Melancholic Rain

 静かな夜だった。陽が西へと沈んで、それなりの時間が経過している。
 綺麗に磨かれた窓硝子の向こう側では、ひんやりとした風が通り抜けていることだろう。また新しい日の訪れと共に、輝く太陽が昇るその時まで、このテイワットの大地は、静寂と漆黒に埋もれることとなる――。
 本日の執務を概ね終わらせ、一息つこう、と私は冷たい水の注がれたグラスを傾けていた。今夜は久し振りに、璃月産の水を選んだ。璃月は「契約」の国。我々が暮らす、このフォンテーヌとは、大きく異なる文化や伝承の根付く国である。テイワット七国と呼ばれる国々の中でも、その繁栄は抜きん出ており、商業国家としても広く知られている。
 グラスの中の残りが、半分と少しになった頃だった。突然、「居るかい?」という小さな声と共に、部屋の扉が何度かノックされたのは。声の主が誰であるかなど、考えずとも分かる。ああ、と若干の間を置きつつ私が応じると、その人物はゆっくりと扉を開けて、姿を見せた。
「……ヌヴィレット」
 私を呼ぶ声は細く、何処か弱々しい。声の主は、華奢な身体をした少女。豊かな銀色の長髪は揺れ、左右で色の違う瞳に灯るのは、いつもとは何もかも異なる感情であり、私は直ぐ様声を発することが出来なかった。彼女の名前はフリーナ。ここ、フォンテーヌは「正義」を司る水の神によって統治される国だが――その水神とされるのがこの少女で、無論、魔神としての名も持っており、それは「フォカロルス」という。
「これは一体何事だ? フリーナ殿」
 私は尋ねる。彼女がこの部屋に来るのは、そう珍しいことではない。だが、このように何の前触れも無く突然、というのは、あまり無いことだ。急用なのだろうか。にしては、なかなか話を切り出す様子が見られないが。私はグラスを机に置いて、彼女の次の言葉を待った。ゆらりと揺れる、清らかな水。
「突然ごめん。あ、あの……今夜は、その……朝まで、ぼ、僕と一緒にいてくれないか……?」
 暫くの間俯いていたフリーナが、やっと口を開いたかと思えば、このような台詞が発せられて、私は驚きを隠せなかった。これはあまりにも――想定外の内容だった。
 彼女がゆっくりと顔を上げる。いつもと何もかも違う眼差しが、私の方へと向けられた。何も返せないままでいる私に対して「だ、駄目かな」とフリーナは声を絞り出す。突拍子もない彼女の願いに、どのような意味が込められているのか、それがまるで分からない。見えてこない。何かがあって、私のことを頼ったのだろうが、その「何か」が、一切見えてこないのだ。故に「良い」と頷くことも、「駄目だ」と突っ返す言葉も返せず、私は彼女のことをじっと見つめる。
「……」
 よくよく見れば、その細い身体が震えていることに気付く。気付いてしまった以上、この様子のフリーナを拒絶するようなことなど、出来る訳がなかった。今の彼女を独りにしてはいけないと、そんな警告が高らかに響き渡った気がした。
「……良いだろう」
 私は静かに答えた。フリーナが表情を変化させるのが見える。
「……君は、そこの寝台に横になるといい」
「キミは?」
「……私にはまだ仕事がある」
 わざとらしく、羽ペンを手に取った。本当のことを言えば、今日中に済ませなければならないものは、もう殆ど無い。どんなに小さなものであっても、嘘を吐くようなことは、良いこととは言えない。しかも、相手がフリーナであれば、それは尚更のことだ。彼女は何処と無く訝しげな顔をしたが、うん、と頷いて、ぎこちなく寝台に座る。だが、すぐにその身を横たえることはせずに、その左右色違いの目を私の方へと向けている。
「ヌヴィレット。キミは、いつも遅い時間まで起きているの?」
 フリーナが問いかけてきた。そうだな、と短く応じる私に、彼女は「ふうん」と声を漏らす。彼女とは毎日会っている。だが、こんな時間に顔を合わせるなんてことは、滅多に無いことであるし――当然、夜を共に明かすなんて経験も無い。私にとって、彼女は特別な存在ではある。きっとこれは、他者に向ける感情とは、何もかも異なる名を持つものなのだろう。だからこそ、私は、そして恐らくはフリーナの方も――ある程度の距離を保つことを選んでいた。
「眠らないのか?」
 時計の針がカチリと進む。正確に時を刻み続ける無機質な音を背景に、私は問う。
「普段であれば、君はもうとっくに眠っている時間帯ではないのか?」
「……そ、それはそうだけど……その……」
 フリーナは口籠った。朝まで一緒にいて欲しい、という願い。その理由がここに隠れているように、私には感じ取れた。とはいえ、それだけだ。隠れているのが分かっただけで、何故隠れているのかは、依然として分からないままなのだから。
 私は数十枚の書類をとんとんと整えると、ペンを置く。インク瓶もきつく閉めて、フリーナの方をじっと見た。
「……」
 いまの彼女は、まるで雨晒しの巣立ち雛のようだ。何かに怯えていて、何かに震えている。彼女には必要なのだろう、安心して過ごせる温かな寝床が。自身を優しく覆ってくれる存在が。私が、そういった彼女が望むものになれるのかは――また別の話であるかもしれないけれど。
 出来る限り静かに、私はフリーナの隣へと移動した。寝台に並んで座る私たちを見ている者など、ひとりもいない。此処は、私たちだけの空間だ。だから、聞き耳を立てる者などいない。私は改めて彼女の名前を口にする。そこでようやくフリーナが「聞いてくれるかい」と弱々しい声を発した。
「――ああ、聞かせてくれるか」
 私はゆっくりと首を縦に振る。
「……僕、その……眠るのが、怖いんだ」
 声を絞り出すようにして、フリーナが言った。そんな彼女に「何故?」と返して、私はすぐに後悔するこことなる。咄嗟に問い返してしまったが、これが最適解ではないのだと、即座に分かってしまったから。この国の頂点に立つ水の神である少女が、俯いて、震えている。
「目が覚めた時、独りになってしまうんじゃないかって」
「……」
「へっ、変なことを言ってごめん、ヌヴィレット。僕は、別にキミを――キミのことを困らせたい訳じゃないんだ……」
 何も返せない私に、彼女は酷く慌てた様子で言う。そろそろ眠るよ、と続けて寝台に身体を横たえる。ギシ、と大きく軋む音をたてた寝台へ、フリーナの長い髪がぱあっと散らばる様を、私は見た。彼女がぎゅっと目を閉じている。だが、それが無理をしているのは明白であって、私は大きく息を吐いた。それから若干の間を置いて、彼女の名前を呼ぶ。時間をかけて瞼を開く彼女。フリーナの瞳は不安で濡れていた。
「あまり無理はしないでくれ」
「え……」
 左右で異なった色を持つその瞳が、見開かれた。もともと大きなそれが、更に大きくなる。
「君の抱いている全ての不安を拭える自信を、私は持てないが――君を独りにする気も、私には無い」
 私は、そっと手を伸ばす。長さのある、銀色の髪へと。出来る限り優しく触れると、彼女の瞳から光るものが零れ落ちてくるのが分かった。それは非常に清らかなものであり、同時に心を掻き乱すだけの力を持っている。私は此処に居る、と続ければ、フリーナがばっと身体を起こして、そのまま私に抱きついてきた。
「……フリーナ」
 名を口にして、その小さな背中をそっと擦る。余程不安だったのだろう、恐ろしかったのだろう、彼女の嗚咽が聞こえる。私は何度も何度も、そこを撫で続けた。我々の生きるフォンテーヌという国には、不吉な予言が囁かれており、水神であるフリーナは、それをなんとか回避しようと模索している。その辺りに、この涙の理由があるのだろう。満足に眠ることすら出来ず、荒波の如く押し寄せる孤独感に、打ち拉がれているのだ。
「私は此処に居るだろう」
 出来る限り優しい声で続ければ、涙声が聞こえた。うん、うん、と繰り返す彼女の声が。
「だから、安心して眠るといい」
 目が覚めた時にも、私が君のそばに居ることを約束しよう――私が言うと、彼女は更に涙を溢れ出させたようだった。少しだけ身体を引き離す。大きな瞳は潤んだままだ。視界に映り込む私の姿も、滲んでいるに違いない。水彩絵の具で描かれた一枚絵のように。
「ごめん、ヌヴィレット」
 まだ震えたままの声。
「こ、こんなの、僕、すごくみっともないよね……」
「そんなことはない」
 私が即答すると、フリーナは「えっ」と小さく声を落とす。潤む瞳に宿る光が揺れた。
「私は君をそのように見たことなど、一度もない」
「……ヌヴィレット」
 寧ろ、私は喜ばしくも思えるのだ。彼女が自分のすべてを包み隠さず、私の前に見せてくれることが。それに――こうしている時の彼女は「フォンテーヌの水神」や「正義の神」ではなく、「私だけの彼女」である。私はここで気付く。私自身が、どれだけ「フリーナ」という存在を大切に想っているかを。水神であるとか、水龍であるとか、そういった立場であることは一旦置いておいて――私は惹かれているのだろう、フリーナに。目尻に残された雫を、私はそっと拭う。酷く清らかな光だった。きっと、この世に存在する何よりも。
「……キミだけだよ」
 私の心を読んだかのように、フリーナは言った。
「僕が、こんな弱みを見せられる相手は」
 そこでようやく、彼女が微笑む。野花のように嫋やかな笑みだった。つられて、私の口角が僅かに上がるのを感じる。私はもう一度フリーナのことを呼び、眠るように促す。だが、彼女はすぐに瞼を閉じなかった。まだ恐怖が失せたわけではないことを知り、私はたっぷり時間をかけてこう言った。もしも君が魘されているようなら起こす、と。だから安心するといい、と。そう続けた台詞を聞いて、フリーナは恐る恐る目を瞑る。
「――」
 やがて聞こえてくる寝息に、私は安堵する。明日は審判の予定が無いので、ある程度、ゆっくり眠らせることが出来るだろう。
 カチコチと時計の針が進んでいく。改めて、フリーナの方を見た。小さな身体だ、とつくづく思う。この小さな身体で、あまりに大きなものを背負っている。神座の水神を残して、すべてが海の底へと沈むという予言。生まれながらに重い罪を背負っているフォンテーヌの民。やすやすとは解決出来ないものに、彼女は抗っている。そう、抗い続けている――。

「う……うぅ……」
 どれだけ経過したことだろう。私は壁の時計をちらりと見て、それからフリーナの方に視線を投げた。フリーナは眉を顰めて、苦しげな声を漏らしている。ああ、悪夢は彼女を手放しはしなかったらしい。私は彼女の名を呼んだ。悪夢に沈む彼女に手を伸ばすのは、この私だ。そう、約束を交わしたのだから。何度かその身体を揺さぶれば、フリーナが瞼を開く。ぽたりと落ちる雨垂れ。それは彼女の心を蝕む夢の残滓。
「ぬぃ……れっとぉ……ぼ、僕……! 僕――」
「フリーナ」
 私は此処に居る、と数刻前とほぼ同じようなことを、私は言った。フリーナが目を見開き、上半身を起こして、そしてまた雨を降らせる。ぽたぽたと落ちるそれは、あまりにも悲しい色をしており、どれだけの恐怖と不安が、フリーナの胸中に渦巻いているのかを語るかのようだった。キミは此処に居るんだね、と蚊の鳴くような声がした。私はもう一度頷く。
「夢、だったんだよね……キミが居なくなる、なんて」
「ああ……」
「僕のそばに、キミは……キミは、居るよね……?」
「……ああ」
 わああ、と彼女が大きな声をあげて泣いた。しゃくり上げるフリーナの背を、私は擦る。君が見ていたのはすべて悪い夢だ。此処に私が居るのが紛れもない現実であって、今の今まで君を覆い尽くしているのは、夢に過ぎないと。続ける声に、それでも、フリーナは泣き続ける。止め処無い涙。抱きついてくる少女を受け止めて、私は強く望む。彼女の心の平穏と、彼女が心から微笑うことが出来る、そんな日の訪れを。

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