い関係を築いていたことを。故に、ふたりがその関係を自分たちへ明らかにした時、然程の衝撃は無かった。フェリクスはぶっきらぼうな所があるが、心根は優しい。彼にならば、アネットを任せられると思った。

 そのアネットからの手紙は、メルセデスのことを気遣う一文から始まる。「メーチェ、久し振りだね」という言葉はアネット本人の声で再生されるかのよう。メルセデスも思わず笑みが溢れる。自分のことを愛称で呼び、無邪気に笑うアネットの姿が、目の前にあるかのよう。いつでも構わないから今度会えないかな、という文章を読んだ途端、メルセデスは胸の奥に温かなものが満ちていくのを感じた。彼女のいるフラルダリウス領は、ここゴーティエ領の南に位置する。
 メルセデスは最後まで読むと、もう一度最初から読み返す。アン、と思わず声が出る。彼女とは本当に親しく長い仲。ガルグ=マクの士官学校に入学する前から、彼女とは友人関係を築いていたのだから。
 メルセデスとアネットは、フェルディアにある魔道学院の出でもある。その頃から一番の友人だった。魔道学院でも大変な量の課題が出たり、難しい試験が時々あったり、何かと苦労も多かったが、アネットがそばにいてくれたから卒業まで走り抜けることが出来た。
「……」
 昔のことを思い起こし、メルセデスは微笑をこぼす。昼食時にシルヴァンと話すことは、今日の予定上出来ないので、夕食の時にでもこの話題を振ろうか。シルヴァンが断るとは考え難いが、メルセデスは、アネットに手紙の返事を書くのはひとまず後にして、屋敷の庭にある温室へ足を運ぶことにした。

 温室には様々な植物が植えられている。この寒冷な地では自然に育つことの出来ないものも、ここでは胸を張って綺麗な花を咲かせてくれる。ここはメルセデスのお気に入りの場所だった。
 そういえば、とメルセデスは士官学校で過ごした日々を思い起こす。ガルグ=マクの士官学校にもここよりずっと小さいけれど温室があった。水やりは当番制で、アネットやイングリットとその当番になることが多かった。そこにもフォドラ各地で見られる植物が育てられており、難しい課題の息抜きにメルセデスがそこへ訪れることは少なくなかった。
「――奥様?」
 温室の扉に手をかけたその時だった。背後から自分を呼ぶ声がしたのは。メルセデスは振り返る。そこにいたのはメルセデスより幾つか年下のメイドだった。確か、ここ最近になってこの家に来た女性だったはずだ。
「あら〜、私に何か用かしら〜?」
「あ、いえ、こちらに奥様がいらっしゃるとは思っていなかったので、つい……申し訳ございません」
 金色の長い髪をポニーテイルと呼ばれる髪型にしたメイドは戸惑いながらメルセデスの問いに答える。
「いいえ〜、気にしないでいいのよ〜。あっ、もし良かったら、あなたも、お花を見ていかない?」
 名案だ、とメルセデスが誘うとメイドは更に戸惑いを大きくする。使用人にすぎない自分とメルセデスでは身分が違いすぎる、と思ったからだ。そんな彼女にメルセデスは小首を傾げたまま、返事を待っている。彼女をあまり待たせる訳にもいかない、と気付いたのは十秒以上が経過してからのことで、メイドはあたふたとしながらも「奥様さえよろしければ」となんとか返す。
 メルセデスが微笑みながら温室の扉を開ける。すると、途端に温められた空気がわあっとこちらへ向かってくる。それと同時に、温室特有の植物の香りが鼻孔に入ってきた。こんな冷たい季節でも、温室内は一定の温度と湿度が保たれており、可憐に花をつけているものも少なくない。
「見て。綺麗でしょう〜?」
 メルセデスが奥に進みながら言う。
「はっ、はい。とても」
 メイドはぐるりと辺りを見回す。彼女がこの温室に入るのは初めてだったらしい。心から感激をしている様子の彼女に、メルセデスは穏やかな笑みを浮かべる。外は冷たい空気に満たされ、雪だってまだまだ降る。春は遠い。けれどここには多くの花々が咲き誇っているのだ。
「お花は好き?」
「え、ええ。小さい頃は庭に花を植えて、母や弟と一緒に育てていました」
「あら? 弟さんがいるのね」
 メルセデスが菫色の目をやや大きくさせる。
「ええ……三つ下の弟が。でも、あの戦争で……亡くなりました」
「……そう、ごめんなさい。辛いことを、思い出させてしまったかしら……」
 想定外の返答にメルセデスが俯いた。あの戦争は多くのものを虐げ、多くのものを屠った。世界はずっと泣いていた。人間が人間を殺す、その恐ろしい螺旋に取り込まれながら。
「いえ、お気になさらないでください、奥様」
 彼女は気丈にも笑って見せる。けれどその笑みはどこまでも痛々しかった。大切なひとが失われる悲しみを、苦しみを、痛みも、メルセデスは知っている。あの戦争はあまりにも凄惨なものだった。フォドラの大地にどれだけの血が流れたか、想像もつかないくらいに。

「……あっ、そろそろ私、行かなければ」
 メイドは言う。随分と長いこと、この温室に留まっていたらしい。彼女には彼女の仕事がある。メルセデスは「私はもう少しここにいるわね」と言って、丁寧に頭を下げてから扉に手をかける彼女に、ひらりと手を振った。また今度お話しましょう、と続けるメルセデスにメイドも微笑む。
 ポニーテイルを揺らしてばたばたと去っていく足音が消えると、本当にメルセデスはひとりになる。メルセデスは数歩前に出た。そこには青い花が美しく咲いている。種名までは分からない。だが、懐かしい。メルセデスが王国の教会住まいをしていた頃――母と育てていたものと、色がよく似ているのだ。ファーガスの色といえば青。故に、教会の庭には青い花が特に多く咲いていた。メルセデスはそっと手を伸ばす。花弁に触れれば、それが小さく揺れる。同時にメルセデスの心も。

 どれだけこの温室にいただろうか。もしかしたら、もう昼食の時間に差し掛かっているかもしれない。メルセデスは懐かしい花に背を向ける。すると、温室の扉がひとりでに開いた――ように見えた。えっ、と間の抜けた声が出てしまうと、そこに姿を見せたのはシルヴァンその人で、彼女は狼狽える。
「メルセデス」
 名を呼ぶその聞き慣れた声に、メルセデスの双眸が大きくなる。確か今日、シルヴァンは仕事の都合でメルセデスと会えるのは日が落ちてから、という話だった。どうして此処に、とメルセデスの顔に大きく書いてあるのを見て、シルヴァンは苦笑する。
「今日開かれるはずだった貴族との評議会は、いろいろあって延期になったんだよ」
 シルヴァンはそう言って頭を掻く。
「そうだったのね〜、わざわざ、探しに来てくれたのかしら?」
「ああ、可能な限りは、君と一緒にいたいからね、メルセデス」
 素直に答えるシルヴァンに、メルセデスの心臓は高鳴る。彼の優しい眼差しと声が、本当に嬉しくて、同時にとても愛おしい。メルセデスはシルヴァンの手を取った。行きましょうか、とそう続ければ彼も頷いてくれる。歩幅を合わせてくれるシルヴァンに、メルセデスは笑顔を見せるのだった。

 昼食をふたりで摂ったあとは、香り高い紅茶が運ばれてくる。それはメルセデスの好む南方の果実茶で、その香りが立ち昇ると彼女は嬉しそうな顔をした。昨日はシルヴァンが好きなセイロスティーだったから、どうやら順番で好みの茶葉を用意してくれているらしい。
「……ひとつお話があるのよ。シルヴァン」
 メルセデスが切り出したのは、ティーカップの中の茶が半分になった頃のこと。
「実は、アンからお手紙が届いたのよ〜」
 アン、というのはアネットのことだ。勿論シルヴァンも、努力家で勤勉な彼女のことを知っている。アネットも同じ「青獅子の学級」で学んだクラスメイトであり、平穏を望んで戦場を共に駆け抜けた、いわば戦友でもある。
「久し振りに会えないか、っていうお手紙だったの」
 メルセデスがアネットと直近で会ったのは、彼女とフェリクスの婚儀の時だ。つまり、かなり長い間ふたりは顔を合わせていないということになる。ガルグ=マクにいた頃は会わない日など殆ど無かったな、とメルセデスは思い起こす。
「いいじゃないか、アネットも喜ぶと思うよ」
「ふふっ、そうね〜」
 本当に嬉しそうな笑顔。そんなメルセデスにシルヴァンも微笑を浮かべる。ちなみにフェリクスとシルヴァンは幼馴染という間柄だ。メルセデスとアネットが固い友情で結ばれているのと同じで、彼らも良き友人と呼べる関係性である。今の地位になってからは、それこそ頻繁に会うことは出来なくなってしまったが。
「それでね、シルヴァン。私たちの都合の良い時に、こっちへアンが来てくれる、って」
 メルセデスの説明を聞き、シルヴァンは「そうか」と小さく頷く。良かったなと続ければ、彼女はとても幸せそうな顔を見せる。
「それじゃあ、返事を書かないとな」
「ええ。すぐにでも、書くつもりよ〜」
 満面の笑みのメルセデスを見て、シルヴァンも幸福を分け与えられたかのような気持ちになれた。これからシルヴァンはまた別の仕事がある為、メルセデスと一緒にはいられない。寂しい気持ちは確かにあるが、シルヴァンはゴーティエ辺境伯となったのだ、与えられた責務を果たさねばならない。中でも、特に重要なものはスレン族との関係改善への道だ。フォドラの北東部にあるスレン半島には、好戦的な民族が住んでおり、現状、彼らとの関係は良いものとは言い難い。
「……それじゃ、俺は先に失礼するよ」
 シルヴァンはそう言ってすっと立ち上がる。そんな彼を次いで椅子から立ち上がったメルセデスが呼び止めた。シルヴァンが彼女の名を発そうとしたその刹那、メルセデスが彼を包み込むように抱きしめる。ふわ、と漂ったのは仄かに甘い香水の香り。まるで春風に包まれたかのよう。
「無理だけはしないでね、シルヴァン」
 メルセデスが言う。どこまでも優しい抱擁に、シルヴァンは少しだけ泣きたくなった。彼女はいつだって自分のことを想ってくれている。それは、ふたりが想いを通わせた日からずっと途切れること無く。
「ああ……ありがとう、メルセデス」
 シルヴァンの声は僅かにではあるが震えていた。きっと、メルセデスはそれを察知しただろう。だが彼女はそれ以上何かを言うことは無く、暫くの間をおいて名残惜しそうに身体を離す。
「じゃあ、またな」
 シルヴァンが言い、メルセデスは無言のままこくりと首を縦に振る。彼は扉に手をかけた。だがすぐにはそれを引き開けず、一旦、振り返った。メルセデスとシルヴァンの視線が絡む。そして両者ともに微笑った。外ではまだ、冷たい風が吹き荒んでいることだろう。それでもふたりの間にあるものは、泣きたくなるほどに優しいものだった。

 彼が食堂を出て、暫く経過してからメルセデスも私室へ戻った。アネットへの手紙を書く為だ。足早に廊下を進んで、もうすっかり自分のものと馴染んだ部屋の扉を開ける。引き出しから便箋を数枚と、それから封筒を取り出してから椅子に腰掛けた。
 アネットへ手紙を書く、というのは久し振りのことだ。士官学校の生徒だった頃や、戦争に身を投じていた頃は、毎日会うのが普通だったからだ。ガルグ=マクを離れていた約五年間。その頃は何度か手紙のやり取りをしていたけれど、こんな風に穏やかな文章を綴ることは無かったように思う。メルセデスは羽ペンを走らせながらそんなことを考える。久し振りね、といった文章の後、会うのはいつでも大丈夫だと書き進めていく。
 最初はそう長くならないだろうと思っていた手紙も、書いているうちにあれもこれも書きたくなってしまい、あっという間に便箋が埋まってしまう。メルセデスは苦笑した。文字を綴っていくだけの手紙でこうなのだから、実際会ったらどれだけの話題があるのか、と。

 小一時間かけて手紙は書き終わり、メルセデスは丁寧に折った便箋を封筒へと入れる。あとでメイドに頼んで送ってもらえば、数日後にはアネットのもとにこの手紙が届くだろう。
 メルセデスはその後、本に手を伸ばしたものの、読書はあまり捗らなかった。アネットに会えたら何を話そうか。そういったことばかりを考えてしまうのだ。彼女の好きな茶葉を用意して。それから久々に会うのだから焼き菓子も心を込めて作って。そういったことを考える時間は本当に幸せに満ちている。シルヴァンという最愛の人にも恵まれ、自分は果報者だ。
「……アン」
 窓辺に寄り、次第に暗くなっていく空を見つめながらメルセデスは親友の名を呼ぶ。彼女も同じ空を見ているだろうか――そんなことを考えているうちに時はあっという間に流れていく。メイドが扉を数回ノックする音が鼓膜を揺らすまで、彼女は友への思いを馳せ続けていた。


02

 それから数日後。メルセデスのもとにアネットから再び手紙が届き、彼女がこの家に遊びに来る日程が確定する。フラルダリウスの家からそれなりの距離がある為、何日かゴーティエ家に滞在することも決定した。メルセデスはその日を指折り待っている。
「奥様、嬉しそうですね」
 紅茶の用意をしながら言うのは何日か前、メルセデスと温室で会ったメイドだ。今日もあの日と同じように、長い金髪を後ろでひとつに結い上げている。シルヴァンはまだ仕事中で、けれどそれが片付き次第、ここに来てくれることになっている。
「ええ」
 短いものの、その返答には喜びが満ちている。
「アネット様はどのような方なのですか?」
「そうね〜、少し年上の私にも、とても良くしてくれた優しい子よ〜」
 メイドの問いかけにメルセデスは笑みを浮かべながら答える。メルセデスにとってアネットという女性は、本当に大切な友なのだろう。彼女の表情を見れば、メイドは即座に察することが出来た。
「楽しみですね、奥様」
 そう言って彼女はメルセデスの前にティーカップを置いた。今日の茶葉はベリーティーだろうか。甘酸っぱい香りがふわりと漂う。それでは失礼致します、と言って退室しようとしたメイドをメルセデスが呼び止める。
「如何なさいましたか?」
「いえ、もう少し、お話に付き合ってくれないかしら〜?」
 勿論時間が許す範囲内で構わないから、と続けたメルセデスに彼女は少し驚いたような顔を見せた。自分はただの使用人であり、メルセデスとは何もかもが違いすぎる。けれど、嫌ではなかった。では少しだけ、と扉にかけていた手を離し、メルセデスの近くまで戻る。メルセデスからすれば彼女にも紅茶を楽しんで欲しいところなのだが、生憎、ここにティーカップはメルセデスの分しか無い。メルセデスは彼女に座るように促した。
「そういえば、まだ、あなたのお名前も、聞いていなかったわね〜」
 メルセデスが穏やかな口調で言う。
「あ、えっと、エーファです」
「エーファ……とっても、素敵なお名前ね」
 メイド――エーファは頬を赤く染める。嬉しさと照れくささが素直に滲んだその姿は、メルセデスにはとても可愛らしく見えた。メルセデスが紅茶を一口飲んで、そして澄んだ瞳でエーファのことを見る。彼女はアネットと同じくらいか、それよりもう少し年下だろうか。どこかまだ緊張感の残るエーファは、ぎこちなく椅子に座っていた。
「奥様とアネット様は長い付き合いなのですか?」
「ええ、そうね〜。ガルグ=マク大修道院の士官学校は知っているかしら?」
「はい。存じております」
 こくりと頷くエーファ。金色の髪が揺れる。
「私もアンも……それにシルヴァンも、その士官学校の生徒だったのよ〜。シルヴァンとは、そこで知り合ったのだけれど……」
 メルセデスが目を瞑る。瞼の裏側に過去を思い描いているのだろうか。シルヴァン、と名が出た途端、メルセデスの声色の柔らかさが増した。
「アンとは士官学校に入る前……王都にある魔道学院でも一緒だったの〜」
 もう何年も前の話だ。けれど記憶は鮮明なのだろう。
「王都……フェルディア、ですね」
「ええ〜」
「私も一度行ったことがあります。陛下の御即位を祝うパレードを見に行ったのです」
 エーファの言葉に、まあ、とメルセデスが少し驚いた様子を見せた。彼女の台詞にあった「陛下」というのは間違いなくディミトリのことだ。ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッド。メルセデスにとっては、彼もまた士官学校時代のクラスメイトで、開戦から終戦までずっと一緒に戦ってきた。それに彼は、シルヴァンの幼馴染のひとりでもある。
「王都も、いいところだったでしょう?」
 メルセデスはディミトリと自分、そしてシルヴァンを加えた自分たちの関係をエーファに語ること無く、そう問いかけた。脳裏によみがえる、仲間たちの横顔。
「ええ、とても」
 あのパレードをメルセデスも当然見ている。その時もアネットと一緒だった。多くの民が新しき王に手を振り、歓声を上げ、ファーガス――フォドラの未来が、輝かしいものになると確信したあの日のことを、メルセデスはよく覚えていた。
「またいつか、フェルディアに行きたいです。その時はあまりに人が多くて、街を見て回れなかったので……」
「そう、じゃあ、今度私が、お気に入りのお店を教えてあげるわね〜」
 とても美味しい焼き菓子のお店があるのよ、とメルセデスが続ければエーファはきらきらと目を輝かせるのだった。


 シルヴァンがメルセデスの部屋を訪れたのは、エーファが茶器を片付けて去って、十分程度が経過してからのことだった。ぱちぱちと暖炉の薪が爆ぜている。厚いカーテンに覆われて外は見えないけれど、もしかしたら冷たい雪が降っているかもしれない。
「今日も、お仕事お疲れ様、シルヴァン」
 メルセデスがすっと立ち上がって、姿を見せたシルヴァンに近寄る。そのままシルヴァンは彼女を抱きしめ、数秒が経ってから彼女を離し、そして今度は唇が重なり合う。
「温かいお茶でも用意させましょうか〜?」
「いや、今はいいよ。それよりも君と話がしたい」
 シルヴァンの素直な言葉にメルセデスは頬を紅潮させる。彼からの想いが直に伝わっていくのを感じ取りながら、定位置に座す。それに続く形でシルヴァンも椅子に座った。彼は、いつもなら正面の椅子に腰をかけるのだが、今日は違った。メルセデスのすぐ隣に座ったのである。こうすれば簡単に触れられる。出来るだけメルセデスの近くにいたい、という欲が露わになったようで少し心臓が煩くなった。
「アネットへの手紙は、もう書き終わったのかい?」
「ええ。あっ、それに、フェリクスも変わらず元気だって書いてあったわよ〜」
「そうか、なら良かった」
 彼の台詞は心からのものなのだろう。それはとても短い言葉だったけれど、メルセデスにはよく分かった。かつて共に学び、共に戦ったイングリットやアッシュといった面々も、きっと元気にしているだろう。イングリットはブレーダッド家に騎士として仕えていると聞いているし、アッシュも騎士の叙任を受けて、後継者のいなかったガスパール家の家督相続を認められたと聞いている。
 皆が、それぞれの道を進んだのだ。メルセデスがこの寒冷な地でシルヴァンと共に生きる道を選んだように。
「なあ、メルセデス……」
「なあに? シルヴァン?」
 突然少し声のトーンが落ちたシルヴァンを、メルセデスはじっと見つめた。
「……ありがとな、いつも」
 彼は真っ直ぐにメルセデスを見ている。その目に灯るのは、穏やかで優しい光だけでは無かった。何処か暗い影がある。メルセデスはそんな彼を再び抱きしめた。それは、無意識に。
 シルヴァンが今も時折、苦しみ悶えていることをメルセデスは知っていた。マイクランのことは、今も彼を苛むのだ。どれだけ時が流れても癒えずにその傷は疼く。
「私は、此処にいるわ」
 メルセデスも喪失の痛みを知っている。半分だけ血の繋がった弟の一件で、彼女も相当の傷を負っていた。生き別れた彼は、黒い、どこまでも黒い鎧を身に着けて姉であるメルセデスの前に姿を見せて。けれど彼と――エミールとメルセデスの道が交わることは無かった。何処かで歩み寄れる未来もあったのかもしれない。けれどそれは全て終わってからの、一歩すら後戻り出来なくなってからの、「もしかしたら」の話。
「だから、あなたも……あなたも、此処に……私のそばに、いてちょうだいね、シルヴァン」
 彼女の声は普段よりも少しだけ掠れていて、けれど彼の耳にははっきりと届き、シルヴァンは彼女のぬくもりを感じ取りながら「ああ」と答える。暫くの間、シルヴァンとメルセデスは抱き合っていた。


 ――それから時は何日か流れて。アネットが、フラルダリウスの家からこの家へ来る日がとうとうやってきた。
 何日も前から、メルセデスはそわそわと沸き立つ心を抑えきれずにいた。彼女が来たら何の話をしようか。どんな風に彼女のことをもてなそうか。アネットが好きなアップルティーの茶葉は特に良いものを用意させているし、久々に会うのだから、とメルセデスはお茶請けにする焼き菓子を昨日のうちに自らの手で作った。
「とうとうアネット様がいらっしゃる日ですね、奥様」
 そう言いながら丁寧にテーブルを拭くのはエーファだ。シルヴァンは今日もまた朝から執務に追われている。だが、夕食は彼とアネット、そしてメルセデスの三人一緒にとることになっていた。シルヴァンは最初遠慮するようなことを言っていたが、メルセデスに「アンはあなたともお話したいと思っていると思うわよ」などと言われて首を縦に振ったのだ。アネットはシルヴァンにとっても、嘗て共に戦った仲間である。それに、彼女の口からフェリクスのことなども聞けるだろう。その関係はただの腐れ縁だと彼らは口を揃えることもあるが、シルヴァンとフェリクスの間にあるのも、そう簡単には振り解けることのない確かな絆であって。
「ええ、私、とても楽しみにしていたのよ〜」
 メルセデスは朗らかに言う。アネットの到着予定時刻は、お昼過ぎくらいと聞いている。彼女を出迎えたらここで一緒に少し遅めの昼食をとり、その後は様々な話が出来たら良いと思っている。お互いに、愛しい人と新しい道を進むようになってから、なかなか会えずにいた。だから、話したいことはそれこそ山のようにあって、語り尽くせるかどうかが分からない程。
 エーファもメルセデスに微笑む。彼女がどれだけ今日という日が来るのを、首を長くして待っていたか、エーファはよく知っている。時々、エーファは彼女から思い出話を聞くことがあった。それはメルセデスが魔道学院の生徒だった頃の話だったり、士官学校時代の話であったりと様々だったが、一貫して言えるのは、メルセデスとアネットという女性が、とても良い友人関係を築いているということ。無論、エーファ自身はアネットに会ったことは無い。今日が初めての日になる。
「きっと、あなたとも、仲良くなれると思うわ〜」
 アンはとってもいい子なのよ、とメルセデスが目を細めた。つられてエーファも同様の表情になる。あと一時間くらいだろうか。メルセデスはその瞬間を迎えるまで、心の中にアネットと刻んだ日々を思い描いているのだった。

「……失礼致します」
 数回扉がコンコンとノックされ、エーファと然程歳の変わらないメイドがその時を告げる。アネット様がご到着です、と続くそれに、メルセデスの心臓が高鳴った。入るようにと伝えれば、見覚えのある橙色が飛び込んできて、メルセデスは思わず立ち上がる。その色の髪にも懐かしさを覚えた。
「メーチェ!」
 アネットは昔と変わらない。あの頃のようにメルセデスのことを、親しみを込めて呼び、太陽のように眩しい笑顔を見せてくれる。以前よりも、髪が少し伸びただろうか。落ち着いた色のガウンを着たアネットは、久々に再会を果たした親友の直ぐ側まで歩み寄った。
「来てくれてありがとう、アン。元気にしていたみたいで、良かったわ〜」
 メルセデスはアネットをじっと見つめる。互いに幾つか歳を重ね、愛する人と結ばれ――新しい時代を迎えたフォドラで前を見て生きている。
「メーチェも変わらないみたいで良かったぁ……」
「ふふっ、そこにかけて頂戴?」
 微笑を浮かべたまま、メルセデスがアネットに座るよう促した。いつの間にかエーファは一旦退室しており、その彼女が紅茶と焼き菓子を運んでくる。ふわ、と漂うアップルティーの香り。アネットが座るのはメルセデスの正面の椅子で、エーファが慣れた手付きで紅茶を淹れてくれる。
 テーブルには他にも、焼き菓子が幾つも入ったバスケットが置かれ、それを見てアネットが「あっ」と声を漏らす。メルセデスが作った焼き菓子は、ガルグ=マクで生活をしていた頃にも、時々焼いたクッキーである。メルセデスは覚えていた。このクッキーをアネットが特に好んでいたことを。
 仲の良いメルセデスとアネットだが、衝突が一度も無かったという訳ではない。その中でも、特に大きく意見がぶつかって、なかなか仲直りが出来ずにもやもやしたことがあった。けれどそれが解決した時、メルセデスは焼き菓子を作って彼女をもてなした。ハーブの入った、上品な甘さの焼き菓子。メーチェの作るお菓子が世界で一番大好きだ、とアネットが言ったことをメルセデスは今も忘れていない。今日の反応を見てメルセデスは気付く。あのやり取りを覚えているのは自分だけでなく、アネットもそうであるということに。
「ありがとう、エーファ」
 紅茶が注がれ、より一層良い香りに包まれながらメルセデスが小さく頭を下げる。
「それでは、私は失礼しますね」
「あらあら〜? あなたもちょっとくらい、お話をしていってもいいのよ?」
 すぐに退室する動きを見せたエーファに、メルセデスが言った。しかし彼女は何度か首を横に振る。フラルダリウスの家から、遥々ゴーティエ領まで来たアネット。そんなフラルダリウス公爵夫人が会いたかったのは、話をしたかったのは、一介の使用人に過ぎぬ自分ではないと。積もる話がたくさんあるでしょうから、と彼女は遠慮しているようだ。
「じゃあ、また後でお話しようよ。お夕飯のあと、とかに。あたしもあなたにお話して欲しいな。最近のメーチェのこと、聞いてみたいなぁって。ええと、エーファさん、だっけ?」
 アネットも無邪気に言う。公爵夫人と呼ばれる立場になっても、昔と変わらない親しみやすさを滲ませて。
「そう、ですか? なら、また後でよろしくお願いします」
 エーファがぺこりと頭を下げる。何日かアネットはここに滞在するのだ。彼女を加えての談笑も、きっと楽しいに違いない。
「それじゃあ、お夕飯のあとにでも、ここでお話しましょうか」
「はい。分かりました。ありがとうございます」
 もう一度彼女は深く頭を下げ、扉に手をかけて廊下に出ていく。ほんの数秒だ、部屋の扉が開いたのは。けれど少し冷たい空気が姿を見せる。まだ冬は続いているということを物語るように。

「それで、この間はシルヴァンが――」
 話題は尽きない。昔から、アネットと話をしていると時間はあっという間に流れていってしまう。それだけ楽しくお喋りをしている、ということだろう。
「でも、メーチェが幸せそうで、本当に良かった!」
 アネットが笑う。メルセデスが語ったのは何日か前にシルヴァンが贈り物をくれた、という話だった。その日は、メルセデスの誕生日でも、特別な記念日でも無かった。唐突に渡されたそれはとても可愛らしいイヤリング。どこで見つけたのか「メルセデスが好みそうだったから」と少々顔を赤らめながら渡されたそれは、彼女の宝物のひとつになっており、今日も耳元できらきらと輝きを放っている。
「あたし、実は、ちょっとだけ心配していたんだ」
「心配?」
「うん。でもそんな心配は全然要らなかったね」
 アネットはそれ以上細かく言わなかったが、メルセデスはそのちょっとした言葉と表情の変化で、アネットが言いたいことを理解した。
 シルヴァンは士官学校にいた頃、女性を見れば口説いてまわるような――悪く言えば軽い男だった。だがその裏では酷く冷たいものを抱えていると、メルセデスには分かってしまったのである。紋章目当てで言い寄る女性。心の奥で、そんな女性たちに嫌悪と恐怖を抱いていたこと。
 それを知ったメルセデスに、シルヴァンが熱い感情を持つようになるのにそう時間は要さなかった。軟派な彼がたったひとりを愛した。その相手が、メルセデスだった。今もその想いは燃え盛っている。メルセデスの心にある彼への愛情も、ずっと変わらずに。そしてそれが崩れたりすることは無い。
「私は、とても幸せよ〜。本当に、いろいろなことが、あったけれど……」
「うん。あたしも幸せ。それにね、メーチェ。メーチェが幸せで、あたしもすっごく嬉しいんだ!」
「ふふっ、それは私も同じね。昔みたいにはアンと会えないことが、やっぱり、寂しいけれど〜」
 メルセデスはゴーティエ辺境伯の夫人として。アネットはフラルダリウス公爵夫人として。かつて一緒に戦場を駆け巡ったイングリットなども、それぞれの道を進みながら、時に過去に思いを馳せていることだろう。王となったディミトリも、大司教という立場になったベレスも、きっと皆あの日々を忘れたりはしない。辛いことも、悲しいことも、数え切れないほどあったけれど。


 夕食は、予定通りシルヴァンも一緒だ。メルセデスとアネットが食堂へ入ると、もう既にそこに彼の姿を見つけることが出来た。
「久し振りだな、アネット」
 先に声をかけたのはシルヴァンだった。そんな彼に笑いかけるアネット。どちらも、昔と大きく変わらない。メルセデスはいつもどおりの位置に座り、アネットはそのすぐ隣に用意された椅子に腰を下ろす。
「シルヴァンも元気そうで良かったよ」
「ああ、アネットもな。フェリクスも変わらないんだろう?」
 シルヴァンが問う、というよりは確認といった様子で彼の名を出した。勿論、アネットは頷く。フラルダリウスの新しい公爵の生活は、多忙を極めているようだが、アネットと一緒なのだ、それでも充実した日々を送っているのだろう。そう思えば、シルヴァンもほっとすることが出来た。
 アネットをもてなす為の料理が運ばれてくる。会話を楽しむのは食後ということにして、それぞれがフィークとナイフに手を伸ばす。今日のメニューは、遠路遥々この地へ来てくれた、アネットの好みのものでまとめられている。それを提案したのはシルヴァンで、メルセデスはつくづく気が利くなと感じたのを覚えていた。

 食後の紅茶を運んできたのはエーファだった。今度の茶葉はローズティーである。上品な香りのそれも、アネットが士官学校にいた頃から好んでいるもののひとつで、アネットは粋な計らいに笑みをこぼす。この後、仕事を終えたエーファも加えて談笑することになっていて、メルセデスがティーポットから紅茶をカップに注ぐ彼女にその件を改めて伝えると、エーファは「ありがとうございます」と丁寧に頭を下げ、「後ほどよろしくお願い致します」と続けた。

「それでね、その時、フェリクスが――」
 紅茶はすっかりカップから消えてしまったのに、話題は尽きることがない。そして、アネットの口からはフェリクスの名前が頻繁に出てくる。シルヴァンもメルセデスも、そんな彼女を見て穏やかに微笑っていた。アネットとフェリクスが上手くやっているようだ、と再確認出来たからだ。
 主君にあたるディミトリに対しても「猪」と呼び、無愛想で皮肉屋、そっけない部分が目立ったフェリクスも、アネットと一緒になってから若干の変化があったのだろう。彼との生活は、アネットにとっても実りのある時間であると、メルセデスは知った。
「あっ、なんか、あたしばっかり喋っていてごめんね」
「いいのよ〜、アン。ねっ? シルヴァン?」
「ああ、君の話は昔から聞いていて飽きないし、な」
「う〜、でもそろそろ、メーチェとシルヴァンのことも聞きたいかも……」
 アネットの言葉に、シルヴァンはメルセデスと顔を見合わせる。何を話せばいいだろうか。アネットが聞きたいのはどういったことだろうか。改めて考えると、足元に迷路が広がっていくかのよう。
「じゃあ、何か最近嬉しかったこととかある?」
「嬉しかったこと?」
 親友のどこまでも平和的な問い。それを復唱して小首を傾げるメルセデス。うーん、と彼女は少しだけ考え込んで、すぐに口を開いた。
「シルヴァンがお仕事の後、すぐに私のところへ来てくれることが、とっても嬉しいわ〜。すごく忙しくても、シルヴァンは私に、会いに来てくれるのよ」
 その返答はシルヴァンも想定していなかった。かあっと顔が熱くなる。メルセデスにとってはそんな些細なことが大きな喜びであると知り、そんな彼女への愛しさが急激に高まったのだ。アネットも口元に手をやって、そしてきらきらと目を輝かせる。
「そうなんだ、シルヴァンは?」
「俺も、その……メルセデスと一緒にいられることが、一番嬉しいよ」
 照れくさそうに続けられた彼の言葉。今度はメルセデスが頬を染める番だった。
 仲睦まじいふたりにアネットも笑顔になる。大好きな親友が選んだ男性。そのふたりが今も変わらず愛を育み、幸せの中にいるのだと分かったこと。それこそ、アネットにとっての「嬉しいこと」だ。
 それから暫く、アネットはメルセデスの話に、そして時々シルヴァンの話に耳を傾けながら優しい時間を三人で過ごした。そんな中でメルセデスは思う。これは、きっとそう簡単に叶えられる夢ではないかもしれないけれど――嘗て共に戦った仲間たちと集まることが出来たらいい、と。そうしたらその時、それぞれの幸せをお裾分けして、これからのことを話して。とても充実した時間を過ごせるのではないかと思える。

 メルセデスとアネットが部屋に戻り、エーファを加えてのちょっとした茶会。それもとても良い時間となった。アネットとエーファもすぐに馴染み、まるで何年も前からの友人のようにお喋りに興じて。結局三人は、思っていたよりも遅い時間までいろいろな話をするのだった。


 それからの時間は飛ぶように過ぎて、降雪量も減り、春の気配が近付くとともに、少し気温も上がり始める。アネットがフラルダリウス家に帰る日が、とうとう明日に迫っていた。荷物をまとめるのは、昨日のうちに済ませてしまった。つくづく真面目である。残された時間はあまり無いが、メルセデスは彼女を温室へと誘った。以前、エーファとも一緒に花を眺めたあの温室だ。
「……そういえば」
 そこへ向かう道すがら、話題に上がったのはガルグ=マク大修道院での思い出。
「確か、フェリクスとアンが、お花の水やり当番だった時に、アンが自分で作った歌を……」
「あーっ、メーチェ! そっ、それは恥ずかしいからやめてよ……」
 あらあら、とメルセデスが穏やかな目で言う。アネットとフェリクスの間にあったひとつの出来事を、彼女はよく覚えていた。アネットからすれば今も恥ずかしく思うエピソードのようだが、ある意味フェリクスとアネットの関係が深まる、ひとつの鍵だったとメルセデスは思っている。
 そうこうしているうちに、温室が姿を見せる。少し歩幅を広げてそこに寄り、扉を開けて中へ先に入ったのはメルセデス。
「見て、アン」
 彼女が指し示したのは青い花。ふたりにとって、かけがえのない母国ファーガスを代表する色彩のそれは、今日もまた懸命に咲いている。
「とっても綺麗だね、メーチェ!」
「そうでしょう?」
 この花も、おそらくガルグ=マク大修道院の温室にも植えられていたとアネットは思い出す。水やりの当番の時、見た覚えがある。それも、フェリクスと一緒だった時に。
「良かったら今度、種を分けてあげるわ〜。お手入れもそんなに難しくないし、アンだったらきっと、綺麗に咲かせられると思うわ」
 メルセデスの提案を、アネットは名案だと感じた。青という色は自分たちにとって特別で、この花を見ていると皆で一緒に過ごした日々がよみがえってくるようだったから。約束だよ、と嬉しそうに頷く親友の姿に、メルセデスは数年前の彼女をそっと重ねるのだった。

 翌日。少し早く目を覚ましたメルセデスは、自分に向けられている視線に気付く。寝起きのぼんやりとした頭で考える。隣で眠っているはずのシルヴァンが、どういうわけか視界に入ってこない。首を傾げながら目を動かせば、彼は既に起床していて、椅子に座ってメルセデスの方に目を向けていた。
「……おはよう、メルセデス」
 彼はそう言って立ち上がり、ベッドに移動する。シルヴァンはいったい何時から起きているのだろう、その顔に眠気の色は見当たらない。
「おはよう、シルヴァン……随分と早いのね〜?」
「メルセデスもじゅうぶん早いけどな」
 多分アネットも起きていないと思うよ、と続ける彼を見て、メルセデスは時間を確認する。早朝だ。確かにこの時間であれば、アネットも眠っているだろう。
「どうして早起きをしたの?」
「おそらく君と同じだよ、ただ早く目が覚めただけさ」
「まあ、そうなのね……ふふっ」
 私たちお揃いね、と笑う彼女にシルヴァンはときめきに近いものを感じた。あなたとその分長く一緒にいられることも嬉しい、などと続けるメルセデスを、シルヴァンはそのまま抱き寄せる。唇と唇を重ねて、互いに頬を染めて。
「……?」
 メルセデスがあら、と窓の方へと目線をずらした。何かに気付いた彼女に、シルヴァンは「どうしたんだい?」と問う。彼女はそのままカーテンをそっと開けて、窓硝子の向こうをじっと見た。
「鳥が鳴いているわ〜」
「鳥?」
「……この声は、春告鳥かしら?」
 シルヴァンもメルセデスに続いて、外を見る。雪解けが始まった大地がよく見える。空の色は澄み渡る青で、小さな雲が幾つかそこに浮かんでいるのが分かった。
「そうか、もうそんな季節になるのか……」
 春告鳥というのはその名の通り、春を知らせる歌を歌う鳥のこと。正式な名前は忘れてしまったのだけれど、とメルセデスは言う。王都より少し遅いのね、と続ける彼女へ、彼も「そうだな」と頷く。ここ一帯は特に冬が長くて厳しいから、フェルディアよりも一足遅くその季節が訪れるのである。
 残念ながら、その鳥の姿を見つけることは出来なかったが、彼は六花の残る大地で、人々が待ち侘びた季節の到来を教えてくれている。
「いろいろあったけど、俺は君とこうやっていられて幸せだと思うよ」
「あら〜? 突然、どうしちゃったの?」
「いや、いろいろと思い出してね。士官学校に居た頃のこととか、その後のこととかさ……」
 アドラステア帝国――ひいてはエーデルガルトとの戦い。その随所で、自分たちは見知った者と殺し合わなければならなかった。どれだけの命が溢れていったのか、今それを考えると胸の奥が苦しくなって、数えることも出来ない。そんな中でも、メルセデスはいつでもシルヴァンのそばにいてくれた。想いを通じ合わせ、戦いが終わって、正式に結ばれて。
「また次の春も、そのまた次の春も、俺は君と迎えたい」
「ええ……私も、あなたと同じ気持ちよ、シルヴァン。これから先もきっと、いろいろなことがあると思うけれど……私は、この手を絶対に離さないわ。だから、あなたも離さないで?」
 そう言って、メルセデスがシルヴァンを抱きしめる。シルヴァンもそのまま彼女の腕の中で「勿論だよ」と答えた。彼らの幸福な時間を彩るように、春告鳥は高らかに鳴くのだった。


03

 ――数年後の春。
 フラルダリウス家に一枚の手紙が届く。差出人はゴーティエ辺境伯。改まって何だ、と思いながら、フラルダリウス公爵はその封筒から便箋を取り出した。ちょうど彼の隣には夫人の姿もある。
「――アネット」
 先に手紙を読んだフラルダリウス公爵――フェリクスは妻アネットにその手紙を読むようにと手渡した。なんだろう、とアネットが受け取れば、そこにはとても嬉しい報告が書かれていた。
「……メーチェ……!」
「……良かったな」
「うん……! うんっ!」
 思わずアネットが涙ぐむ。その手紙には、メルセデスが第一子を身ごもったと書かれていたのだ。春風が外では優しく吹いている。まるで、その報告を世界そのものが祝福しているかのよう。それに乗って、美しい鳥の声が聞こえてくる。春告鳥、だろうか。
「……おめでとう、メーチェ、シルヴァン」
 濡れたままの瞳でアネットは遠くを見つめた。フェリクスもそんな彼女を穏やかな目で見ると、心の中で彼らに祝いの言葉を綴るのだった。


2020/03/19

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