愛の別離

 窓の向こうで、空が白んでいく。新しい日の訪れである。
 ヌヴィレットは深い息を吐き出しながら、目線をその方向へと動かした。風の通り抜ける音や、小鳥の鳴く声が聞こえてくる。何の変哲もない朝だ。しかし、彼の胸は濁ったままだった。
「……」
 その理由となる存在の方へ、視線を向ける。寝台の上、銀髪の少女が眠っている。少女に起きる様子は見られない。彼女の名前はフリーナ。ヌヴィレットにとって、様々な意味で「特別」な存在となってしまった少女だ。きっとそれは、どれだけの時が流れても、変わることは無いだろう。彼女から見たヌヴィレットもまた、そうであるように。
 まだ、あの太陽が冷たい海底で眠っていた頃――もしかして、これは夢なのかな、と彼女は熱っぽい目で言っていた。肌と肌を重ね、互いの存在に溺れた直後に、だ。ヌヴィレットは何も答えなかった。この胸に広がるすべては、夢や幻といった類のものではない。現実である。だから、彼女の問いには「違う」と答えることが、正解だったのだろう。しかし、ヌヴィレットは無言を貫いた。蝋燭の火のように揺れる瞳を向けた彼女に、もう一度だけ口付けた。するとフリーナは、何もかもを察した目を閉じて、そのまま眠ってしまった。はだけられたままの胸元には、幾つもの赤い刻印が残されていた。
 それからヌヴィレットは一睡もしていない。ややあって聞こえてきた彼女の寝息に、悪夢の気配は読み取れず、安堵はしたけれど。

「う……うぅん……」
 どれだけ経過したのだろう。時計の針は、随分と進んでいった気がする。少女がゆっくりと瞼を開く。眠たげな目を何度か擦り、寝台から上半身を起こす。必然的に絡み合った視線。けれど、ふたりの間に広がったのは、沈黙だった。何か言葉を用意しようとしても、なかなか出てこないのだ。ただ時間は流れて、刻まれる。彼らの想いを置き去りにして。
「……あ、あのさ、ヌヴィレット。その……」
 重々しい沈黙を破ったのは、フリーナだった。だが、彼女はそこまで口にして、黙り込んでしまった。ヌヴィレットもまた黙している。何を言葉にしたら良いのか、分からない。空気が少しずつ、鉛のように重くなっていくのを感じる。互いを求めあった夜は、苦しいくらい幸せだった。ずっとこの時間が続けば良いと、本気で願った。けれど、現実は非情である。銀の月と数多の星たちが消え、空は明るくなる。多くの人々が目覚めて、水の街に賑わいが戻っていく。
「……えっと、その」
 このままではいけない。そう思ったのだろう、フリーナはもじもじと言葉を探している。
「……僕は、キミが好きだよ。だ、誰よりも、一番……」
「ああ」
「でも……」
 フリーナが俯く。銀糸が揺れている。同時に心も揺らいでいるようだ。
「もう、僕は……前の僕とは違うから」
 絞り出すように言う彼女へ、ヌヴィレットは唇を噛んだ。鉄のような血の味が広がっていく。彼女が何を言っているか。理解することは出来る。だが、納得はしたくなかった。彼女は神ではない。人間の少女だ。故に、あと数十年の歳月が過ぎれば、その魂は遥か遠いところへと旅立つ。これは、歪められない現実だった。水龍であるヌヴィレットは、どうあっても彼女と別れる未来に至ることとなるのだ。
「ねえ、ヌヴィレット。……僕、ひとつ、キミに頼みたいことがあって」
「……何だ」
「……最後に、もう一度だけ――僕のことを……だ、抱いて欲しい」
 フリーナの発言に、ヌヴィレットは然程驚かなかった。なんとなく、察していたのかもしれない。
「それで君は良いのか」
「……う、うん」
「……本当に?」
 敢えて問いを重ねるのは、彼なりの優しさだった。フリーナが再び頷く。頬は林檎に似た色へ染まり、昨夜の彼女を彷彿とさせる。自分たちは愛し合っている。彼女の最愛の存在は彼であり、彼の深い愛情は彼女へと注がれている。それが事実だが、ヒトと龍は添い遂げることが出来ない。永遠の愛を誓うことも出来ない。だから、最後にもう一度だけ、とフリーナは言った。
「――君が望むのなら、私はそれに応えよう」
 ヌヴィレットがフリーナを寝台へと押し倒した。大きく軋む音は心から響いてくるかのよう。
「ただ――優しくしてやれる自信は、無いが」
「いいよ。……僕は、それでも。どんなキミでも、キミはキミだから」
 ね、とフリーナが笑った。こんな状況だというのに、それはあまりにも可憐なものとして、ヌヴィレットの目に映る。早朝からこのような行為に及ぶなど、という抵抗も無いわけではなかったが、今しかないのだ。「今」でなければならない。この関係性は、日向の氷像のように儚く溶けてしまうものだから。
「……フリーナ」
 囁くように、名を口にした。彼女の華奢な身体を、上から下まで舐めるように見て、大きな手のひらを頬にあてがう。彼女の頬は既に熱を持っており、よくよく見れば、瞳も僅かに潤んでいるようだ。自分のことを待っている、ということが、瞬時に理解出来た。ヌヴィレットは、彼女の纏う寝衣を脱がしていく。ひとつひとつ釦を外すのも、少々まどろっこしい。胸をはだけさせると、ぴくりと左右の頂が存在を主張しているのが見えた。
「んあ……」
 視線を受けて、フリーナは更に頬を赤くする。ヌヴィレットはそんな彼女を見下ろし、無遠慮にその勃ち上がったところに、赤い舌を這わせた。生々しい感覚にああん、と高い声が響く。舌先で転がすように舐めると、濡れた声が大きくなる。もう片方の頂は、指で刺激を与えていく。つんつんとつついて、それから指先で摘むような形を取る。ひあっ、とフリーナが甘い声を漏らし始め、それを聞くヌヴィレットの心は、冷たいもので満たされていく。一切の穢れを知らないような少女が、淫れている。それも――自分の手によって。
「君はとても素直だな」
 ヌヴィレットが口角を上げた。その間も愛撫をやめない。何度も何度も頂点を舐め回し、指先で弾き、フリーナはただ喘ぐ。嬌声の愛らしさといやらしさに、ヌヴィレットは体中の血液が沸騰するかのような感覚を覚えた。柔肌を這う手が、するすると下方へと落ちていく。
 一切躊躇せず、下着の上から秘部に触れた。あっ、と大きな声が上がる。蕩けきった秘部から吐き出されたものが、淡色の下着を汚していた。ほう、と彼の声が聞こえる。感じているな、と続けられてフリーナは「し、仕方ない、だろ……」と弱々しい声を絞り出す。
「こ、こんなの……ぜんぶ、きっ、キミのせいなんだからな
「ああ、それは君の言う通りだな」
 最早、何の意味をなさない状態のそれを、そっと脱がす。きゃ、と悲鳴に近い声が鼓膜を揺らした。そのまま足を広げさせ、蕾に視線が落ちる。うう、と呻くフリーナにヌヴィレットが再び笑うのが見えた。
「……触れてもいいか」
「そっ、そんな、こと……わざわざ訊くなあっ……」
「では――触れるぞ」
 ヌヴィレットの指先が、そこへと伸びた。ひっ、とフリーナが声を上げたのが聞こえる。そう、とても近くで。水音が響き、フリーナは耳を塞ぎたくなった。これはあまりにも卑猥な音。濡れた肉色の花弁は彼をずっと待っていたかのように、太い指を受け止めている。奥へと沈められたかと思えば、勢い良く引き抜かれる。それを何度も繰り返されることで、更に蜜が溢れ出てきた。声も止まりそうにない。あぁ、と濡れそぼった声は、彼の理性をばらばらに砕こうとしている。辛うじて保っているそれを。
「ひあ、あっ……、ああぁ……」
「ここが君は弱いようだな」
「え、あっ……ふああっ!」
 弱点を探り当てられた上に、そこを執拗に攻め立てられる。埋められた指は、気付けば二本となっていた。体中に走る雷のような快感。だが、もっと、と強請る自分がいた。フリーナはぎゅっと目を瞑る。視覚を遮断すれば、少しはこの羞恥心も薄れるのではないかと考えて。しかし、ヌヴィレットはそれを許そうはしなかった。フリーナ、と耳元で低く囁かれる。続くのは、目を開けるようにと命じる声。娘には、それに従う道しか無かった。う、と呻くような声を発しつつ、瞼を開く。ぎらりとしたヌヴィレットの目が見えた。
「――逃げるな」
 言い放たれた台詞がフリーナを震え上がらせる。こくりと頷くような仕草を、なんとか彼女が見せることで、彼は「いい子だ」と彼女の髪を撫でた。彼の手はとても温かい。優しい熱を発している。こんな行為中であるというのに。その鋭い眼差しとの温度差に、フリーナは負けそうになる。ヌヴィレット、と縋るように呼んだ。全身の力は抜けて、寝台へ自由のきかない四肢を擲つことしか出来そうにない。
「……そろそろ、良いか」
 まだ薄暗い部屋。これは、そこで問われる最後の問い。フリーナは眉を顰めた。彼のことが好きだ。彼以上の存在は、幾らテイワットが広くとも見つけられはしない。そんな彼との最後の交わりが迫っている。ううっ、と意識せずに溢れた声。これが終わったら、自分たちは違う道を行く。ヌヴィレットは、この正義の国フォンテーヌの為に尽力し、フリーナは彼の庇護下にある街で、緩やかな時を過ごす。もう神を演じる必要は無いのだ、フリーナは人間の少女として、これからの数十年を生きるのだから。そしてその道を進む彼女の傍らに、水龍たるヌヴィレットは居ない。
「う、うん……いい、よ」
 やっと応じた彼女へ、ヌヴィレットは改めて口付ける。額へと。それは数秒後には離れ、今度は濡れた入り口に彼のものが触れていた。あぁ、とフリーナが息を漏らした。これがどういった意味を孕んだものであるのか。ヌヴィレットは知らない振りをした。粘ついた音が聞こえる。フリーナの心臓は今にも破裂しそうな勢いだ。彼は深く息を吸い込んで、その自身を彼女の奥へと捩じ込んでいく。
「……あ、ああっ、あぁ……うっ、あ!」
 盛るそれは、躊躇無く最奥を目指す。彼女の身体は侵入者を拒まない。止まりそうもない声が室内で響き渡った。一番深いところへ到達すると、ヌヴィレットは動きを止めた。平気か、と耳元で訊くが、彼女に返答する余裕はない。そんな中で、ああ、と彼も声を発する。重なった肌と肌は、ほんの少しだけ色合いが違う。灯りが僅かしか点っていないせいもあって、彼女が彼を受け止める様は、ぼやけている。好都合かもしれない。
「はあっ……あ、あ……」
 フリーナの目尻から、清い光が落ちた。雨のように何度も、何度も。それをヌヴィレットは拭う。君は何故泣いている。静かに問い質され、フリーナは滲む視界の中に居るヌヴィレットへ、こう言った――怖いくらい幸せで、涙が出るんだ、と。全くもって、想像出来ずにいた答えだった。辛いから泣いているのかと、ヌヴィレットは考えていた。この愚かで哀れな行為と、自分への失望から生じた涙ではないかとも思っていた。
「だって、僕は……も、もう、ずっと――」
 涙でぐしゃぐしゃになった顔。そこにある感情に、ヌヴィレットは目を背ける。言わなくて良い。いや、言わないで欲しい。ヌヴィレットはそう言いかけたが、彼女はそのまま口を噤んでしまった。ぽろぽろと雫を溢れ出させながら。
 そんなフリーナの背中に腕を回す。繋がったまま、彼女の身体を起こさせた。下から何度も突き上げる動きを繰り返す。ああ、あ、あ、と短い喘ぎが続く。これでは、涙の理由を誤魔化しているようだが、ヌヴィレットにはもうこの選択肢しかなかった。最後まで、彼女と。ふたりで。
 そう、これが終わったら――本当に全部に幕が下りる。自分たちが単純に愛し合う男女として、この世界で生きていたのなら、この上ない幸福を共に抱いていけただろう。フリーナ、と胸の中で愛しい名を呼ぶ。交わらない道を進むしかないのだ、これからは。だからこそ、フリーナは願った。最後にもう一度だけ抱いて欲しい、と。
「んぁ……あ、ぬぃ、れっと……」
 回らない舌で、彼女が呼んでいる。ひとつ頷いて、更に腰を動かす。肌と肌が打ち付け合う音、寝台の軋む音、結合部から聞こえてくる水の音。それらが入り混じり、何もかもを霞ませていく。フリーナ、と彼も彼女のことを呼んだ。全身を駆け巡るすべては、彼女と繋がっている。ああ、もう、そろそろ終わりだ、この時間も。迫る終幕に、ヌヴィレットはフリーナの髪を撫でる。汗で額に張り付いている個所もあった。もう駄目、と訴えるように叫ぶ彼女へ、頷いた。同時にその時を迎えるのだ――本当の意味での、終わりに。
「あぁ……ああああッ
 叫びが薄い闇を裂く。白濁が弾け、それがフリーナの肌を汚した。強すぎる快楽に、彼女がぐったりとした様子を見せる。ヌヴィレットの腕の中で、はあ、はあ、と荒れた呼吸を繰り返している。遠くで鐘の音が聞こえた。そんな時間なのだな、とやけに冷静に思える自分がいて、ヌヴィレットは改めてフリーナに向き直った。肌に残る赤と熱。それから飛び散った白。ヌヴィレットはそんな彼女を寝台に横たえる。
「……」
 愛している、と告げたかった。
 これからも、いままでも、君だけを深く愛していると。
「……」
 だがそれは、双方が諦めた想いだ。今更手を伸ばしても、ただ、すり抜けていくだけ。だから、言わないままでいい。もう太陽はそれなりの高さに昇っているだろう。終焉だ。ヌヴィレットはそっとフリーナの頭を撫でる。彼女の意識は沈みかかっていて、とろんとした目は、彼に向けられているものの、ちゃんと捉えられているかというと怪しい。
「フリーナ」
 単に名を呼び、もう一度同じ動作を繰り替す。白銀の髪は指通りが良い。
「私は、願っている」
 君が人として幸せに生きていくことを。
 この願いの為に、私は最愛の存在からこの手を離すのだ、と。
 ヌヴィレットの手のひらが離れる。空が暗くなる。晴れ渡っていたはずの街に、鈍色の雲が覆う。
「……ヌヴィ、レッ……ト……」
 彼女が吐息混じりの声で、その名を呼ぶ。
 おもむろに開かれた瞳。左右で異なった青色の眼差し。
 けれど、もうそこに彼の姿はない。まるで、霧のように、彼は彼女の前から消え去っていた。残されたフリーナは完全に意識を手放し、暫しの眠りに落ちていく。その先にも彼は居ない。ふたりは愛を確かめ合い、その上で離れ離れになった。何もかも正しいのだと、そう自分へ言い聞かせ。激しい痛みを味わい、苦しい喪失を味わい、底無しの悲しみを味わって――そうしてこれからを紬ぐのだ。曇天の街に、嘆くような風が吹き付けていく。雨の気配も近かった。

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