たぶんこれはさよならで、苦しみで、愛だった

title:失青

 今更何処に逃げるつもりだ、という刃のような声が背中に降りかかる。私はそれからも逃げるように、もつれる足で冷たい世界を走った。恐ろしいほどに暗く、何も見えない世界を、彷徨うように。その声は言う。お前にもう戻る場所なんて無いくせに、と。その通りだ。私に帰り着く場所は無い。この闇を振り払ったのは、他でもない私。私のことを心から思い、愛してくれた人たちの手を振り解いたのは私なのだ。また背後の声が、聞こえてくる足音が、近くなる。もう、どうしようもならない――そう思った直後、私は倒れた。冷たい大地に膝が落ちる。カムイ、と呼ぶ声がした。目をその方向へ向ける。身体はもうがたがたと震えていて、視界すら揺れていた。飛び込んでくるのは深い闇と、そこで鋭く光る金の髪。血を思わせる赤がこちらを見ている。また、声が闇を漂う。カムイ。改めて名前を呼ばれ――その瞬間、世界が朧気なものに変わっていくのがわかった。黒で塗りつぶされた空間に、一筋の光が落ちる。ああ、私はまた夢を見ていたのだ。それに気付くと、すべてが溶け消えていく。意識が現実へ戻ると、見下ろしているのは彼ではなく天井で、穿たれた窓から月明かりが差し込んでいた。
 
 ◆
 
 私は敗れた。暗夜王都を目指す途中、鬱蒼とした天蓋の森で、レオンさんに。その直後の記憶は無い。意識を取り戻した時には、もうここにいた。白夜王国のきょうだいたちからも引き離され、ひたすらに冷たい時間の流れる古い塔に。荒い息。べとつく汗。滲んだ視界。ここにあるのは絶望にも近いなにかだ。無理に落ちていく夢の世界にも、希望は無い。同じような夢ばかり見る。
 レオンさんはおそらく、この塔に結界を施しているのだろう。全身が怠く、今の私には彼に抵抗する力も無い。夜刀神も竜石も取り上げられてしまった。無力な自分しかいない。そこまで考えて、いや、と思う。もしここに夜刀神なり竜石なりがあっても、レオンさんを傷付けることは出来ない。彼は私を憎んでいる。けれど、私は違う。彼らのもとを離れたのは、彼らが嫌いになった訳では無いからだ。自分から裏切っておいて、と言われるだろうが、レオンさんは私にとって大切な人なのだ。マークス兄さんも、カミラ姉さんも、エリーゼさんも。ただ、道を違えた事実が横たわっている訳であって。このままではいけない、と思う。だが、どうすることも出来ないのが現実だった。無力な私の言葉を、彼はきっと聞き入れてはくれないだろうから。
 
 ◆
 
 緩やかに時間が落ちる。何もせず――何も出来ず、流れ落ちる時に揺蕩う。どれだけ経っただろう、と思った時、扉に鍵が差し込められる音がした。私は無意識にそちらへ目を向ける。レオンさんが姿を見せたのだ、冷たい光を宿す瞳の彼が。
「……レオンさん」
 なんとか発したそれは、掠れた声だった。窓から差す月の光は本当に美しいのに、私たちの間を埋めるものはどろどろとした何かだ。レオンさんは応じない。ただ、少しずつ歩み寄ってくるだけ。カツンコツンと乾いた音が響く。私は視線を逸らさない。
「――私を」
 どうするつもりなのですか、と問う声は、自分でも分かっていたがやはり弱々しい。レオンさんはまた一歩近付いて、その手で私の手首を掴んだ。強く力を込められる。爪が食い込み、痛みを感じたが、私はそれを口にはしなかった。
「……暗夜に戻っては来ないのか」
 レオンさんが静かに言う。それに私は首を横に振る。これは、私がここに閉じ込められるようになって、何度も繰り返してきた問答。
 私は確かに暗夜王国で育ち、ずっと黒き国の王女だと信じて疑わなかった。レオンさんたちときょうだいであることが誇りで、一番の喜びだった。けれど、私は白夜の王女だった。私の身体に、闇竜の血は一滴も流れていなかった。それだけではなく、父と呼んできたガロンは私を侵略の駒としか見ていなかった。私を利用し、白夜女王ミコトを殺し、戦争を引き起こした。暗夜は恐ろしい道を進んでいる。白夜の破滅を望んでいる。その為なら、幾ら命が散っていっても構わないと彼は当たり前のように思っているのだ。そんな彼が統べる暗夜には戻れない。私は義の為に、夜刀神を向けたのだ、血を分けたきょうだいだと思ってきた彼らに。
「なら、今のお前に何が出来るっていうの?」
「……」
「……カムイはここで白夜が滅びる時を待つしか無いんだよ。暗夜には敵わないって、分かっているだろ」
 レオンさんは淡々と言った。私は何も答えられない。思いを巡らせることは出来ても、声として彼に伝えることが出来ないのだ。
「ねえ、カムイ。いつまでも僕が君を隠してあげる。暗夜からも、白夜からも。生かしてあげるよ、ここで」
 だから首を縦に振ってよ。そう彼が続けた。私はいつの間にか俯いていた顔を上げず、ただ、もう一度彼の名を絞り出すだけ。それが答えであると、レオンさんはきっと知っている。
「強情だね。そういうところも、嫌いじゃないけどさ」
 彼の目が、少し寂しさの孕む色に変わった。そして、こう言ったのだ――僕の為にここにいてよ、と。え、と声が漏れた。頑なに噤んでいた私の。顔を上げ、彼を見る。レオンさんは泣き出しそうな笑みを浮かべていた。どうしてそんな表情をするのだろう、今さっきまで、冷たい目を向けていたのに。戸惑う私に、彼が言う。
「君がいない世界は、色の無い世界だ。何もかもが色彩を失くして、ただただ虚しいだけで」
「レ、レオン……さん……?」
「どうしてもカムイ、君が戻らないなら、僕は……僕は、此処で君を縛り付けたまま離さないよ」
 レオンさんがふいに私を抱きしめる。
「――カムイ姉さん」
 懐かしい声。目を見開いた私の背に、彼の手が回される。温かい。心が張り裂けそうなほどに、ぬくもりは優しい。目頭が熱くなる。胸が痛い。私は彼を拒まなければならないのに、私たちは敵同士なのに――レオンさんを突き放せなかった。
 降る月光は淡く、止まること無く流れる時はどこか甘く。流れる涙を止めるすべを、私は知らない。このままでは何も解決しないのに、私は、レオンさんは相手の熱度を感じ取りながら、そのまま動けない。もしかしたら、レオンさんも涙を落としているのかもしれなかった。
2018-11-02
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