忠義の牢

Hubert * Edelgard
 静かだ。エーデルガルト=フォン=フレスベルグはふと我に返る。世界は静寂に包まれていた。恐ろしく思う程に音が無い。草木も眠る丑三つ時、とは上手いことを言ったものだ。
 エーデルガルトは数時間前から捲っていた本を置いた。これはアドラステア帝国の歴史書。古い本で、痛みもあるからなかなか読み進めることが出来ていない。それでも読むべき書物だと彼女は判断し、何日か前から読んでいる。いずれは、アドラステアの帝位を継ぐのだ。千年以上の歴史を持つ帝国の頂点に立ち、民を導き、国を守らなければならない。エーデルガルトは、たったひとりの皇位継承者だ。もともとは十人もの兄弟姉妹で、エーデルガルトは上から八番目だが、彼女を残して全員が死亡している。怪しげな実験が繰り返されたことによって。エーデルガルトもその被験者で、その実験の結果「炎の紋章」という特殊な紋章を宿した。生まれ持っていた紋章は別にあることから、エーデルガルトはふたつの紋章をその身に刻まれているということになる。度重なる人体実験のせいで、髪色すら白く変化してしまったのだけれど。
「……」
 昔のことを思い出すだけで、気分は急降下する。ガルグ=マク大修道院にある、士官学校。エーデルガルトは「黒鷲の学級」の級長を務め、学友にも恵まれている。この学級を担当している教師のことも、彼女は心から信頼している。今は、とても充実していると言えるだろう。
 けれど、過去は振り落とせない。未来だって輝かしいものではないかもしれない。フレスベルグの血を継ぎ、普通ではない紋章を宿し、足元に用意されているのは鮮血に染まった道。ヒューベルト――ヒューベルト=フォン=ベストラともそんな話をしたことがある。彼はベストラ侯爵家の嫡子で、エーデルガルトの従者である。幼少の頃から、彼は彼女に仕えてきた。これからも、それに変わりはないだろう。エーデルガルトとヒューベルトはそういう関係を定め付けられていると言っても過言では無い。
 エーデルガルトはそこまで考えたところで、ふ、と小さく笑みを落とす。いい加減眠るべき、だろう。明日だって出撃の予定がある。ガルグ=マク大修道院から少し離れた森で、魔獣の討伐することになっているのだ。それは、ちょっとした課題のひとつだ。ヒューベルトやフェルディナント、ベルナデッタやドロテアなどと共に戦場に立たねばならない。そう強力な相手ではないと聞いているが、油断は大敵だ。少しでも眠って、体を休めるべきなのだ。分かっている。けれど、眠ろうという気にはなれない。最近は毎晩、眠ったまま闇の底へ落ちていくのではないか、なんてどう表現したらいいのか分からなくなるような不安が襲ってくるのだ。こんなことは誰にも言えない。怯えている自分を見せたくはない。
 
 上着を着て、エーデルガルトは自室を出た。頭を冷やせば少しくらい落ち着けるかもしれない。そんなことを考えたのだ、見上げれば満天の星たちが彼女に視線を向けている。月は無い。星はそのせいで普段よりもずっと強く光を放っている。
 
 何処か行くあてがある訳でもなかった。ただ、少し歩こうと思っただけで。故に、エーデルガルトの歩くスピードは遅めだった。何処からかフクロウの声が聞こえてくる。低いそれは仲間を呼ぶ声なのか、それともまた別の意味を孕むものなのか。ガルグ=マク大修道院には伝書フクロウも数羽いるのだが、彼らの声なのか、野生の個体のものなのかもエーデルガルトは知らない。しかし、その声は何処と無く切なさを感じさせる。
 中庭に出る。すると、そこには先客がいた。月明かりも無く、暗いせいで、誰なのかはすぐに分からなかった。すらりとした背丈から男性であることは分かる。闇に溶けてしまいそうなその姿を、エーデルガルトは数メートル離れてまじまじと見た。もしかして、と答えが喉元まで出てくる。声をかけるべきなのか、それとも何も見なかったことにして立ち去るのが正解なのか。そちらの答えが出ないうちに、彼の方が言葉を発した。エーデルガルト様、と綴られたそれは間違いなく従者のもの。
「ヒューベルト……」
 互いに歩み寄ることで顔がはっきりと見えた。珍しく、彼は少々驚いた表情をしている。こんな深夜に、誰かと出会すなんて想定外だ。
「エーデルガルト様。こんな時間にお一人で歩き回られては危険ですよ」
 ヒューベルトは言う。そちらは当然想定内の台詞だ。少し眠れなくて、と素直に理由を口にする主君に、彼はひとつの息を吐き出す。呆れられているのか、怒られているのか。もしかしたら、両方かもしれない。
「……あなたは何故、此処にいたの?」
「貴方様と同じ、ですよ」
「……そう」
 同じ。そう言われて、エーデルガルトの心の奥が小さく揺れる。
「私がお供しますから、お部屋にお戻りくださいな」
 エーデルガルトの命は、最早エーデルガルトだけのものではない。もしも何かがあったら大変なことになる。ヒューベルトの瞳はそう言っている。
「そうね……」
 彼は、いつまでもエーデルガルトの隣にいると誓った。何が起きても、自分は彼女の剣であり、同時に盾であるのだと。エーデルガルトの代わりに血を流す。手を汚す。傷を負う。忠義の為ならば、どんな苦痛を味わっても構わない。彼女の志の為ならば、どんな犠牲を払っても構わない。彼の忠誠は人の血で塗れている。その主君が、ヒューベルト個人が傷付くことを恐れていても――それでも。少々歪である。だが、それがエーデルガルト=フォン=フレスベルグとヒューベルト=フォン=ベストラの歩む道であり、掴むべきものなのだ。
「では、行きましょう、エーデルガルト様」
 またフクロウが鳴いているのが聞こえる。ふたりの間を吹き去っていく風もまた、何かを嘆いているかのような、そんな音をしている。
「……ええ」
 手は繋がない。どちらからも自らの腕を伸ばすことは無い。この距離こそが、今の彼らが置かれている状況。愛し合う恋人のように、体温を分かつようなことは無い。互いを大切に思う相手ではある、けれど、普通のそれとは違うのだ。
 
 よく晴れているのに、何処からか冷たい雨の匂いがした。

title:ユリ柩
template:睿鑒

2020-02-07
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