雨が似合う花

「ねえ、ヌヴィレット。僕が最近、読んだ本に出てきたんだけどね」
 ここ最近、水神フリーナは読書に熱心だ。とは言っても、彼女が読み耽っているのは、私が好む類のものではない。少し前に「何かおすすめの本はあるかい」と言ってきたので、本棚から取り出した分厚い法典を渡すと「そうじゃない」と即座に突っ返された。
「稲妻には、雨が一番似合う花があるらしいよ」
 彼女は言う。今日もまた水の都は快晴で、青色を覆う雲は少しも見当たらない。そんな空を白鳩が飛んでいく。何処かの国では、平和の象徴とされる鳥だ。
「……ほう、それはどんな花だ?」
「お、興味あるのかい?」
「少しは私も、君の雑談にも付き合うべきだと思ってな」
「へえ、良い心がけだ」
 フリーナが満足気に笑う。てっきり「なんだその返答は」とでも返ってくると思っていたので、少々意外ではある。私は執務室の椅子に座ったまま、彼女の方を見た。
 今日は午後から、エリニュス島のエピクレシス歌劇場で裁判が執り行われる。逆に言えば、午前中であれば、ある程度、自由に時間を使える、ということだ。故にこの水神は、私の執務室に足を運んできたのである。と言っても私には雑務があり、そう長く彼女に付き合うことは出来ない。だから「少しは」と言葉を足したのだが、フリーナは分かっているのだろうか。おそらく、分かっていないだろう。
「アジサイ、って言うんだけどね、晴天よりもずっと雨が似合うなんてとても珍しいと思わないかい?」
 フリーナは小首を傾げる。このような所作を見ているだけであれば、何処にでも居るような、ごく普通の――年頃の少女のようだ。だが、それでもフリーナは「正義」を司る水の神であり、魔神としての名前を持ち、フォンテーヌで暮らす多くの民から崇められている、特別な存在なのだ。
「ああ、それは――珍しいな」
「だろう? だいたい花は、太陽の光を浴びるのが好きだろう? ひまわりとか、特にそうだと思うんだけど」
「そうだな。だが、フリーナ殿。どんな花であっても、水が無ければ生きてはいけないのだぞ」
 例えば、隣国スメールの砂漠。乾ききった砂の大地。そういった厳しい環境で実を結ぶ花は、ごく少数に限られてくる。私がそのように答えれば、フリーナは眉間に皺を寄せた。
「それくらい、僕だって分かっているよ!」
 でもさ、と彼女の瞳が遠くへと向けられる。いつかこの目で見てみたいな、とその横顔は言っていた。テイワット七国のひとつに数えられるフォンテーヌ。水神として大国のトップに立つ彼女が、自由気ままに海外旅行を楽しむなんてことは、非常に難しい。
 しかも、稲妻というのは、フォンテーヌからかなり遠くに位置する海洋国家だ。雷神に統べられるかの国は、少し前まで鎖国下にあった。簡単に言えば、酷く排他的な国として知られていたのだ。そんな稲妻の鎖国が解かれたのは、聞く話によると、金髪の旅人の活躍に拠るところが大きいという。旅人とその相棒パイモンは、現在、我がフォンテーヌに滞在中だ。
「――ヌヴィレット様」
 私が彼女になんと返そうか考え倦ねていると、部屋の扉がノックされた。同時に聞こえたのは部下の声。どうやらフリーナとの雑談は、ここで終わりのようだ。仕事に戻る必要がある。私が目配せをすると、彼女は渋々といった様子で頷いた。
 いったん私はこの場を離れ、その間にフリーナも自室へ戻るだろう。椅子から立ち上がり、私は改めてフリーナを見た。何処となく寂しそうだ、だが――そう我儘ばかり言っていられない、ということを彼女は重々理解している。
 私は重い扉を開き、退室する。次に彼女と会うのは、エピクレシス歌劇場で、となるだろう。背中に彼女の視線を感じたが、私は何も無かった振りを装って、部下に続く形で回廊を進むのであった。

 ◇ ◇ ◇ 

 今日の裁判が終わり、僕はパレ・メルモニアへと戻った。ここはフォンテーヌの行政区であり、中枢といえる場所。その奥に僕の居室はある。気付けば太陽が西へと傾いている。もうすぐ夜という名の闇が訪れるのだ。
 僕はゆっくりと椅子から立ち、窓辺に寄る。次第に暮れ行く世界。そろそろ星も瞬き出す時間だろうか。遥かに遠いところから、テイワットのすべてを見守る星。
「……」
 急に、心の中に冷たい風が吹き付けてくるのを感じた。ひとりの夜なんて、珍しいことじゃない。寧ろ、いつも通りのこと。けれどその風は、寂しさを僕の胸中へと齎す。駄目だ、このままでは。僕はざあっとカーテンをやや乱暴に閉じて、ベッドに座った。ひとり眠るには、広すぎるかもしれない白いベッドには、いつだったか贈られてきたテディ・ベアが置かれている。僕はそれに手を伸ばす。これを僕に贈った「彼」は「まるで子供騙しのようだが」とぎこちない顔をしていたけれど、そんなことはない。嬉しかったのだ、僕は。仕方ないから受け取ってあげるよ、なんて可愛くないことを言ってしまったけれど。
「……」
 そのまま、ベッドに四肢を投げ出す。傍らに置かれた栗色のテディ・ベア。つぶらな瞳が僕の方へと向けられている。目を瞑った。もう眠ってしまえばいいのだ、孤独に全部が押し潰されてしまう前に。
 だが、そういう時に限って、眠気が来ない。ふたたび開いた瞳から、雫が溢れ出るのが分かった。生ぬるいこれは、寂しさから生じたもの。本当に――子供みたいだ。静か過ぎる夜が怖いなんて。

 結局のところ、睡魔はかなり遅い時間になるまで、僕の前に姿を見せなかった。はあ、という重たい息と同時に、新しい日がはじまる。今日の予定は何だったっけ。僕はぼんやりと考える。ああ、審判は無い日だった。つまらない。それに、ヌヴィレットも仕事でパレ・メルモニアを離れると聞いている。つくづくつまらない一日かもしれない。
 朝食を食べる為に部屋を出て、目的地に辿り着くと、見慣れた使用人が微笑みながら出迎える。同時にふわりと漂うのは、焼き立てのパンの香り。僕は定位置に座って、そのパンに手を伸ばした。まだ熱々のそれを千切って、断面にバターを落とす。じわっと溶けていく図を眺めてから口に運んだ。大きなテーブルには、バブルオレンジを絞った色鮮やかなジュースが注がれたグラスもある。甘いだけではなく、若干の酸味が特徴的なものだ。殆ど毎朝僕の喉を潤してくれる。

「フリーナ様」
 食事が終わって、部屋に戻ろうとした僕を呼び止める声。
「なんだい?」
 その声の主は、メリュジーヌだ。僕が首を傾げると、彼女は一冊の本を僕の方へ差し出した。え、と漏れる声。表紙には美しい花が描かれている。青紫の花だ、これは――アジサイ。雨が一番似合う花。目を見開く僕へ、彼女は言う――ヌヴィレット様からお渡しするようにと伝えられたものです、と。
「――」
 ゆっくりと表紙を開いた。どうやらこれは、花々の写真集であるらしい。フォンテーヌで発明された写真機。それを用いて、テイワット各国で見られる花をまとめた一冊。
「……あ、ありがとう。それにご苦労。……部屋に戻ってから見させてもらうよ」
 少し、声が裏返ってしまったかもしれない。
「ええ」
「じゃあ、僕は戻るよ」
 足早に回廊を進む。胸に分厚い本を抱えて。今日は満たされた一日になるかもしれない。いや、きっと、そうなるだろう。部屋に戻り、普段と同じ位置に置かれた椅子に腰掛ける。
「……?」
 さっきは気付かなかったが、付箋が貼られていた。そのページを広げれば、アジサイの写真がたくさん載っている。薄い紫、ピンク。白。そして一番大きな写真は、表紙と同じ色合いの花だ。雨の中で撮影されたものもあるようだ。この付箋を貼ったのは、間違いなく彼である。僕は無意識に呟く。ヌヴィレット、と。夜には会えるだろうか。その時は――素直に礼が言えるだろうか。一度本を閉じる。表紙を指先で優しく撫で、僕は視線を遠くへと向けるのであった。

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