フィディウスの天秤

 薄墨色の空は、まるで今にも泣き出しそうな子どものようだ。メルセデス=フォン=マルトリッツは、ひとりそんなことを考えながら書物のページを捲る。窓辺に置いた椅子に腰掛けての読書は、正直あまり捗らない。本当は別にやらなければならないことがあるのだけれど、そちらをやる気になれず、大修道院の書庫で数日前に見つけた本を読んでいるのだ。
 
 自分たちは今、戦いの渦中にある。非常に長い歴史を持つアドラステア帝国に抗っている。帝国の頂点に立ち、この戦争を引き起こしたのは若き皇帝エーデルガルト=フォン=フレスベルグだ。そのエーデルガルトも少し前までは、ここガルグ=マク大修道院で、ひとりの生徒として生活をしていた。しかし運命の歯車というものは残酷に廻る。彼女は、フォドラ統一を掲げて宣戦を布告した。この世界のほとんどを敵に回して。
 メルセデスも、エーデルガルトと何度も会話したことがあった。それほど深い話をしたことは無かったけれど、彼女には彼女なりの考えがあるというところまでは理解出来た。エーデルガルトも荊棘の道を素足で歩いてきたのだ、ということは何となく感づいていた。他者に語ることはあまり無かったけれど、メルセデスもそれなりの苦痛を知ってガルグ=マクの士官学校へ入学した。いや、そもそもほとんどの生徒がそうだろう。貴族と平民。紋章。そういったものに誰もが振り回されている。この世界にそういったものが無かったのなら、フォドラのあり方というものも大きく違っていただろう。
「……メーチェ、いる?」
 考え事をしていたメルセデスを現実へ引き戻したのは、丁寧に鳴った数回のノック音と、聞き慣れた少女の声。アネット=ファンティーヌ=ドミニク。彼女はまだ平穏に包まれていた頃、メルセデスと同じく「青獅子の学級」に属していた少女で、メルセデスにとっては「親友」と呼べる存在。アン、と普段通りの呼び名を発すれば、扉がぎいと軋みながら開かれた。
「……あ、ごめんね、読書中だった?」
 アネットは申し訳無さそうに言う。テーブルに読みかけの本が置かれているのを見た為だろう。
「あらあら、気にしないで大丈夫よ〜、アン。私に何か、用かしら?」
「あたし、実は明日、水やりの当番なんだけど、どうしても外せない用事が出来ちゃって」
 ガルグ=マク大修道院で暮らすメルセデスたちは、幾つかの作業を当番制で行っていた。そのひとつが、温室にある植物への水やり。戦時下とはいえ――いや、むしろこんな時代だからこそ、心を落ち着かせる為に植物を愛でる必要がある、と皆が考えたのだ。アネットはちょうど明日がその当番の日らしい。
「突然で悪いんだけど、その……当番、変わってもらえないかなぁ?」
「まあ、良いわよ〜。そのくらい」
「ほんと? ありがとう、メーチェ!」
 アネットがほっとした表情に変わる。やけに深刻な顔に見えたから、もっと難しいことを言われるのかと思っていたメルセデスも胸を撫で下ろす。
「お礼に今度、美味しいお茶をご馳走するから!」
「ふふ、それは楽しみだわ〜。その時は、また、焼き菓子を作っておくわね〜」
「えへへ、嬉しいな〜! あたし、メーチェのお菓子、大好きなの!
 そんなやり取りの後、アネットは「それじゃあまた明日」と言って去っていった。先程までの顔が嘘のよう。メルセデスはもう一度本を手に取る。表紙をそっと撫でた。これはファーガス神聖王国を舞台にしたフィクションの小説だ。まだ、あまり読み進めてはいないけれど、平穏な王国を少女と少年が旅をする物語は、王国が置かれている現実などよりずっとずっと優しくて――こんな風に生きられたらいいと思わずにはいられない。寒冷なファーガスは豊かな国をは言い難いし、今もたくさんの民が苦しみ、もがいている。戦線に立ち、帝国に抗う自分たちだって時々挫けそうになる。力を持たない多くの民は、尚更だろう。メルセデスは窓の向こうへ目を向けた。もうそこにあるのは闇色の空。星は見えない。きっと、分厚い雲が隠してしまっているのだろう。メルセデスの心も、似たような状況になっていた。
 
 ◆
 
 夜が去り、また新しい日が訪れる。昨日の雲は夜の間に流れていったのだろう、今日は快晴だ。真っ青な空に綿のような雲はひとつも見つからない。朝食後、メルセデスは温室を目指した。いつも同じ時間に食費を摂るアネットの姿は、メルセデスが食堂へ入った時点でなかった。彼女が言っていた「外せない用事」は、ずっと早い時間から――朝からのものだったのかもしれない。
 
 温室と食堂はそう離れていないから、すぐにたどり着く。扉を開け、中に入れば独特の空気がメルセデスのことを包み込む。花の良い香りも漂ってきて、メルセデスは目を細めた。そのまま如雨露を取って、水を注いで。もともとの当番はアネットだけだったのだろうか――メルセデスが小首を傾げた頃、ゆっくりと扉が開く音がした。
「悪い、遅くなって――」
 入ってきたのは、赤髪の青年。
「まぁ、シルヴァン?」
「え、あ、メルセデス?」
 シルヴァン――シルヴァン=ジョゼ=ゴーティエ。ファーガス神聖王国でも屈指の名家、ゴーティエ家の嫡子。そして、約五年と少し前までは「青獅子の学級」で学んでいたクラスメイト。今は、同じ未来と正義を手に戦う仲間のひとり。アネットは彼に当番交代を知らせていなかったようで、彼は目を大きくさせている。メルセデスはそんな彼に微笑んで、改めて朝の挨拶をした。シルヴァンもまた律儀に挨拶を返してくれる。
「ここまでは水をやり終わってるのか」
「ええ〜、それで、こっちはまだなのよ〜」
 メルセデスはシルヴァンに如雨露を手渡した。右半分の土は水分を得て色が変わっている。緑の葉も、与えられた水によってきらきら輝いていた。シルヴァンは左半分に水をやっていく。そう広い温室ではない。ふたりでやれば、あっという間だ。必要ならば雑草を抜いたり、肥料を与えたり、他にもやることはあるのだが今日はその必要もなさそうだ。
「なあ、メルセデス。君はこれからなにか用事でもあるのかい?」
 如雨露の水は空になっていた。シルヴァンはそれをあった場所に戻して、メルセデスへと問いかける。
「え? そうねぇ〜……終わっていない課題はあるけれど、そう急ぐものではないし……」
 それと同時にちらりと蘇ったのは、読みかけの本。だがそちらもすぐに読んで、すぐに書庫へ戻すようなものでもなかった。
「お祈りも済ませているから……これといって用事は無いわね〜」
 メルセデスが答える。シルヴァンは「だったら」と切り出す。一緒にお茶でもどうか、と。今日は丸一日、皆に自由な時間が与えられている。当番などはいつも通り回ってくる訳だが、少なくとも出撃の予定は無い。剣の鍛錬に励む者もいれば、自室で体を休める者もいる。自主的に魔道について学ぶ者もいるし、街に出て買い物をする者だっている。シルヴァンはそういった時間をメルセデスと過ごすことを望んでいるようだ。
「でも、あなたは私でいいのかしら〜?」
「俺は君がいいのさ、メルセデス。君と同じ時間を過ごしたいんだ」
「はいはい」
 くすりと笑うメルセデス。シルヴァンはこういった面を持つ。それを彼女はよく知っている。何やかんやで長い付き合いになるのだ、ここガルグ=マクで共に過ごす仲間となって。
「それじゃあ、行きましょうか〜」
「……え、あ、本当にいいのか?」
 シルヴァンが最終確認といった様子で言い、メルセデスが頷く。今日は天気も良い。こうやって誰かと街に出るのも、悪くない。それに、シルヴァンと街に出るのはいつ以来だろうか。たしか前回は、買い出しの当番の時だった。そういった「理由」も無く一緒に出かけるのは初めてだった。シルヴァンは柄にもなく心臓の鼓動がやけに早まっていくのを感じ取る。メルセデスはどうなのか、とすぐ隣の彼女を見れば、彼女はいつもと同じ慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。
 
 ◆
 
 戦争が起きて、この街もめっきり人が減ってしまったが――今は回復傾向にある。昔ほどの賑わいはないものの、ひっそりとしたという描写は当てはまらない。
 直近でメルセデスが街に出たのは、二週間ほど前。その時はイングリット=ブランドル=ガラテアと一緒だった。記憶違いでなければ、買い出しの当番だった。少し時間が余ったから、と彼女と一緒に立ち寄った茶葉を取り扱う店は大当たりだったな、とメルセデスは思い出す。過酷で、歯列で、先の見えない戦いに身を投じているけれど、羽を伸ばせる場というものは必要で、皆に買って帰ったことを覚えている。ベレスを交え、皆で飲んだそれは大変美味だった。
「メルセデス。寄りたい店とかあるか?」
「そうね〜、今ちょっと思い出したのだけれど……」
 茶葉の店について口にすると、シルヴァンも「ああ」とその時のことを思い出したようだ。あの店はここから北へ少し行ったところにある。メルセデスが説明すると、シルヴァンは大きく頷く。また皆に買っていってやろう、と続けて。
 
 そのまま道なりに進む。右手にその店が見えてくる。メルセデスは「ここだわ」と言って、扉に手をかける。鈴の音が響き渡った。彼女の背中を追いかける形でシルヴァンも中へと入った。
「――いらっしゃい」
 店主は若い男性。メルセデスは彼に見覚えがあった。間違いなくこの店だ。シルヴァンもメルセデス同様に所狭しと並ぶ茶葉に目を向ける。本当にたくさんの種類があるようで、どれを選んだらいいのか分からなくなりそうだ。
「メルセデス。君は確かベリーティーが好きだったよな?」
「あら、覚えていてくれたの? シルヴァン?」
 嬉しいわ、とメルセデスが笑う。それを見たシルヴァンもつられて笑みをこぼす。仲睦まじい様子を見て店主も思わず似たような表情。少し照れくさくなったのか、シルヴァンがいつもの顔に戻って店主へ向き直り、メルセデスの好みだという茶葉を購入した。
「あ、ベルガモットティーもお願い出来るかしら?」
 続いてメルセデスも注文する。今度はシルヴァンの好きな茶葉だ。今度は彼が驚いた様子を見せる番。店主は「おまけだよ」と言って別の茶葉も一緒に袋へ入れた。頬の色を紅色に変えたふたりは、揃って礼の言葉を口にし、そして店を出る。
「ねえ、シルヴァン」
 茶葉の入った袋を手にしたシルヴァンに、メルセデスは言う――ありがとう、と。
「いつか、また……シルヴァン、あなたと一緒にお買い物をしたいわ」
「そう、だな。俺も同じ気持ちだよ、メルセデス」
 そう頻繁には来られない。けれど、いつか、また。メルセデスの発した言葉がシルヴァンの胸の中で何度も響く。次に来る時は、少しでも状況が良くなっているといい。そんな願いを掲げたのはメルセデスだけではなく、きっとシルヴァンも同じだろう。
 
 ――もう少しだけ歩かないか。そうシルヴァンが提案すると、彼女は「ええ」と頷いてくれる。彼は柔らかな眼差しでメルセデスを見た。こんな穏やかな時がいつまでも続けばいいと思うけれど、現時点ではそれはかなわない。自分たちの故郷は揺らいでいる。フォドラは戦の炎で焦がされている。きっとまた、空は泣き出しそうな顔をする。
 だからこそ、そのすべてが終わるまでは、抗い続けなければいけない。大切なものを守れる自分になれるように、と強く強く祈りながら。あてもなくメルセデスとシルヴァンは歩いた。いつしか繋がれていた手は、いつか希望を掴むだろう。この世界の果てにあるという、そんな希望を。

title:ユリ柩 template:NINA


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