はじめてのしあわせを、

 窓掛けの僅かな隙間から、あたたかな陽が射し込んでいた。柔らかなその光は、新しい一日の訪れを、あまりにも優しく僕へと告げる。
 ゆっくりと上半身を起こし、目を何度か擦る。眠気がぽろぽろと剥がれ落ちていく。
 こんな風に、非常に緩やかな時を過ごす自分が居るなんて、正直なことを言って、まだあまり慣れそうにない。僕はもう、水の神を演じる必要も無ければ、舞台に上がる必要だって無いのだ。僕こそが「正義」を司るフォンテーヌの神であると、この世の何もかもを欺いて、心の奥に秘めたものを独りで耐え続けなければならない日々は――終わったのだから。
 パレ・メルモニアにあった僕の居室に比べてしまえば、この部屋は殺風景と言えるだろうし、質素なものだ。けれど、それも悪くはないだろう。シンプル・イズ・ベスト、なんて言葉も世の中にはあるくらいだ。テーブルの上には、青色の花が何輪か生けられた花瓶がひとつ。この、フォンテーヌという国でしか咲かない花であるらしく、二日くらい前、食材の買い出しついでに購入したものだった。
 手早く身支度を整えて、窓辺に立つ。濃紺の窓掛けを開ける。いつもと何ら変わりない街並みが見え、僕は息を吐く。恋人同士なのだろうか、仲睦まじく手を繋いで、街を進む男女の姿が見えた。別の方向からは、老齢の女性がゆっくりとした足取りで歩いていて、少年と少女が駆け足で、そんな彼女を追い抜く。
 ああ、とても――とても穏やかな光景だ。少し前までの僕の胸は、彼らを――フォンテーヌで暮らす民を本当に救えるのか、底知れない不安でいっぱいだった。けれど、いまはすべて救われたのだ。彼が七神を超える本来の力を取り戻し、権能を用いることで、原始胎海の水で溶けることのない「本当の人間」に民を変えることで。
「……ヌヴィレット」
 僕は、彼の名前を無意識に呼んでいた。僕という偽りの水神が去り、本来の水神が神座ごと処された結果、フォンテーヌの最高権力者となった彼の名前を。
 ヌヴィレットに会いたい。じわりと涙が溢れてくるのを、僕は認めた。僕とヌヴィレットは、ずっとずっと一緒にいた。何百年もの間、当然のように、いつも一緒だったのだ。けれど、僕が長い間、嘘を吐いていたのも事実だ。彼は紛れもなく水龍なのだけれど、僕は神を演じるただの人間に過ぎなかったのだから。
 涙は頬を伝っていくが、それを拭うことも出来ず、やがてそのまま、床へと落ちる。それでも時間というものは確実に、正確に、無慈悲に針を進めていく。カチコチと響く音が、やけに遠く聞こえたとしても。
 僕はずっと、ずっと、彼に惹かれていたのかもしれない。いや、間違いなくそうだ。いつだって、ヌヴィレットは僕の我儘に付き合ってくれていた。美味しいケーキを用意させたから一緒に食べようよ、と何度誘ったのかも分からない。ふたりだけのお茶会は本当に幸せだった。彼が渋々といった様子を見せることもあったけれど、それでも――あの時間は現実にあったことなのだ。穏やかに笑むヌヴィレットも。そんな彼と、そっくりそのまま同じ表情をしていた僕も。
「う……うっ……」
 溢れ出る涙が止まらない。全部が丸く収まったのに、僕はもっともっとと、彼を求めたがっているのだろうか。なんて強欲なんだ。それに、呆れ返るほどに我儘じゃないか。こんな醜い欲望は、暗く冷たい海へと沈めて、荒波にもまれながら塵になる日を待つべきだろう。僕は自分に言い聞かせるが、一度芽吹いてしまった感情を殺すことなんて、出来なかった。
「……?」
 立ち尽くす僕の意識を引き戻すのは、来客を知らせるベルの高い音だった。朝からいったい、誰だろう。旅人だろうか。こんな僕に会いに来るような、もの好きな奴なんて、旅人とその相棒のパイモンくらいじゃないか。ごしごしと目を擦り、涙を隠す。どうぞ、と裏返った声で応じた僕の目の前に現れたのは、淡い金色の髪をした旅人ではなかった。え、と思わず声が零れ落ちる。
「……連絡もなく突然すまない、フリーナ」
 静かに僕をそう呼ぶのは、紛れもなく――。
「ヌ、ヌヴィレット……!?」
 彼は一度頭を下げてから、僕の顔をじっと見る。
「な、なんだい? キミがわざわざ僕の家に来るなんて。なにか急な用でも出来たのかい?」
 なんとか問いかける僕の声は、あまりにも情けなく震えてしまっている。
「……特に、用があった訳ではなくてな」
「へっ?」
「私はただ、君の顔を見に来たのだ」
 ヌヴィレットの声も、なんとなく、以前より少々弱々しくなったように聞こえる。僕の気の所為かもしれないけれど。
「へ、へえ……そ、そうなのかい? まあ、とりあえず、中に入ったらいいよ」
「ああ」
 手招く僕に、ヌヴィレットは小さく頷いた。僕は彼をソファに座るように促し、彼がそこに座るのを確認すると、お茶の準備を始めた。構わなくて良い、とヌヴィレットは言ったが、僕は首を横に振った。せっかく来てくれたんだ、このくらい饗させて欲しい、と。
 カチャカチャと食器が音を立てる。ふたり分のティーカップに紅茶を注いだ。こういうのも、まだまだ慣れない。まあ、無理もない話だけれど。ヌヴィレットの前に置いたカップには、青い翼を持つ鳥が描かれており、自分用の方には赤い花が咲いている。注がれた紅茶は、芳しい香りと共に白い湯気を立ち上らせた。お茶請けが用意出来ないのが残念だ、ちゃんと前もって来ると聞いていたら、何か甘いお菓子を買っておいたのに。
「はい、どうぞ」
「ああ、頂こう」
 僕はヌヴィレットの正面に座って、カップに手を伸ばした。彼も同様に漂う紅茶の香りを嗅いでから、それに口を寄せている。熱いそれは、じんわりと身体の奥へと染み渡っていく。まだまだあまり上手に淹れられないかもしれないけれど、それほど渋くは無いはずだ。恐る恐るヌヴィレットの方に目を動かせば、彼はその涼し気な色合いの瞳を細めて、カップをテーブルへと置くところだった。
「これはなかなかに美味だな」
「ふふん、そうだろう? これはね、僕のお気に入りの茶葉なんだよ」
「そうか……それに――君が思っていたよりも元気そうで、何よりだ」
 彼はじっと僕を見ている。そんな目で見られたら――隠していた涙が姿を見せてしまうじゃないか。沸々と浮かび上がる、彼へと向ける想い。僕は、ヌヴィレットに会いたくて会いたくて堪らなかった。その願いを、彼の方から叶えてくれた。たくさんのものを失くして、ただの抜け殻みたいな僕のもとに、わざわざ足を運んでくれた。そんなヌヴィレットの優しさが、逆に怖いくらいだ。
「フリーナ?」
 気付けば俯いてしまっていた僕の名前を、彼は呼ぶ。声色はあまりにあたたかくて、必死に耐えた涙が目尻に浮かび、そのまま流れ落ちていく。いつか落としたあの涙とは違った意味合いではあるけれど、胸の奥に大きな穴を穿つかのよう。どうしよう。元気そうで何よりだ、と言ってくれたばかりのヌヴィレットに、こんな姿を見せてしまうなんて。
「……泣いて、いるのか」
 彼の声と共に、大きな手が伸びてくる。ヌヴィレットの指先が僕の涙へと触れる。それはぽろぽろと溢れ出て、止まることを知らない。
「フリーナ。……君は、何を思っている?」
「えっ……?」
「今、君が思っていることを、素直に言葉にして欲しい。君が流す、この涙の理由を、私は理解したい」
 ヌヴィレットは静かな口調で言った。僕は項垂れる。今思っていること。それを包み隠さず言葉にして欲しい、と彼は言っているのだ。そう、難しいことを要求されている訳ではない。僕自身もそう思えたのに、なかなか言葉は出てこなかった。
「……」
 カチコチと時計の針は進む。僕の抱く、複雑な感情を置き去りにして。窓硝子の向こうで、鳥が羽ばたくのが聞こえた。その次に聞こえるのは、行き交う若者たちの笑い声。
「……ッ、僕は」
「……」
「ずっと――キミに……ヌヴィレットに、会いたくて」
「ああ」
「……いつもみたいに、キミに名前を呼んで欲しくて、そっ、それで」
 心に書いた想いを、ひとつひとつ丁寧になぞるように読んだ。
「……だから、キミが……こうして……わ、わざわざ僕に会いにきてくれたことが……何も変わらずに、名前を呼んでくれたことが、すごく……嬉しかったんだよ……」
 声は段々と細くなる。けれど、ヌヴィレットは、一文字も聞き逃すこと無く受け止めてくれたようだった。そうか、と頷き、止め処無く溢れる涙を、改めて拭ってくれる。僅かに触れる、その体温。感じられるそれはあまりに優しく、更に涙は溢れ出る一方だった。
「フリーナ」
 彼が改まって僕を呼ぶ。
「私たちは決して、離れ離れになってしまった訳ではない」
「……」
「以前とは異なる部分は多々あるが……それでも、私はこうして、君のそばに居るだろう?」
「ヌヴィレット……」
 僕は、じっと彼を見つめる。彼もまた僕を見てくれている。視線が絡み合う。ただそれだけのことが、これ程までに嬉しいだなんて。
「……また、僕に……会いに来てくれるかい?」
 静かに紡ぎ出した台詞に、ヌヴィレットは間を置かずに「勿論だ」と頷いた。涙が降る。ああ、こんなにも、彼は優しいひとだったんだ。あんなにも長いこと一緒に居て、あんなにも近くに居たのに、今になって実感することになるなんて。
「ありがとう、ヌヴィレット……」
 これは、心からの感謝の気持ちだ。今までは、素直に伝えられずにいたけれど、柵から開放された今だから言える。僕はすっと彼の方に手を伸ばした。僕のものよりずっと大きな手を、両方の手で包むように覆う。
「ヌヴィレット。僕たち、何百年も一緒に居たのに……一番言いたかったことが、今の今まで言えずにいたね」
 僕の瞳に、彼が映る。
 それはつまり――逆もそうであるということ。
「僕は、キミのことが……大好きだよ」
 これもはじめて声にすることだ。水神の座から降りて、ただの人間になったからこそ、言える言葉なのかもしれない。
「……ああ」
 私もだ、と頷く彼に、僕は涙目で微笑んだ。

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