その世界の色をいつか私にも聞かせて
「ん……」
少女は重い瞼をゆっくりと開ける。頭も重い。全身が怠い。その部屋は酷く暗かった。控えめに蝋燭の火が揺れているだけで。硬いベッドの上で天井を見上げる。何もないこの小さな部屋で。
「……カムイ」
突然の鋭い声。それは、聞き覚えのある声だった。
カムイと呼ばれた少女はその声がした方に目を向ける。
たったそれだけの動作だったが、それなりの時間がかかった。
金髪に黒いカチューシャ。闇そのもののような漆黒の鎧。無意識にカムイは彼の名を呼んでいた――レオンさん、と。
レオンは昏い目をしていた。そこにかつての面影は無い。きょうだいとして生きてきたあの頃の面影は、いくら探しても見つからない。
彼は黙ったままのカムイに静かに近寄る。
カムイはその場から逃げることも出来ない。体力が全くと言っていいほど回復していないのだ。
レオンは暗夜王国一の魔道士である。何かしらの魔法をカムイ、或いはこの領域に施しているのかもしれない。
絶望の淵に立つ少女の記憶が、ゆっくりとよみがえってくる。闇に閉ざされた天蓋の森。あの地でカムイはレオンに敗れた。泥濘んだ大地に膝をついてやっと見上げたレオンの表情が、カムイの脳裏に焼き付いている。
それは怒りと憎しみと、それから悲しみや後悔に似たものの入り混じった表情だった。
カムイはその表情の理由を問うことをしなかった。問わずともわかっていたのだ、それが百点満点の答えではなかったとしても。
そしてカムイは意識を手放した。目が醒めた時にはもう、少女はこの部屋に閉じ込められていたというわけだ。
レオンはカムイへと手を伸ばした。カムイは伸びてくるその手で、今度こそ殺されるのではないかと思った。
だがその手はただ彼女の頬にあてがわれただけだった。温かな手ではなかった。彼の向ける視線と同じで。
ぎっとその手に力を込められ、柔らかな頬に痛みが走る。それは今この時が夢でも幻でもないことを物語るような、そんな痛み。
「レオ……ン、さ……」
やめてください、という言葉が喉につかえた。代わりにこぼれ出たのは、小さな悲鳴にも似た声。
カムイの瞳はいつの間にか潤んでいる。滲む視界にレオンの姿がある。
彼はまた手に力を入れると、あの頃と然程変わらぬ声で少女の置かれた立場を語った。
今、カムイという白夜の王女は暗夜の第二王子レオンの手によって殺された、ということになっていると。
彼らの父親であり、暗夜王国を統べる王ガロンの耳にもそう言ってあるのだ、と。
カムイが生きていることを知っているのは、レオンやマークス、それからカミラとエリーゼといったきょうだいと臣下の一部、そして数名の兵士だけである、と。
カムイはわからなかった。レオンがわざわざそこまで自分の状況を教える理由が。
闇はただただ少女を侵食する。冷たい世界に囚われた少女の心を、身体を、思いを。
「逃がさないよ、カムイ。お前の居場所はもうこの暗夜王国にしかないんだ」
レオンは僅かに笑みを浮かべて言った。そこには弟として穏やかな時を共に刻んだ彼の姿はない。
カムイとレオン。そしてマークスとカミラ、エリーゼ。五人は仲の良いきょうだいだった。
父王からの命で、北の城塞から出ることが許されていなかったカムイを優しく包み込み、様々なことを教え、様々なものを与えたきょうだいたち。
今はもうあの頃のような関係に戻ることは出来ない。硝子玉が落下して割れてしまったら元の球体に戻せない。それと同じだ。
「お前はずっと……ずっと、ここで生きるんだよ。カムイ」
お前だけは殺したりなんかしない、とレオンは付け加える。
殺さない、と言われたというのに氷のように冷たい恐怖が彼女に襲いかかった。
死よりも怖いものがあるだなんて、とカムイは心身を震わせる。
あの日。暗夜王国軍と白夜王国軍がぶつかり合った、あの運命の日。
もし、自分が暗夜の――マークスの手を取っていたら、どうなっていたのだろう。
カムイはやけに冷静にそんなことを考えることの出来る自分に驚きつつ、レオンのことをじっと見た。
黒で塗りつぶされた小さな世界で、生きることをこうやって強要するレオンのことを。
「……カムイ姉さん。覚えてる?」
唐突に姉と呼ばれ、カムイは目を見開いた。つい先程の驚きとはまた別の感情が横切る。
「僕たちきょうだいはずっと一緒だって、約束したよね。あれは……確か、久し振りにきょうだい全員で北の城塞に行った時だったかな」
レオンは過去を辿りつつ、ゆっくりとそう言葉を紡いだ。一度目を閉じたのには、何かしらの意味があるのだろう。
カムイはベッドに腰掛けたまま、レオンのことを見る。
ふたりは同じ日の記憶を思い起こしていた。まだきょうだいとして幸せな日々を送っていた、あの頃の。
エリーゼが無邪気にカムイに抱きついてきて、カミラが穏やかに笑ってそれを見守り、少しだけ呆れたようなレオンと、僅かに微笑うマークス。
暗夜王国の第二王女としてではなく、白夜王国の第二王女として戦いに身を投じる決意をしたあとも、思い出すことがあったあの日々だ。
一緒にいよう、と最初に言ったのが誰だったかは覚えてはいない。もしかしたら、全員が同時にそんな言葉を発したのかもしれない。
「でも、姉さんは僕らを裏切った」
「……」
「それはきっと、あの忌まわしい白夜の人間がカムイ姉さんを誑かしたせいなんだよね」
「ち、違います…! それは違うんです……!レオ――」
「ねえ、カムイ姉さん……」
そうやって彼女の言葉を遮るレオンは、縋るような目をした。カムイはそれに戸惑いを覚える。
彼がこのような目を自分に向けたことなど、これまで一度も無かったからだ。
まだ潤んだ自分の瞳。それとは違う影を帯びた、黒き国の王子の表情。
「カムイ姉さんがここにいてくれさえすれば……僕たちは一緒にいられる……」
ぐらり、と何かが大きく揺れる感覚が少女を襲う。
マークス兄さんと、カミラ姉さん、レオンさん、エリーゼさん――カムイは心の中であの頃のようにきょうだいの名を呟く。
甘く苦く、黒い誘い。少女の最も深い部分に、まるで蔦のように這いまわり絡み付いてくる。
だが、少女には他にも大切な存在があった。白夜王国のきょうだいたちと、その仲間のことだ。
ここでただレオンの誘いを受け止めるような人物であったなら、元から白夜についたりなどしなかっただろう。
リョウマたちも彼女にとってかけがえのない存在だ。共に過ごした日々が短きものであったとしても。
カムイは首を繰り返し横に振った。自分は誑かされたりなどしていないし、ましてや操られているわけでもないのだと。
自分の意志で白夜王国につき、長く辛い戦争を終わらせるのだと決めたのだ。
育ての父でもある、暗夜王ガロンを斃さねば本当の意味での平和は戻ってこないのだ、とわかった上で。
「なら……仕方ないね、カムイ姉さんがその考えを改めるまで、ここにいてもらうよ」
レオンはそう告げて、またしても笑みをその顔に刻んだ。
それは、どこか壊れてしまいそうな笑み。
カムイは叫んだ。レオンの名を。何度も、何度も。しかし彼は背を向けてこの小さく暗い部屋から出て行ってしまう。
ばたん、と閉じられる重い扉。それは彼との距離を象徴しているかのように思えた。
カムイはベッドから立ち上がろうとするも、それだけの力すら回復しておらず、足に力が入らない。
その場に倒れこんだカムイは、床に手をつけたまま熱い涙を流した。
エリーゼは複雑な表情を浮かべつつ、暗い階段を一歩一歩おりていく。
まだ幼いとはいえ、彼女もここ暗夜王国の王女として育った身。
現実というものがどれだけ残酷なのかは、それなりにわかっているつもりだ。
静かに歩みを進める。カツンコツンという乾いた足音はやけに高く響いた。
エリーゼがこの階段を下るのは、おそらく生まれて初めてのことだった。
幼い末姫が「大好きなカムイおねえちゃん」がこの先に囚われていることを知って数日。
ようやく兄姉から彼女の部屋に行っていい、と許可がおりたのがほんの数時間前のことだった。
扉の前まで来たエリーゼは、大きく息を吸い込む。
重く分厚い扉の向こうにカムイおねえちゃんがいる――そう思うと、心に甘い何かが漂うことも事実だ。
しかし、自分は何も姉であったカムイと他愛のない話をするためにここまで来たわけではない。
あの頃――カムイが当たり前のように一緒にいた頃のように笑い合ってしゃべることも、多分出来ない。
エリーゼはわかっている。今の「カムイ」という存在が自分たちの行く道に立っているわけではないのだと。
「……カムイ、おねえちゃん」
数回扉をノックし、エリーゼはそれを静かに開ける。
室内のカムイはやはりベッドに座り込んでおり、かつての妹の声を耳にし、はっとしたのだろう、その赤い目を見開いた。
少しやつれたような顔だったが、そこにいるカムイはエリーゼのよく知る姉の面影を色濃く残していた。
「――エリーゼさん……」
カムイの声は震えた。エリーゼはうん、と頷いてから一歩近付く。大好きな「姉」だった人物へと。
こんなところまで、とカムイは思ったのだろう。まさかここにあの無垢な妹が、エリーゼが来るとは想像もしていなかったのだろう。
それくらいこの部屋の空気は淀んでいた。息が苦しくなってくることだって、何度もあった。
エリーゼのトレードマークとも言える縦ロールのツインテールがびくんと揺れた。
「あ、あのね、あたし……」
小さな妹が言う。
「やっぱり、カムイおねえちゃんのこと、大好きなの……」
「……エリーゼさん」
「だからずーっと一緒にいたい。でも……それはあたしのわがまま、だよね」
おねえちゃんはもうあたしのおねえちゃんじゃないんだから、という言葉は声に出せなかった。
カムイは傷付いた目をしている。そんな目を見たら、そのセリフを口にすることなど出来なかった。どうしても。
エリーゼはまた項垂れた。それとともに落ちる金の髪。金の中に入り交じる紫の髪は、もうひとりの姉カミラへの憧れから滲んだ彩り。
「困らせちゃって、ごめんね。カムイおねえちゃん……」
「いえ……」
カムイは肩を落とした妹に手を伸ばしかけて、やめた。
今の自分には、彼女を支える資格などない。
こんなに傷付けて、こんなに悲しませたのは他でもない自分であるから。
後悔などではない。けれどそれよりもずっと複雑な気持ちが心を満たしている。あの日からずっとそうだった。
「また、来るね……」
エリーゼは微笑った。無理をして微笑う彼女が、冷たい雨の降り頻る空に放たれた鳥のように思えた。
カムイは去っていったエリーゼのことを胸の中に思い描きつつ、天井へ目を向ける。
そこにも何もない。空っぽの自分がいるだけ。
零れ落ちたのはふたたびの涙と、今もなお大切に思う存在の名。
カムイは闇の中でひとり思った。エリーゼたちと共に生きていた日々を。
今はもう、繋ぐことの出来ない手と手。
彼らの手を離したのは自分だったというのに、彼らの熱度が恋しかった。
自分の正義の為に離さざるをえなかった、彼らの優しい手が、どうしようもなく。
「ねえ、カムイ……お願い、そんな目をしないで」
暗夜王国の第一王女カミラが、カムイへと熱っぽい眼差しを向ける。
彼女がこの暗い個室に入ってきたのは、エリーゼが立ち去って一時間ほど経過した時のことだった。
様々な感情がカムイの胸に満ち、苦しみに喘いでいた時だった。
波打つ豊かな紫色の髪や、抜けるように白い肌と漆黒の鎧のコントラストはあの頃と変わらない。
だが表情はどこか違っていた。そんな姉の瞳に映る自分もそれと酷似した表情を刻んでいるようにも見えたが。
カミラはカムイにとって優しい姉だった。母性の塊のような姉はいつでも自分を愛してくれていた。
敵に対しては驚くほどの冷酷さを見せるというが、今ここでこちらを見るカミラにそういった色は見えない。
どこか歪んだ部分を感じないこともなかったのだが。
「血が繋がっていないとしても、あなたは私の大切な妹よ。いいえ、私だけじゃないわ。マークスお兄様も、レオンもエリーゼもあなたを愛しているの。だから、もうどこにも行っては駄目」
高らかに囀る小鳥のようにそう言って、カミラは柔らかく笑った。
そこだけ切り取ってしまえば、美しい姉妹愛を感じる場面に見えただろう。
しかしそうではない。カミラは続ける。
「お父様にはうまく言ってあるの。あなたはこの世にいないって。だからカムイ、あなたはもうここから出られないけれど、いいでしょう?」
これからは私たちがいるもの、とカミラはとても幸せそうに言う。
カムイは、北の城塞で軟禁同然の日々を送っていた過去を持つ。
知っているのはバルコニーから見える景色と、きょうだいたちが語る世界の一部。それくらいしか知らない。
それでも、結界の施された北の城塞での日々は、辛いものでも、悲しいものでもなかった。
逆に幸せな日々だった。きょうだいたちは頻繁に会いにきてくれたし、臣下たちも優しかった。
しかし、現実というものは甘くはなかった。自分は白夜を傷付けるだけの駒だった。あの日、ガロン王から与えられた魔剣は多くの民を屠ったのだ。
目の前で死んでいった白夜王国の民。自らを庇ってその命を散らした産みの母――白夜の女王ミコト。
魔剣の爆発はカムイの心にも癒えぬ傷を負わせた。響き渡る悲鳴と、吐き気を催すほどの血の匂い。
自分は戦わなくてはならないと悟った。自分のせいで死んでいった者たちのためにも、暴走する暗夜王に従うことは出来なかった。
それが、たとえ長い時を共に刻んできたきょうだいたちを裏切る結果になったとしても。
「カミラ姉さん……もう、やめてください。私は……」
あなたの妹としてここにいることは出来ません、そうカムイは言おうとした。
だが、その途中で言葉は詰まった。優しい過去が辛い現実を阻む。
カミラからの愛は本物だった。彼女は本気で妹としてのカムイを愛している。
それは彼女の顔を見ればよくわかった。
ひずんだ部分もあるが、それでもそこに愛情が刻まれている。
それを跳ね除けることがカムイには出来なかった。それはきっと「暗夜王国の第二王女」としてのカムイがまだ心の中にいるからなのだろう。
今のカムイは白夜の人間だ。早くここを出て、白夜のきょうだいたちと共にまた戦わなくてはいけない。
だが、きょうだいたちが今どこにいるのかはわからない。自分が生かされているのだから、生きていると信じたい。
しかし、カミラはそんなカムイの心を読むように言葉を紡ぐ。
「カムイ。私は、あなたの姉なの。おねえちゃんはあなたに生きていて欲しいのよ」
カミラはカムイへ近づき、その手を伸ばす。
「ここにいればいいだけ。それだけなのよ、カムイ。そうしたら私たちはあなたを独りになんかしないわ」
孤独や寂しさも全部拭ってあげる、と言うカミラからカムイは目を逸らすことが出来なかった。
だが、それでも。あの運命の日の選択が間違っていたとは思わない。
戻ることの叶わない、過去。願うことの許されない、未来。
カムイには自分の正義があった。力はそのためにあると思った。
神刀「夜刀神」に選ばれた自分は、醜い争いと絶え間ない諍いで溢れる世界に平穏をもたらせなければならないのだと。
そして共に戦うは白夜のきょうだいたちであると、あの日、結論を出した。
自分の身体に流れる白夜の血が、それを掴むべきだと叫んでいた。
「また来るから、ね? カムイ。その時はちゃんと答えて頂戴」
用があるから、とカミラは言うと相変わらずの目でカムイを見、小さな部屋から出て行った。
ばたんと閉まる扉の音が空気を震わせる。
カムイは彼女が消えていったその重い扉をじっと見つめては、複雑な思いを抱え込んだ。
ひとりきりになると幾つもの思いがごちゃごちゃに絡まってしまう。
ぬけ出すことの難しい迷路や迷宮の類に迷い込んでしまったかのようになる。
そこに光はない。酷く静かで、どこか優しげな部分を持つ闇が広がっているだけで。
「……姉さん」
こぼれ出た声。カムイは目を閉じる。
瞼の裏側にこびり付いて離れない過去を見ながら、心の奥でかつてのきょうだいの名を繰り返し呟いた。
――あれから、いったい何日が経過したのだろう。
それすらもわからず、カムイは光の灯されていない瞳を上へと向ける。
ここ暗夜王国で最も暗い場所と言われる、天蓋の森。そこでカムイとその仲間たちは敗れたのだ。
毒沼はカムイの仲間たちを蝕み、暗夜の第二王子レオンが操るノスフェラトゥは執拗に攻撃をしかけた。
遠退く意識の中で、白き国の兄が姉が弟が妹が自分の名を呼んでいたのは憶えている。
気付けばこの暗い部屋に閉じ込められていた。仲間たちとは当然のように引き離されて。
暗夜王ガロンは、カムイが生きていることを知らないという。
それはつまり、かつてのきょうだいたちは大きな秘密を抱えてまでカムイを生かしているということだ。
暗夜王国を統べる王、ガロンは恐ろしい人物だ。今の彼は本当のことを知れば、実の子であるマークスたちも殺すかもしれない。
カムイはベッドに横たわったまま、様々なことを考えた。
昔のこと。今のこと――だが未来のことを考えることは出来なかった。白夜王国のきょうだいたちの生死もわからないのだから、無理も無い。
ギイ、と扉が軋む音がした。しかしカムイはそちらに目を向けることもしなかった。
少しずつ壊れていく自分がいることに彼女は感づいている。
足音が響く。誰が来たのかはその顔を見ずともなんとなくわかった。
レオンである。この暗夜の王子であり、それと同時に優秀な魔道士でもある。
彼の神器「ブリュンヒルデ」は重力を司る書であるところから、グラビティ・マスターと呼ばれることもある人物。
カムイにとっては弟にあたる存在だ。カムイが北の城塞で生活をしてきた頃、様々な知識を与えてくれたのがレオンだった。
この部屋に結界を施したのも彼である。彼はゆっくりとカムイへと近付く。
「カムイ姉さん」
名前だけを口にし、レオンは足を止めた。
「……こっちを見て、姉さん」
「……」
カムイはなかなかそれに従わなかった。
重い沈黙がふたりの間に立つ。その静けさに、どうしようもない恐怖をカムイは感じた。
レオンがもう一度カムイの名を呼ぶことで、その静寂は名残惜しそうに去っていく。
少女がやっと目を彼の方へと向ける。横たえていた身体を静かに起こして。
レオンは歩み寄る。狭まっていく距離に身を震わせるカムイへと。
「そんなに怯えなくていいのに。何も僕はカムイ姉さんを殺しに来たわけじゃないんだよ?」
むしろ、その逆なんだけどな、と彼は小声で言った。
カムイは赤い目を向けたまま、ゆっくりと首を横に数回振る。
幾ら懇願されてもこの状況を受け入れるわけにはいかない。カムイの決意は堅かった。揺れる蝋燭の炎とはまるで違って。
レオンは「そう」とだけ言うと、また彼女へと近付く。
「カムイ…姉さん……」
彼の手が伸びてくる。その手が触れたのはカムイの頬のあたり。
彼の手は冷たくはなかった。優しげに触れ、熱を灯すかのような、そんな手だった。
カムイは戸惑いをその顔に映し出す。こんな風に優しく触れられるなど思ってもいなかったのだろう。
「このまま時間が止まってしまえばいいのに。そうしたら僕らは、穏やかな気持ちで一緒にいられたのかもしれない」
レオンの声はどこか哀しげだった。いつもの声ではなかった。その言葉を聞いたカムイの目は、レオンの目によく似ている。
もし自分が純粋な暗夜の人間であったなら、こんな現実は無かっただろう。
レオンたちと同じように、この暗夜王国で生を受けた存在であったのならば。
ふたりからは酷く遠く離れた空で瞬く星がそっと流れる。願いをかけることは出来ない。
カムイは一瞬だけレオンたちと共に生きていた頃の表情を弟へと向けた。
しかしそれはすぐに消して、ふたたび首を振る。横へ、何度も。
「レオンさん……私は……」
あなたのそばにいるべきではありません――そう言おうとしたが、声にならなかった。
自分は燦々と光の降る白夜王国の王女で、神刀「夜刀神」を振るうことで、醜い戦乱で揺らぎ多くの人々が傷付くだけの世界を変えなくてはいけない存在。
彼は暗夜の王子。歩む道を違えた自分たちが共に生きることなど出来ないのだ、と事実を口にしようとしたというのに。
代わりに涙が溢れた。ここに閉じ込められるようになって、いったいどれだけの涙を流したかわからない。
ぽろぽろと溢れこぼれていく涙を、レオンの指がそっと拭った。
彼は優しい目をしていた。それに加え、その指は愛おしげだった。そう、あの頃とまるで同じだった。
カムイはレオンにしがみついて号泣する。
自由を奪い、可能性を隠す冷たい檻でしかなかったこの部屋が、色を変えていく。
レオンは姉の背に手を回し、何度も何度も擦る。カムイが泣きながら弟の名を繰り返す。
心が壊れそうだった。痛くて痛くて仕方がなかった。カムイも、レオンも。
それでも時間は流れていく。誰もゆがめることの出来ないものは、止まることを知らずに。
明けることのない夜が続く。それはどこまでも冷たくて、恐怖を感じるほどに静かな夜。
獣の唸り声も、梟の鳴き交わす声すらもしない。
暗夜王国の第一王子マークスはゆっくりと階段をおりていく。
乾ききった自分の足音はやけに高く響き、何かのカウントダウンのようにも聞こえた。
彼が向かうのは、血の繋がらない妹が閉じ込められている小さな部屋。
その妹は、自らの出生とそれを取り巻く残酷な現実を知ってこの国を去った。共に育ったマークスたち――きょうだいを裏切ってまで。
彼女がここにいるのは、マークスの弟にあたるレオンとの戦いに敗れたためである。
カムイという名の妹は白夜王国のきょうだいや仲間たちと引き離され、絶望の淵にいる。
マークスは彼女のことを大切に思っていたし、それはカミラやレオン、エリーゼも同様。
勿論、カムイ自身もきょうだいのことが大切だと言っていた。それは、北の城塞での生活を送っていたあの頃から、何度も聞いたセリフだ。
だが、彼女は暗夜王国を去った。鋭く光る神刀「夜刀神」をマークスたちへと向けたのである。
あの日のことをマークスは忘れることが出来ずにいる。伸ばした手が彼女の手に掴まれることはなかった、あの時のことを。
考え事をしながら階段をおりていき、とうとうその扉の前へと辿り着く。
マークスは一度深く息を吸い込んだ。
扉の向こうにいるカムイはきっとその赤い目でじっと自分のことを見るだろう。
ここから出してくださいと懇願するだろうか。それとも、希望というものをもう掴めぬ状態になっているだろうか。
どちらにせよ、マークスはカムイを開放する気はなかった。愛する妹であるからこそ、彼女の望みを叶えてやるわけにはいかない。
レオンが幾重にも張った結界。手を当てて中へと入る。数回ノックして自らの来訪を告げつつ、扉に手をかける。
軋む扉。もしかしたら自分の心も同様に軋んでいるのかもしれない。
重い扉が完全に開く前に、マークスは自嘲的な笑みを浮かべた。
「――カムイ」
マークスは妹の名を呼んだ。
その妹は前回同様、ベッドの上に腰を下ろしていた。
長い銀色の髪はあちらこちら絡まり、義兄を見るその瞳はどこか虚ろで、なんとなくやつれた印象を受ける。
無理もない。彼女がここに閉じ込められて、そう短くはない時が流れたのだから。
カムイはマークスの名を呼ぶことはしなかったが、その目に存在を映し出すとどこか哀しげな表情を見せた。
マークスは彼女にとって剣を教えてくれた師であり、敬愛する存在である。
「……」
黙り込むカムイ。マークスはそんな彼女の目が腫れていることに気付く。
泣いていたのだろう。その涙の理由と意味を、彼は何となく察した。
少し前の自分であれば、悲しみの滲む妹の背中を擦ってやっていたかもしれない。
自分たちは小さい頃から家族として育ってきたのだ。カムイのことは妹として深く愛している。
それは今も変わらない。ただ、その愛の形は少し歪んでしまっているかもしれなかったが。
マークスは一歩彼女へと近寄る。カムイは特に反応を見せなかった。ただ、まだどこか潤んでいるように見えるその目を逸らさずにいるだけ。
「あの頃に戻ることが出来たなら、私たちはまた幸せになれたのだろうな」
彼はゆっくりと言う。
言いたいことは山ほどあった。
マークスは、閉ざされてしまった未来のことを時折思っては黒に沈む日々を過ごしていたのだから。
だが、今言葉にすることが出来たのはそういったものだけであった。
カムイは無意識に兄の名を呼んで、目を伏せる。それは自分も同じだと言っているようなものだ。
きょうだいとして一緒に生きていたあの日々は、カムイにとっても、マークスにとっても、最も幸福であった時間。
それは恐らくカミラとレオンとエリーゼも同じだろう。自分たちは、仲の良いきょうだいであったのだから。そこに血など関係ない。
「だが……カムイ、お前をここから出すわけにはいかない」
「……」
「わかるな? ここからお前が出たら、私たちは戦わなくてはいけない」
それはまた殺し合わなければならなくなる、ということだ。
剣を手を血で汚し、大切なはずの存在を傷付けなくてはならないという意味である。
白夜王国の王女という立場にあるカムイと、暗夜王国の王族であるマークスたちは。
数分間の沈黙のあと、マークスはまた口を開く。顔には苦悩が刻まれている。
「私は――それを望んでいない」
カムイも同じ気持ちだった。戦いたくない、という部分は。
自分から手を離しておきながら、このように思うのはおかしいかもしれないが――それでも過去のすべてを棄てることは出来ずにいる。
「……お前には生きていて欲しい。お前と私に血の繋がりが一滴もなくても、カムイ……お前は私の妹だ」
「マークス兄さん……」
少女が震える声を発すると、一瞬、マークスは穏やかな目をした。
それはカムイのよく知る兄の姿だった。
ふたたび静寂が訪れる。しんとした空気はどこか冷たい。
光の届くことがない国のきょうだいは、互いを思い合いつつも、消せない痛みに耐え、苦しみに喘いでいる。
「……でも、兄さん。私は…私は、ここにいてはいけないんです。マークス兄さんたちが私を『生かすため』にここへ閉じ込めていたとしても……私のことを大事に思ってくれていたとしても……」
カムイの言葉はやはり震えていた。
それでも声を紡ぐ少女の決意は堅いものだった。
そう簡単に揺らいでしまうものであったなら、カムイはここまで戦うことなど出来なかっただろう。
マークスはその目に悲しみを落とす。少女の答えはわかっていただろうが、それでも。
もしかしたら、既にひと月くらいは軽く経過してしまっているのかもしれない。
カムイはそんなことを思いつつ、目を閉じた。
瞼の裏側には、黒き国と白き国のきょうだいたちの姿がある。
どちらも大切な存在であることに変わりはないが、どちらに対しても複雑なものが芽吹いている。
カムイは白夜に生まれたが、幼い頃に暗夜に攫われて、そのままその国の第三子として育てられた。
すべてを知り、戦場で両国のきょうだいたちが対峙したあの時、少女は決断を迫られた。
どちらの国の人間として戦いに身を投じるか――。
育った国のきょうだいとともに、暗夜の王女として戦うか。
生まれた国のきょうだいたちと、白夜の王女として戦うか。
選べる道はひとつだけだった。そして、カムイは後者を選んだ。
育ての父であるガロン王から授かった魔剣のこと。犠牲となった白夜の民と、産みの母。
彼女はそれを抱えたまま、光無き暗夜王国に戻ることが出来なかったのだ。
その行為がきょうだいたちを悲しませ、苦しませてしまうことも、わかっていたけれど。
「……」
時間の感覚は完全に狂ってしまった。
心だとかそういった部分も、このままではおかしくなってしまうかもしれない。
外界から完全に隔離されたこの部屋での日々。
何度きょうだいたちに「ここから出して欲しい」と言ったのかはもうわからない。
マークスもカミラもレオンも、複雑な目をしつつも首を横に振るだけ。
エリーゼは彼らと少し違った表情をしつつも、頷くことは出来ない様子だった。
このまま、自分は植物のように生かされるだけなのだろうか。
前にマークスは言っていた。ここから出たらまた殺し合わなければいけないのだと。だから、ここから出すわけにはいかないのだと。
それでもカムイは外の世界を望む。それは断じてマークスたちと戦いたい、というわけではない。
けれど、上手く言葉に表すことが出来なかった。ここから出たいという願望に連なるものすべてを。
* * *
「……レオンおにいちゃん?」
暗夜王国第三王女であるエリーゼは自室に戻る途中で、兄であるレオンと会った。
レオンはどうやら書庫から自分の部屋に向かうところであったらしく、幾つかの本を手にしていた。
彼は妹の声によってその存在に気付くと、静かにその目を彼女の方へと向ける。
その表情には苦悩が刻まれていた。エリーゼは兄へと近付く。
「こんな時間にどうしたんだ?」
レオンが問う。普段であれば、エリーゼはもうベッドの中にいる時間である。
妹は身を縮こませた。レオンは仕方ないな、と僅かに笑みを浮かべる。何も叱っているわけではないのに、と。
そんな兄に対して、エリーゼは素直に答えた。
「あたしは…なかなか眠れなくて少し歩いてたの……」
「眠れない?」
「うん……」
こんなところで話すのもなんだから、とレオンは妹に言った。
ここからならばエリーゼの私室より、レオンのそれの方が近い。
兄妹は冷えた廊下をゆっくりと歩き始める。その間、エリーゼはずっと俯いていた。
長い睫毛の奥にあるアメシストの大きな瞳には、複雑な思いがある。
それは確かに自分たちの姉であったはずの彼女――カムイへの思い。
エリーゼはカムイによく懐いていた。北の城塞で暮らす彼女のもとに、最も会いに行っていたのはエリーゼである。
世界で一番好き、と言って抱きつく様子をレオンは何度も見ている。
その度に無垢な姉であるカムイは少し困ったような笑顔を浮かべていた。
あの頃は幸せだった。過去は現在から遠ざかるほどに幸せな記憶となっていく。
もう二度と戻ることが出来ないのだと理解しているつもりだけれど、それでも望みたくなってしまう。
マークス、カミラ、カムイ、レオン、エリーゼ。皆がそう思っているに違いなかった。
扉を開ける。レオンとエリーゼは目的地であるところのレオンの私室の前に立った。
そこには見張りの兵の姿もあり、帰ってきた部屋の主とその妹に敬礼する。
こんな時間に、といった疑問をその顔に浮かべつつも兵は何かを追求してくることはなかった。
部屋に入り、エリーゼはいつもの椅子に腰を下ろす。それにレオンも続いた。
レオンがエリーゼの勉強を見てやることも多かった。その時、エリーゼは決まって今座った椅子に腰掛ける。
それはちょうどレオンの右隣の椅子。テーブルの中央には白い薔薇が生けられていた。
「ごめんね、おにいちゃん。こんな時間なのに……」
「気にするなよ、エリーゼ」
僕も眠れないのは同じだから、とレオンは続ける。
問わずともわかった。エリーゼがなぜ眠れないのかは。
それもまたレオンと同じ理由であるからだ。
もしかしたら、兄であるマークスと姉であるカミラも同じような状態なのかもしれない。
「あたしね……この前、はじめてカムイおねえちゃんのところに行ったの」
レオンは黙ったまま妹の次の言葉を待った。
エリーゼは何日も前にカムイがあの部屋にいることを知らされていた。
彼女を囚えたのが今目の前にいる人物――レオンであることも、同時に。
だが、なかなかそこへ行く許可がおりなかった。
それはエリーゼがまだ幼いという理由はとても大きかったが、他の理由もあったという。
兄姉は、小さな妹のことを考え思うが故にそうしていたのだ。
「おねえちゃんは変わってなかった。あたしの大好きなカムイおねえちゃんのままだった……」
「エリーゼ……」
「――ねえ、レオンおにいちゃん。カムイおねえちゃんは今、どうしてると思う?」
エリーゼは問い掛ける。
涙で濡れたその瞳を兄へと向けて。
「……どう、してるんだろうな」
レオンはそう答えるのがいっぱいいっぱいだった。
エリーゼがカムイを愛するように、レオンもカムイを愛している。
それは、マークスとカミラも同じこと。
裏切り者であるカムイに歪んだ思いを抱いているのも事実ではある。
それでも、根の部分では今も変わらず彼女を大切に思い続けているのだ、自分たちは。
だからこそ、あの場所から彼女を出すわけにいかない。
囚えられた小鳥。冷たく小さな檻。羽ばたくことの許されない翼。
カムイがあのままであることが、今の自分たちをなんとか繋ぎとめている。そう、危ういバランスで。
「あたしはカムイおねえちゃんが大好きなだけなのに、一緒にいられないのって……つらいよ」
カムイを開放すれば、彼女はふたたび自分たちきょうだいの敵になる。
そうすれば待ち受けているのは深い悲しみと激しい痛みだけだ。
自分たちを、自分たちと彼女との記憶を、思いを――そしてカムイ自身を守りたいが為に彼女から翼をもぎ取った。
エリーゼは戦いを望んでいない。レオンも出来れば戦いたくはないと思っている。マークスやカミラも同じだ。
その戦いを避ける為に、このような状況を作った。それがカムイの心を蝕むものであったとしても。
エリーゼとレオンがそんな会話を交わしている頃――。
「――マークスお兄様」
カミラは兄の名を呼びながら、彼の私室の扉を開けた。
暗夜王国の第一王子マークスは、椅子に座り何枚もの書類に目を向けつつ羽ペンを走らせていたが、妹カミラの来訪に気付くと、その手を止めてそちらを見る。
カチコチと時計の秒針が進んでいく音は、まるで空間を均等に切り分けているかのようだ。
カミラの手には古い書物がある。それはマークスがカミラに書庫から探すように、と頼んでおいたものである。
波打つ豊かな髪を揺らしながら、カミラはマークスへと近付いた。そしてその書物を差し出す。
「礼を言う。カミラ、探すのは大変だっただろう?本来なら私が探すべきところを……」
「いいえ。お兄様は多忙ですもの」
私でよければいつでも手を貸すわ、とカミラは微笑む。
マークスも穏やかな目を彼女へと向けた。
しかし、すぐにふたりの表情は色褪せていってしまう。胸の中に燻ぶる存在によって。
マークスもカミラもその者の名を口にはしなかった。両者ともに、その人物へ深い愛を向けているからこそ。
口にすればそういった思いはおさまることなく溢れでて、自分たちは溺れてしまうだろう。
「じゃあ、私は部屋に戻るわ」
「ああ……」
「また何か手伝えることがあったら、いつでも言って頂戴」
「わかった。だがもうこんな時間だ、お前はゆっくり休め」
「……ええ。ありがとう、マークスお兄様」
カミラはもう一度微笑んだが、どこか引きつった笑みになってしまった。
兄はそれに気付きつつもただ背を向ける妹を見守るだけだった。
また、時計の分針が進む無機質な音がする。やらねばならないことが終わっても、眠りにつけるかどうかは謎だった。
マークスの私室から出たカミラは、ゆっくりと自分の部屋へと歩き始める。
しばらく進んだ頃のことだった。
冷えきった廊下、自らが歩む地点から少し先に、金色の髪をふたつに結い上げた少女の姿が見えた。
小さな身体。その髪は縦に巻かれており、彼女が進む度にぴくっと跳ねる。
カミラは戸惑いながらもその人物の名を口にする。
「……エリーゼ」
名前を呼ばれたエリーゼは、少しだけ間を置いてから振り返る。
そして、どこか悲しげな目を姉であるカミラの方へと向けた。
カミラおねえちゃん、と呼ぶ声はいつもよりもずっとか細い。
弱々しいその声にカミラの心がぐらりと揺れ動いた。足を早めて近付く。
末の王女である妹の目は充血していた。カミラはエリーゼの肩にそっと触れる。
何かあったの、と問い掛けることはしなかった。問い掛けずともわかったからだ。
エリーゼがこんなところで、それもこんな時間にひとりでいるのだ、理由が無いわけがない。
「あたし、さっきまで、レオンおにいちゃんのところにいたの……」
妹はカミラよりも先にそう言った。そんなエリーゼを見、カミラは「そう」とだけ答える。
恐らく眠れずにいたエリーゼを見かけたレオンが、しばらく妹の話し相手になっていたのだろう。
レオンは氷のように冷たい部分を持つが、それと同時に家族に対しての優しさも持っている。
エリーゼはレオンを慕っている。マークスにも、カミラにも。もちろん――カムイに対してもそうだった。
いや、そうである、と現在進行形で言ったほうが良いのだろうか。
カムイがあの場所に閉じ込められていることを、エリーゼはずっと前から知っている。
それに、あの部屋に行ってカムイと話すという許可も下り、エリーゼも久方振りに彼女と話を交わしたと聞いている。
カムイに会うことでまだ幼い少女の心は揺れ、痛んだのだろう。
エリーゼはカムイによく懐いていた。自分たちには到底出来ないほど無邪気な笑みを浮かべて、カムイと接していた。
そこに裏などはない。カムイが暗夜を離れた事実にきょうだいたちは深く悲しんだ。
それと共に、怒りや憎しみといった醜いものも芽生えた。だが、エリーゼだけは違ったのかもしれない、とカミラは彼女の背を撫でつつ思う。
「ねえ、カミラおねえちゃん……」
「なあに?」
「……カムイおねえちゃんとあたしたちは……戦わなきゃならないの?」
潤む目を妹は姉へと向ける。
できれば否定して欲しい、とその顔には強く刻まれていた。
しかし、カミラは首を横に振ることはしなかった。
嘘は時に優しさにもなる。しかし、現実から目を逸らすことは逃げというものに繋がっている。
優しさで包みあげてやりたい気持ちはあった。
だが、ここ暗夜王国の王女であるカミラやエリーゼは、逃げるわけにはいかないのだ。この苦しい現実からは。
「……そうね。もしかしたら、そうなるかもしれないわ……誰も、そんなことは望んでいないけれど」
「カムイおねえちゃんも、そうなの?」
「……どう、かしらね」
あやふやにそう答えつつ、彼女は最愛の妹の姿を心の中に思い描く。
カムイがあの部屋から逃げ出たら、間違いなく戦いになる。
カムイはあの部屋から出ることを望んでいる。
それはつまり、戦いを望んでいることになるのだろうか、そこまで考えてカミラは首を横に振った。
彼女はそんな人間ではない。出来れば戦いを避け、力を合わせることで世界を変えたいと願うような人物だ。
だが、それが甘い考えであるとカミラやマークスはわかっている。恐らくはレオンも。
目の前にいるエリーゼはどうだろうか、カムイがその望みを口にすれば「あたしもそう思うわ」と頷くかもしれない。
話し合いですべてを解決させて、手を取り合って生きていこうと、そういった平和的な方法を選ぶかもしれない。
しかし世界はそう単純ではないから、カムイやエリーゼがそうしようとしたところで、全てが丸く収まるわけではないのだろう。
カミラは妹の頭をそっと撫でる。慈愛に満ちた眼差しで。
「エリーゼ。あなたはもう眠りなさい。大丈夫、カムイはあの部屋にいるのだから、ね?」
「――うん」
「いい子ね……」
カミラはエリーゼをそっと抱きしめ、その手を軽く握ると、すぐ離し「おやすみ」を告げた。
妹は姉に背を向けて自室へと歩き出す。それを最後まで見守ると、カミラは踵を返し、あの暗い部屋へと向かうのだった。
カムイはゆっくりと瞼を開く。そこにあるのは変わらない光景。
まるで、時間が停止してしまったかのように静かな部屋。
もしかしたら、本当にそうなってしまったのではないかとすら思う。
だが、その感覚は唐突に崩された。控えめに扉がノックされたことによって。
カムイはベッドに座り込んだまま、その扉に目を向けた。
重い扉が開かれ、黒い鎧を纏った女性が入ってくる。
腰下まである長い髪は紫色の波のようで、それとよく似た色の瞳はカムイのことをとらえた。
カムイは無意識に女性の名を口にした――「カミラ姉さん」と。
「ああ、カムイ……私のカムイ……!」
カミラは微笑んだ。愛おしそうにカムイのことを見つめている。
暗夜王国の第二王女であり、血の繋がりの無い姉であるカミラはカムイのことを溺愛していた。
そしてそれは道を違えた今も同じであるらしく、静かに妹へと近寄って、またその名を口にする。
そんな姉に対し、カムイは複雑な感情を抱きつつ言葉を綴る。
あの頃よりも、ずっと弱い声で。あの頃よりも、酷く震えた声で。
「カミラ姉さん……私のことを思ってくれるなら、ここから――」
そこまで言ったところで、姉であるカミラは妹の唇に自らの人差し指を当てそのセリフを遮った。
「この前も言ったわよね?聞き分けて頂戴、カムイ」
「――」
「これ以上、あなたを苦しませるわけにはいかないの……」
全部あなたのことを愛しているからなのよ、とカミラは続ける。
彼女や他のきょうだいたちの話から、カムイは自分が死んだことになっていることを知っていた。
光の届かない天蓋の森で、暗夜の王子であり、優秀な魔道士でもあるレオンによって殺されたということになっている、と。
そして秘密裏にここへと閉じ込められ、一切の自由を奪われているということを。
きょうだいたちは絶対の存在である父――ガロン王をも騙してカムイのことを生かしているのだ。
「だから、わかって。カムイ。私たちはあなたを殺したくなんか……いいえ、もう傷一つ付けたくないの。ここから出たら、あなたはまた私たちと戦わなきゃならなくなるのよ」
縋るようなカミラの言葉。
そこにあるのは家族への深い愛情。血の繋がりなど関係なく、ただただ存在する、妹への愛。
カムイは泣きたくなった。どうして自分たちはこんな風に苦しまなくてはならないのだろう、と。
「……私だって、姉さんたちと戦いたいわけじゃありません……」
「……」
「マークス兄さんも、カミラ姉さんも……レオンさんも、エリーゼさんも、私にとって大事な人たちです……でも」
カムイはそこで言葉を飲み込んだ。カミラはその途中までのセリフで、全てを察したような目をする。
彼女の言っていることに嘘は一切なかった。大事に思っている、という言葉には。
だが、そこで突然部屋の扉が開かれた。ばん、という音に驚いたのはカムイだけでなく、カミラも同様だった。
暗いこの部屋に入ってきたのはレオンであった。
レオンは躊躇いもなくふたりに近付く。カツンコツン、という足音は姉ふたりの間で響く。
彼はカムイのことを見た。カムイもまた彼のことを見つめる。
どこか緊張感のある静かな時間だけが流れた。
レオンは一度足を止めたが、ふたたび足を進めると、カムイのすぐ前に立つ。
狭まる距離に、少女の胸はぐらりと揺らぐ。この前、彼が――レオンがこの部屋に来たとき、自分は彼に縋り付いて泣いた。そのことを思い出したのだ。
レオンも以前のことを思い出しているのかもしれない。彼の眼差しはカムイのそれに似ている。
カミラはそんなふたりを見て、片手を自らの胸に当てる。彼女の表情もまたひどく複雑だった。
どくんどくんという心臓の音がする。それは生の証。
暗夜と白夜はそれを奪い去る行為を続けている。それは、ずっとずっと前から。
カムイという存在は鍵だった。白夜王国の王女としてこの世界に生まれ、暗夜王国の王女として育てられた彼女は。
ガロン王が白夜を虐げる為にカムイを使ったことは、本人自身も知っていることだ。それがあの日の選択に繋がっていた。
「もし――カムイ姉さんが僕たちの本当の家族だったら……」
「ええ、レオン。もしそうだったなら私たちは、今もあの頃みたいにずっと一緒にいられたかもしれないわね」
姉と弟の会話を見聞きし、カムイは胸が押し潰されるような思いを抱く。
すべては仮定の話だ。しかし、そうであったらどれだけよかっただろう。
カミラもレオンも、もちろんカムイも同じことを願って、同じことを思って、そして俯いた。
こんなに近くにいるというのに、重ねることの出来ない心。痛みを抱えたまま、自分たちは現実を見なくてはならない。
「お願いです……私を……」
そこでカムイの言葉は切れた。
レオンとカミラは顔を上げ、彼女の姿だけを見た。
真紅の瞳からは大粒の涙が溢れている。
カムイはそれを堪らえようとしていたが、今回もそれが出来なかったらしい。
レオンは以前のようにその涙を拭い、カミラは彼女の背を擦る。
姉も弟も、カムイという名を何度も繰り返しつつ。
いったい少女は何を願おうとしたのだろうか。
ここから出して欲しいと繰り返し願おうとしたのか。
それとも、それとは違う願いを絞り出そうとしたのか。
同じ世界で生きることが許されない黒き国のきょうだいたちに、何を告げようとしたのか――その答えは、カムイ本人しかわからなかった。
泣き疲れたカムイは、いつの間にか意識を手放していた。
狭間で揺れる彼女のことをレオンはそっとベッドに横たえると、その顔をじっと見つめた。
あの頃と変わらない瞳で、あの頃と変わらない声で、自らに眼差しと言葉を向けていたカムイのことを。
カミラも弟と妹の様子を見て、どこか痛々しそうな表情をする。
言いたいことは言った。レオンも、カミラも。
それでいて、分かり合うことが出来ない現実が辛かった。
「……私は部屋に戻るわ。レオン」
カミラはしばらくの間を置いてからそう言って、部屋の扉の向こうへと消えた。
レオンの返事を待たずに。いや、待てなかったのかもしれない。
妹のことを心の底から愛するがゆえに、立場が変わってしまった今の彼女を見続けることが苦しかったのだろう。
彼もそうだった。そうだったが、もうひとつの想いがレオンのそれを奪う。
横になるカムイの寝顔はあの頃と変わりがない。
目を開ければ、また自分に優しく柔らかな笑みを向けて「レオンさん」と呼んでくれるような、そんな錯覚に陥ってしまいそうになる。
家族で、きょうだいで、心も手も繋ぎあわせていたあの頃の自分たちは、もう遥か彼方へ遠ざかってしまったというのに。
「カムイ姉さん……」
ぽつりと名を呼ぶ。返事はない。カムイは今、この捻れた現実から離れた場所にいるのだ。
そんな彼女はこの痛みを伴う現実世界へ戻ってきた時、先ほどのセリフの続きを言うのだろうか。
それを考えると怖くなった。彼女の願いを知るということに、どうしようもない恐怖を覚える。
だがこの部屋から出られない自分がいる。カムイという存在から離れられない自分が、確かにここにはいるのだ。
レオンはベッドサイドの椅子に座った。相変わらず暗い部屋だ。
蝋燭は灯されているものの、その光は弱々しい。
だが、眩しいほどの光は、自らの淀んだ部分も照らしだしてしまうから嫌いだった。
このくらい暗い方が自分にはあっている。レオンはそんな風に思う。どう足掻いても自分は暗夜の人間なのだから。
しかし、カムイは違う。彼女も同じように闇に属する国で育ったが、その身体には白夜の血が流れている。
彼女が自分たちから離れていった時、彼女は忌々しい存在になったと決めつけた。
だけれども記憶は、思い出は、全く消え失せることがなかった。逆に時が流れれば流れるだけ色濃くなっていくようだった。
その度に国を出て行ったカムイという姉の名を胸の中で何度も叫んで、独りの時は泣きたい気持ちにすらなった。
すべてはひとつの想いと繋がっていた。愛するカムイと一緒にいたい、という、甘い想い。
それを否定しようとしても出来なくて、レオンはなおも苦しんだ。
カムイも苦しんでいるのだろうか、と返事のない問いを繰り返すこともあった。この光がない世界で。
「……」
レオンはただカムイのことを見つめる。
目覚める気配はない。
それでも目覚めへと彼女は静かに歩んでいる。
目が覚めた時、レオンとカムイはまたしても敵と敵という関係で視線を絡ませねばならないのだろうか。
暗夜の王子と白夜の王女。それはふたりの関係性を表す重い現実。
彼女はまたここから出して欲しいと繰り返し願うかもしれない。
レオンはその願いを叶えるわけにはいかない。
もしかしたら別の願いをカムイは口にするのかもしれない。先ほど途切れた言葉の続きが、そうであったのならば。
そうしたらレオンはどんな答えを出せばいいのだろうか。
目を伏せ、レオンは心の中で彼女の名を呟いた。
「……ん」
どれだけ時が流れただろうか。
もしかしたら何時間も経過したのかもしれない。
逆に、数十分しか経っていないのかもしれない。
考え事に耽っていたレオンはカムイの零した声を聞き、はっとした様子で彼女を見た。
カムイはゆっくりとその瞼を開く。長い睫毛はまだ涙で濡れており、その痕跡は頬にもあった。
目を覚ました彼女は虚ろな目をレオンの方へと向けている。
「レオ……ン、さん……」
「――」
「こんなところに、いたんです…ね……」
カムイが身体を起こす。布の擦れる音がした。
彼女はぼんやりとレオンのことを見ると、小さく微笑った。
それはあの頃とまるで同じ姉の姿。
「やっと……会えました、ね……」
「……え?」
「ずっと…探していたんですよ……」
「カムイ、姉さん……?」
カムイはどうやら完全に目を覚ましたわけではないようだった。
半分は夢の世界にいる。曖昧で、朧気で、なによりも脆く儚い世界に。
目の前にいるレオンを、夢の中で見たレオンと混同しているようだ。
そんな姉のことを見て、レオンは戸惑った。
目を覚まさせるのは簡単なはずだった。軽く身体を揺さぶったり、大きな声を上げれば、彼女は現実に戻ってくるはずだ。
しかし、言葉が出て来ない。手も全く動かない。淡く甘い夢の続きを共有したいと願ってしまう自分がいる。
「……いつも一緒にいたのに…遠くに行ってしまったあなたを……」
どこか泣き出しそうな声。
それは晴れているのに降る雨のよう。
彼女はあやふやな世界でレオンのことを探し続けていたという。
だが、それはこっちのセリフだ、とレオンは言いたかった。
現実で離れていったのはカムイである。手の届かないほど遠くへ離れていったのは。
しかしカムイは続ける。その目はまだ腫れたまま。
そんな彼女の真っ直ぐな言葉は、レオンの熱い部分を優しくも残酷に抉った。
「もう、離れたくなんか……ない……んです……」
「姉さん……」
レオンは思わずカムイのことを抱きしめた。
ふたりの間にあるこの夢がほつれていくのは承知で。
彼女の見た長い「夢」が、願望という意味を持つ「夢」と繋がっているのだと知ってしまったから。
ひらひらとそれが解けていく。
花が散っていくかのように、音もなく、ゆっくりと、しかし確実に。
足元の光は次第に弱まっていって、ついには消えてしまう。
残された黒の中で、カムイとレオンは抱き合っていた。
現実が残酷なままふたりを出迎えていたが、レオンもカムイも相手の身体を引き剥がすことはしなかった。
否、出来なかった。ここで離したらもう二度と触れることも出来ない気がして。
名前を呼ぶ。両者共に、今、一番側にいる者の名前を。
それは、番で鳴き交わす鳥かなにかのようだった。愛することしか知らない、本能のままに生きる野生の鳥のように。
「カムイ……」
何度目になるかわからない呼びかけに、カムイは「はい」と答えた。
その間もふたりは抱き合ったままで、互いの熱を繋げたままであった。
レオンは静かに言う。このままの状態ならば、ずっと僕らは一緒にいられるのだと。
白夜王国第二王女カムイは戦いでその命を散らしたことになっている。
ガロン王へそう伝えてあるのだ。レオンやマークスたちにとって、絶対の存在である父王には。
だから、この結界を張ったこの部屋にいる限り、カムイの命は脅かされることがない。
レオンだけでなく、マークスたちも彼女に会いに来るだろう。
その間はきょうだいとして生きたあの頃と変わらない関係でいられる。
「でも……」
カムイはレオンの言葉を静かに聞いていたが、変わらない返事を口にした。
それはレオンの想像していた返事でもあった。
自分はここに居続けることが出来ない、と。
しかし、彼女の言葉はそれで終わりではなかった。
弟であり、かけがえのない存在の腕の中で、少女は言う。
「戦いが全部終わったら、私たちはまた一緒に過ごせると思うんです……」
レオンには甘い考えのように思えた。世界を知らずに育った彼女らしい言葉だった。
だが、そうなればいいと願う自分もいた。
もうきょうだいとしてではないかもしれない。
それでも、全部終わって、この手を汚す必要が無くなったら――また手を取り合うことが出来るかもしれない、という彼女の考えが。
カムイは少しだけ自分と彼の肌を離すと、今度はその澄んだルビーのような目で彼を見る。
「そうしたらまたマークス兄さんやカミラ姉さん、エリーゼさん…もちろんレオンさんも一緒に……笑い合って、お話したり出来ると思います」
「……」
「今までとはちょっと違うかもしれませんが、私はそんな未来を望んでいるんです。レオンさんたちと戦って身も心も傷付けて…自分だけが幸せになりたいわけじゃ、ないんです。みんなで一緒に生きていける日を願っているんです……」
カムイの声は震えてはいない。
どこまでもまっすぐで、凛とした声だった。
レオンの心に刺さっていた棘がとけていく。
深く深く突き刺さっていたそれが、ようやく。
「もしそんな未来が来たら、レオンさんに教えてもらいたいことがあるんです。私が知らずに育った暗夜王国の美しい色を……あなたの言葉で知りたい……」
少女はそう言ってもう一度レオンを抱きしめる。
レオンは答えの代わりに彼女のことを抱き返した。
強く、腕に力を入れ――希望を宿す彼女の身体を。
いつか来ると信じたいその未来で、また再会出来ることを願いながら。
まだ山積みの問題も、今の彼女とならなんとか乗り越えられる気がした。
たとえ苦しみと痛みが襲いかかってきたとしても、共にあれる未来がそこに存在してくれるのならば。
title:エバーラスティングブルー