malédiction

 清らかなせせらぎと、小鳥たちの囀りが聞こえる。
 きっと、外の世界はとても美しいのだろう――そう考えながらも、水辺の古城で独り、呪われた娘が酷く悲痛な表情で嘆いていた。
 何故、この目は直接、世界を見渡すことが出来ないのか、と。

 ◇

「う、うぅん……」
 強い陽光は遠慮すること無く、瞼を抉じ開けてくる。その眩さに、思わずフリーナは眉を顰めた。新しい一日のはじまりを、音も無く告げている光。そんな表現をすれば、美しく輝く希望に満ちたもののようだが、フリーナの表情はまるで氷塊のように固かった。胸を通り抜ける風も、遠い異国に聳え立つという、極寒の雪山で吹き荒ぶそれに近い。
「……はあ」
 吐き出されたのは、溜め息だ。フリーナはいま、パレ・メルモニア内の一室を「彼」から与えられて、そこで生活を送っている。自分は「神」という立場から退いて、「人間」となったはずだったのに、結局、ここに戻ってきてしまった。いや、正確に言うのであれば「連れ戻された」と言った方が正しいだろう。フリーナはもう一度息を吐く。
 目を擦りながら、寝台から抜け出る。手早く着替えなどを済ませて、フリーナは窓辺に立った。フォンテーヌ廷は本日もまた、とても美しい。人々はもう、あの恐ろしい予言に怯える必要も無い。あの頃のように、いつか来るとされていた、すべてが水に沈む滅びの未来に震えなくていい。
 そう、フォンテーヌは救われた。フォンテーヌ人の原罪は赦されたのだ。だからこそ、民衆の顔には笑顔がある。人々の瞳に映る世界は、どこまでも綺麗なものだ。清らかな水に恵まれて、抜けるように青い空が見下ろす、この水の国――フォンテーヌは。
 でも、とフリーナは俯いた。彼女の銀の髪が揺れる。それと同じように、心も大きくぐらついていた。
 自分はいつまで、この場所に居続けることになるのだろうか――答えと呼べるものが、一切見えてくることの無いあの疑問は、朝が訪れる度に無音で浮上する。これからは「どこにでもいるような人間」として、静かに、そして緩やかに生きていくつもりだった。数十年先には、自分の死を迎えることも受け入れて。しかし、彼の方は――ヌヴィレットはそうでなかったようだ。そう、ここにフリーナを連れ戻してしまったのは、その最高審判官ヌヴィレットであった。
「……」
 フリーナは窓に背中を向けて、もう一度溜め息を吐いた。それは、自分でも気が滅入りそうな程には重い。溜め息ひとつで幸福もひとつ逃げていく、なんて話も、思い出してしまう。
 ヌヴィレットのことは、嫌いではない。いや、本当のことを言ってしまえば、その逆なのだろう。数百年もの歳月を、共に過ごしたのだ。故に、ふたりはとても長い付き合いになる。この世界で彼のことを最も分かっているのは、自分であるのだと、そう断言出来る。しかし最近は、彼を見ると胸の奥が疼く。その理由は分からない。分からないままで良いのかどうかすらも――フリーナには、何も分からない。
 もう一度、寝台に身体を横たえた。すっかり見慣れてしまった天井と目が合う。フリーナは、徐ろにその目を閉じた――青と蒼の瞳がこれから見るのは、儚く曖昧な夢という形で再生される、過去の自分たちの姿である。

 ◇

 その日、フリーナの姿はパレ・メルモニアからほど近い、自宅の寝台の中にあった。まだ太陽は高いところにあり、街は、行き交う多くの民で賑わっていることだろう。
 ゴホゴホと少女は激しく咳き込む。何日か前から、体調が優れないのだ。喉も焼けるように痛む上に、ズキズキとした頭痛までもが容赦無く襲いかかってくる。身体は怠く、発熱もあるのかもしれない。あまり食欲も湧いてこない。おそらくは、少々重い風邪をひいてしまったのだろう。本当なら、風邪に効く薬を買いに行くべきなのだが、外に出る気力と体力も、須らく削ぎ落とされていた。ひとり暮らしとは、こういう時に困るのだな、と重たい頭の片隅で考える。前もって薬を購入しておけば良かった、とも。
 まるで、胸の奥に、鈍色の鉛が無理矢理埋め込まれたかのようだ。またしても、激しい咳が出る。自由の利かない身体を何とか起こして、寝台の脇に置かれたサイドテーブル、その上にある水差しに手を伸ばした。小刻みに震える手で、小さなグラスに水を注いだ。それを数口飲めば、慈雨にように、火照り乾いた身体に染み渡っていく。
「はあ……」
 ものを食べる気にはどうしてもなれないが、それでも、水分はしっかりと摂取しなければ。装飾の施されていないシンプルなグラスをテーブルに置くと、フリーナは再び横になった。
 神の座から降り、普通の人間として暮らすようになってから、はじめてかもしれない。こんなにも具合が悪いのは。それはつまり、生まれて初めて、と言っても、大きな間違いにはならないのだろう。今の自分が「ヒト」であることを、フリーナは改めて実感する。流石にいま、死の気配を感じ取ることは無いものの、それでもいつか「それ」は、自分の魂を刈り取りに来るのだろう。
「……」
 怖い、とは思う。その瞬間は。だが、出口も終わりも見えないあの真っ暗な迷宮の中、秘密を抱え、たった独りで最後まで歩ききれ、という宿命と十字架を背負わされていた頃と比べてしまえば――ずっとマシなのではないだろうか。
「――!」
 そんなことを考えていたフリーナの耳に、突如として届いたのは、来客を報せるチャイムの高らかな音だった。一体、誰なのだろうか。僕に何の用があるのだろうか。怠さを訴えてくる身体を半ば強引に起こし、フリーナは玄関先へ向かった。
 やけに冷たく感じられるドアノブに手をかけて、重い扉を開けるとそこに立っていたのは、予想外の人物――ヌヴィレットだった。無意識に「えっ」と声が落ちる。彼こそが「正義の国」フォンテーヌに於ける最高審判官であり、実質的なこの国の統治者。テイワット七国のひとつに数えられる大国のトップ。そんな彼が、わざわざこの家まで足を運んでくるとは。なにもかもが想定外のことで、フリーナは元々赤らんでいた頬の色を、更に濃くする。
「……ごきげんよう、フリーナ殿。突然来てしまって申し訳無い」
「あ、ああ……」
 僕に何か用でもあるのかい、と問う。しかしその声は掠れており、あのヌヴィレットが彼女の体調の異変に気付かない訳も無い。頬は林檎色に染まり、表情も気怠そうに窶れていて、その上、何もかもが弱々しい。ヌヴィレットは、じっとフリーナを上から下まで見てから、その口を改めて開いた――君は具合が悪いのか、と。この場を取り繕う嘘を並べる行為は、最早、無意味である。フリーナは何度か咳をして、それから彼を見て素直に言う。ちょっと風邪をひいてしまったみたいでね、と。
「……風邪、か」
 彼は表情を歪めた。曇天の空のように。君がそのように体調を崩すとは、と続け、そして右手を差し出した。え、と小さく漏れたフリーナの声。酷く心配そうな目に変わった彼を見上げ、少女はその手を取った。ヌヴィレットに引かれる形でフリーナは寝室まで戻り、寝台で横になる。
「今回はただ、久し振りに君の顔が見たかっただけなのだが――少々、来るタイミングが悪かったようだな」
 ああ、いや、寧ろこれは良かったのだろうか。何処となく彼らしくない台詞が続けられたが、フリーナはただ、目線を彼の方へ向けるだけ。
「薬は飲んでいるのか」
「……ううん。本当は、街の薬屋に買いに行きたかったんだけど、その……お店まで行けなくて」
 素直に綴られるのは、蚊の鳴くような声。はあ、とヌヴィレットが大きく息を吐くのが見えた。
「こういう時は、私のことを頼ってくれても構わないのだが」
「……でも」
 ヌヴィレットのその発言は、正直なことを言ってしまえば、「救済」と表現することが出来るくらいには嬉しいもの。けれど、今の僕たちは生きる世界が異なっているじゃないか――そう、最後までは発せられなかった。つまり、声にはならなかったということだが、鋭く聡いヌヴィレットは何もかも見抜いてしまったようで、その上で、何処か傷付いたような目をしていた。凛としていて、ある意味氷のようにも見受けられる、いつもの眼差しとは大きく違っている。
「私が薬を購入してこよう。君はゆっくりと休んでいると良い」
 ヌヴィレットは言った。フリーナに何も言わせず、そのまま部屋を出ようとする。
「ま、待って……」
「……何だ」
 呼び止められた彼は、改めて少女の姿をその目に捉える。フリーナは不安そうだった。寂しそうだった。ここでふいに思い出した――ヒトはこのように体調を崩すと、不思議と心も弱まってしまう、ということを。ヌヴィレットはもう一度、少女の寝台に近付く。ぐっと狭まる距離に、空気が僅かに色合いを変えたかのようだった。フリーナのつぶらな瞳は、熱で浮かされているせいだろうか、薄っすらと濡れているようにも見える。
「……安心して欲しい。私はすぐに帰ってくる。君は眠っていても構わない」
「……」
 うん、と応えること。そんな単純なことすら出来ずに、フリーナは彼を見上げた。
 ヌヴィレットは自身の大きな手で、彼女の髪を撫でた。それは、自らのものと酷似した色。いつだったか、彼女が言った言葉を思い出す――キミと僕には同じ色があるんだね、と。恐らくではあるが、フリーナはこの自分の発言を覚えていないだろう。これはもう、数十年前――いや、もっとずっと前のやり取りだったかもしれないから。それに、水神を演じていた頃の彼女が、頻繁に催していた「お茶会」での、ちょっとした会話だったから。その上で、ヌヴィレットの方は、これを鮮明に記憶している。それだけ、フリーナという存在が彼にとって大きなものであり、その上で影響力のある人物だった、という事実へと直結していた。
「では、行ってくる」
 名残惜しそうに手は離れて、ヌヴィレットは寝室の扉を出てこの場から去っていく。
「……」
 残されたフリーナは、しばらくその扉に目線を向けたままでいたが、病に冒された身体は休息を求めている。少女は素直に瞼を閉じた。目覚めた時に、彼がそばに居ることを切望しながら。

 ヌヴィレットが戻ってきたのは、彼女が眠りについて、三十分程度が経過した頃だった。薬は滞り無く手に入った。彼を出迎えた若い薬師曰く、これはかなり苦味が強い薬だが、効果覿面であるらしい。
 大きな扉に手をかけて、それを開ける。そのまま奥の部屋に向かえば、彼女は寝台に身体を横たえて、眠っていた。ヌヴィレットは、可能な限り音を立てないよう、静かに寝台の脇に置かれた椅子に腰を下ろす。
 彼女は瞼を閉じたままだ。しかし、いまの彼女を蝕む病は、穏やかな眠りすら、許してくれないらしい。うう、と呻くような声を漏らすフリーナは、間違いなく悪夢に魘されている。それが、どのような類の悪夢であるのか、現実世界に在るヌヴィレットには分からないが。
「……大丈夫か? フリーナ殿?」
 問いながら、身体をそっと揺さ振る。それでも彼女はまだ、現へと戻ってこない。
「フリーナ?」
 もう一度ヌヴィレットは彼女の名を呼んだ。先程よりも、少し大きな声で。
「うぅ、ん……ぬぃ、れっと……?」
 たっぷり数秒の時間をかけて、フリーナは目を醒ました。まだ潤んだままの瞳が、どこか虚ろに見える。ヌヴィレットは「平気か」と問い、しかし彼女は何も答えない。苦しそうな表情をしている。どうやら平気ではないらしく、相当の悪夢を見ていたようだ――そう、ヌヴィレットは察した。常人であれば耐えられない程の苦痛を味わいながら――人の身でありながら、フリーナは水神を演じていた。きっと、その頃に関連する夢を見ていたのだろう。ならば、細かく尋ねることは、傷を抉る行為に他ならない。あの審判の日から、一定の時が流れ落ちた今なお、じゅくじゅくに膿んだまま、心に残されてしまっている、深い傷を。
「……薬を購入してきた」
 ヌヴィレットは手短に言って、彼女の上半身を起こさせる。
「少々飲みにくいものかもしれないのだが……それは、我慢してくれ」
「……うん」
 水差しから、グラスに常温の水を注ぐ。フリーナはまず、薬を彼から受け取り、手のひらの上のそれに視線を落とす。ふう、と息を吐き出してから、薬を口に含み、手渡されたグラスの水で一気にすべてを喉へと押し流す。
「……ッ」
 フリーナの眉間に皺が寄る。これは、相当苦いものであるらしい、彼女は何度かグラスに唇を寄せるのを繰り返した。そうしているうちに、グラスの中の水は消えてしまう。彼女の大きく歪んでしまった顔を見て、ヌヴィレットはもう一度、水差しに手を伸ばした。グラスになみなみと水を注ぐ。待っていた、と言わんばかりにフリーナはグラスを受け取る。彼の手によって注がれたそれを何度も飲んで、二杯目の水がすべて消えると、そこでようやく、フリーナはグラスを彼に返した。
「キミには、心配と迷惑をかけてしまったね」
「……気にする必要は無い」
「……そう。……わざわざありがとう、ヌヴィレット」
「いや、君の力になれたのなら何よりだ」
「……うん」
 この薬は即効性、というわけではない。少女は再び横になった。左右で色の異なった瞳が、ヌヴィレットのことを捉える。熱を帯びた視線を受けながら、ヌヴィレットは胸が詰まる思いをひとり認めた。
 ああ、彼女は「人間」なのだ――それはつまり、いつか自分を置いて、この世界を旅立つ存在であることを意味する。決して誰にも相談出来ない「大きな秘密」を抱えながら、水神フォカロルスを演じ続けた、その精神力や忍耐力。それは、常人ではまず持てないだろう代物だ。彼女は、見事に演じきってみせた。人を越えた心を持っている。しかし、その肉体に埋め込まれた魂に許された時間は、人間に与えられたそれに過ぎない。こうやって風邪をひいたりするのも、フリーナが人間だからだ。
「……ヌヴィレット?」
 その少女が、不思議そうに声をかけてくる。ヌヴィレットは特に意識をせずに、ぐっと手に力を込めた。手のひらの肉に鋭い爪が食い込む。それによって生じる痛みは、自分がここに在ることの証明だ。ここに在る――許されるのであれば、彼女にもずっとそばに在って欲しい――むくむくと膨れ上がる欲望は、あまりにも醜悪なものだ。残酷な世界は今日も、鰾膠も無く動いている。そんな世界で、自分たちはいずれ迎えることになるのだ――別離の瞬間を。このままであれば。
 ヌヴィレットはフリーナに向けていた視線を逸らして、窓の向こうを見た。幾つかの白雲を浮かべた青空と、いつもと同じ街並みが見える。
「……ひとつ、良いだろうか?」
 その台詞と共に、彼は目線を戻す。ほんの僅かだが、彼の表情が強張ったように見えた。そんなヌヴィレットのことを、フリーナは不思議そうな目で見つつ「うん」と応じる。
「君には、私のもとへ来る気はないだろうか」
「……えっ?」
 その言葉の意味が、すぐには理解出来なかった。
「人として与えられた時間を生きるのが、君にとって、最も正しい道であると、私も分かってはいる。昔の君も、今の君も、そういったものを望んでいると……私は、分かっているつもりだ」
 彼は、ひとつひとつの言葉を丁寧に選ぶように並べていった。
「だが――それでも、私は君の居ない世界など、耐えられそうにない……」
「ヌヴィレット……」
 彼は、深く傷付いた者の目をしている。
 あの日、フリーナはすべての柵から開放されたことに、心から安堵した。フォンテーヌ人の罪が許され、長くこの国を侵食していた滅亡の予言は粉々に砕け散り――そして、五百年背負ったものから解き放たれて。「水神」を演じる舞台を降り、これからは「人間」として生きていける。その事実に、フリーナは喜びを覚えた。その裏で、ヌヴィレットが息苦しさに喘いでいたのを、今になって知った。いずれ置いていかれる側の悲しみを、分かってあげられていなかった。フリーナの表情は、みるみるうちに曇っていく。
「……申し訳ない。だが、これは……私の本心だ」
 ヌヴィレットはそう言って、ゆっくりと目を瞑る。そんな彼を見てしまうと、フリーナには何かしらの答えを出すことが出来なくなってしまった。自分たちには、いずれ別れの時が来る。その時の訪れを、彼は何よりも恐れている。
「パレ・メルモニアに来てくれないか」
「そ、それは……」
 どうしたらいいのだろう、とフリーナは思う。彼から求められることは、正直に言ってしまえば、とても嬉しい。長い付き合いをしてきた中で、ヌヴィレットという存在は、とっくに特別なものとなっていた。きっとこの感情は、他の誰にも向けられることのない、唯一無二のものだろう。感情の名は、この段階では見えてこないけれど。
「で、でも……僕は……僕には――」
 言葉が詰まる。いまここで、自分が拒絶の台詞を読み上げてしまったら、ヌヴィレットはどうなってしまうのだろうか。導き出した答えが彼の望まないものであったら、彼は自分に、なんと返してくるのだろうか。張り詰めた空気の中で、カチリと時計の分針が進んだ。この世界は停止することを知らない、ということを示すかのように。
「これから先の――未来のことは、僕にはまだ何も分からない……。その答えを見つけられるまでなら、その……」
 いいよ、と少女は弱々しい声で言った。ヌヴィレットの表情が、ほんの少しだけ緩む。今はそれで構わない、と続けると、彼はもう一度彼女の名前を口にする。ひとまずは、しっかりと眠って身体を休めて欲しい。ヌヴィレットの発言に、フリーナは「うん」と答えて目を閉じる。自分が次に見る夢は、きっと彼が傍らに在る夢なのだろう――そんな、漠然とした気持ちを抱えたまま。

 ◇

 深い眠りから目覚めたフリーナは、身体を起こす。窓の向こうの世界では、太陽がほとんど真上にまで移動している。それなりに長い時間、眠ってしまっていたらしい――自分が酷い風邪をひいた時の夢。そして、そんな自分に、あのヌヴィレットが己の願望を吐露した時の夢。最後には、深い眠りに落ちゆく夢。
 それらをそっと手繰り寄せてから、フリーナは息を吐く。ヌヴィレットが求めた通りに、いまの彼女はパレ・メルモニアの一室に居る。この部屋は、彼女が神を演じていた頃に使っていた部屋とは、また別のものだ。このことにどのような意味があるのか、分かる者が居るとしたら、それはヌヴィレットだけだろう。
「……はあ」
 僕は、「答え」を見つけるまではここに居る、と彼に言ってしまったが、いつ、その答えを見つけられるのだろうか。そんな日が、本当に来るのだろうか――フリーナは思い悩む。
「……」
 ヌヴィレットが望むのは、いつまでも自身の傍らに在るフリーナだ。少々歪んでしまった願いに思えなくも無いが、理解が追いつかない、ということでは無い。もし逆の立場であったら、自分も彼に同様のものを望んだだろう。互いに想いを寄せている、というのもきっと、思い込みなどでは無いのだろう。
 寝台から離れ、ソファに座したフリーナは、右手で左胸を押さえる。心臓が、普段よりも早く鼓動しているのが感じ取れた。
 そんな時だった、扉が数回ノックされたのは。フリーナははっと我に返る。誰が来たのか、なんて、考えずとも分かる。ヌヴィレットだ。この部屋に来る者なんて、彼以外に存在し得ない。少女は数秒の間を置いてから「どうぞ」と応じた。
 重く大きな扉がゆっくりと開かれ、フリーナの瞳には至極当然のように彼の姿が――ヌヴィレットの姿が映り込む。歩み寄ってくる彼の銀色に煌めく髪が踊るように揺れて、その澄んだ瞳は少女の姿を捉える。
「少々、君の顔色が優れないように見えるのだが……大丈夫なのか?」
「え? あ、うん……大丈夫さ、なんともないよ。だから、そんなに心配しないでくれ」
「……そうか」
 ヌヴィレットは律儀に「失礼」と断ってから、彼女の隣に腰を下ろした。
「……」
「……」
 だが、会話が続かない。部屋の中を満たす空気が、どうしてだろうか、やや冷たく思える。自分はこんなにも強く、ヌヴィレットという存在に惹かれてしまっているのに。
「……」
 フリーナは、ちらりと目を彼の双眸へ向ける。法廷などの公の場では、凍てつく氷にも負けない程、冷たい印象を与えがちだが、そうでない時は確かな優しさを灯すこともある、そんなふたつの瞳に。
「……ねえ、ヌヴィレット」
「何だ?」
「……キミは、僕を手放す気なんて……本当は全く無いんだろう?」
 少女は声を絞り出した。薄々分かってしまっていた。パレ・メルモニアに連れ戻されてしまったあの日から。そんなヌヴィレットから向けられる強い感情が、嬉しく思える反面、どうして、という暗い気持ちもかなり大きく残されていた。あの頃のフリーナは、ずっと、人間になりたかった。神を演じ、多くを欺く――その行為に伴う責苦を堪えながら。最も近くにいてくれた、ヌヴィレットのことさえ、騙さねばならなかった。このことにも、鈍い痛みを感じ続けていた。
「……」
 ヌヴィレットは答えない。いや、それが、彼からの答えなのだろう。何もかもを、少女は理解していた。何も否定をしてこないということは、肯定であるのだと。
「僕も、キミとの別れは……すごく、怖い。……怖いんだよ、ヌヴィレット」
 数百年生きてきた中で、フリーナは知っている。嫌というほど知ってしまっている。死別というものの、苦しみと痛みを。それはヌヴィレットもきっと、同じだろう。彼は、自身に忠誠を誓っていた部下の死を経験している。その中には、非常に惨たらしい結末となってしまったものだってあるのだ。
「……君は」
「うん」
「このような私のことを、軽蔑するだろうか」
「しないよ」
 フリーナは即答した。一瞬の迷いすら無かった。
「何故?」
「何故、って。僕も、怖いって……そう言ったじゃないか」
 それに、と少女は言葉をすぐに連ねる。死を恐れない者など、どこを探したっているはずも無いだろう、と。そのフリーナの発言に、ヌヴィレットの顔が急激に曇った。あの裁きの日の光景を――諭示裁定カーディナルが下した「死刑」判決を受けた、「水神フォカロルス」の最期を思い出したせいだ。脳内に「彼女」の声が反響する。
 ――やっぱり、死ぬのはちょっと怖いかな。
 神と呼ばれる者ですら、その訪れを恐れるのだ。フリーナと瓜二つの顔をして、フリーナと同じ声で続けられた、あの台詞を、ヌヴィレットは永遠に忘れられないだろう。大きな傷となって、彼の胸に刻みつけられている。今後、どれだけの歳月が過ぎ去っていったとしても、癒えぬことのない、真っ赤な傷だ。
 五百年の時を要して溜め込まれたエネルギーは、「水神の神座」を水神ごと処した。「天理」にすべてがバレないように進められた、彼女の計画の終わりに、水の龍王ヌヴィレットは七神をも超える龍の力――権能を取り戻した。彼は、その力を豪雨のフォンテーヌで振るい、生まれながらに罪を背負っていたすべてのフォンテーヌ人を赦し、彼らのことを、原始胎海の水に溶けることのない「人間」へと変化させたのである。
「……私は、愚かだな。あまりにも」
 暫く続いた沈黙を、彼の固い声が貫く。
「君に呪いをかけてしまいそうだ」
 ぽつりと呟くように言ったヌヴィレットは、遥か遠くを見た。その目に映るのは、ただのフォンテーヌ廷の街並みなどではない。もっと違うものだ、フリーナはそんな彼の横顔を見て、胸が詰まる思いになる。呪い。それが意味することを、彼女は理解していた。
「君も、私と同じで、別れの時を恐れている、と……そう言ったな」
「……うん」
「だが、恐らく君は……死というものを、受け入れられるのだろう」
 しかし、私には出来そうにない。そう、ヌヴィレットは苦しそうな顔で付け加える。深い傷を負った者の目をしたヌヴィレットに、フリーナはおずおずと手を伸ばした。その白くて小さな手を、彼は一瞬の躊躇いのあと、自らの手で掴んだ。大きさがまるで違う。だが、互いの体温が直に伝わってくる。それはつまり、相手が最も近いところに居る、という事実を無音で知らしめているものだった。
「……いいよ、ヌヴィレット」
「……何?」
「キミのことを置き去りにして、逝けるはずもないよ、僕は」
 フリーナの声は小刻みに震えていた。
「その代わりに、僕をキミの一番にして」
 希う台詞。酷く優しく重ね合わされたままの手と手。ここは室内だというのに、強い風がざっと吹いたような感覚を覚える。ヌヴィレットは目を見開いた。こういった表情をする彼を見るのは、いつ以来だろう、と、フリーナは苦笑する。
「とっくにキミは僕の一番なんだ。それに――こうして一緒に居る時は、僕だけの……キミであって欲しいんだ」
 それでいいんだろう、僕の水龍。フリーナは再び笑った。ほんの数秒前の、苦々しい笑みとは大きく異なる、春の陽だまりのように柔らかな微笑みだった。
 しかし、ヌヴィレットには、なかなか次の言葉を発することが出来ない。発言どころか、何かしらの反応を見せることすら。
「だから――愚かなのは、僕も同じじゃないか?」
 同罪だよ、とフリーナは言う。そこでヌヴィレットはようやく頷くことが出来た。まだ重なったままだった手を、名残惜しくも解いて。ヌヴィレットは、彼女に立つようにと促した。自らも同様にソファから腰を上げる。その場で、ヌヴィレットはフリーナをぎゅっと抱き締める。彼の両腕に抱かれながら、少女は何度か彼のことを呼んだ。これから降り積もっていくのは、ただただ幸せなだけの時間ではない。龍の呪いを受けるということは、ヒトの理から大きく外れて、足元の定まらない道を、延々と歩んでいくことを意味しているのだから。
「僕を、離さないで」
 とても近くで、フリーナの声が聞こえる。
「……ああ、分かっている」
 それ以外の返答なんて、何処を探しても見つからないだろう。幾らこの世界が広くとも。ヌヴィレットは、華奢な少女の背中を何度か優しく撫でる。
「ずっと、共に在ろう」
 彼の言葉は、底知れぬ重みと、小さな切なさを帯びつつも――幸福な色合いも孕んでいた。
 
 ◇

「――君は、何を読んでいるんだ?」
 自分たちが想いを通わせ、歩んでいく道が同じとなったあの日から――どれだけ時間が流れたことだろうか。ヌヴィレットがそのように思いながら彼女の部屋に来ると、その少女はソファに座って一冊の本のページを捲っているところだった。読書の邪魔にはなりたくなかったが、そんな問いかけがするりと出てしまった。
「あ、ああ、これかい? これは詩集だよ」
「詩集?」
「うん」
 フリーナは栞を挟んで本を閉じてから、顔を上げた。
「水辺の古城に閉じ込められた、少女の詩なんだ」
「ほう?」
「彼女は呪いのせいで、直に外の世界を見ることも出来ないんだ。鏡に映る景色を見ながら、ずっとずっと、織物を織って暮らしているのさ」
 すごく悲しい詩だよね、と彼女は言う。
「でもある夜に、恋人が連れ添う姿を鏡越しに見て――もう、影のような暮らしは嫌だ、って思ってしまうんだ。それで、鏡にある男の人が映ってね。呪われていることを忘れて、外を見てしまって――鏡は真横にひび割れて……嵐が襲って、城から出た彼女は小舟に乗って歌を歌いながら、死出の旅へと赴くんだけど……そのまま、力尽きて……死んじゃうんだ」
「そうか」
「彼女が見た男の人は、彼女の死を悼んで、神様に祈るんだよ――美しき娘に憐れみを垂れ賜わんことを、って」
 フリーナの言う通り、非常に悲しい詩だ。だが、それでも、美しくも思える。水辺。呪い。神への祈り――それらは何処となく、目の前に居る彼女を彷彿とさせるワードだ。
「ヌヴィレット?」
 表情を曇らせた彼のことを、フリーナは呼ぶ。
「あ、ああ、いや。ただ――その祈りが届いていると良いな、と思ってな」
「……うん、それは……そうだね」
 そうじゃないと、あまりに可哀想だからね。フリーナは遠くを見つめながら言った。
「君はそういうものを好んで読むのか?」
「いや、偶然見つけて読んだだけだよ。でも、こういうのも悪くないね。……この詩集はまだ読み終わっていないから、またいい作品に巡り合えたら、キミに教えてあげるよ」
「ああ、分かった。……それで、今は私に付き合ってくれるか?」
 読書が途中のようで、申し訳無いが。そうヌヴィレットは言った。彼の言葉に、フリーナは苦笑いをして答える――そんなの、もちろん良いに決まっているじゃないか、と。いまの僕には、長い時間があるんだから。続く台詞にヌヴィレットの心がぐらつく。
「……キミさえ良ければ、その――僕のことを」
 抱きしめてくれるかい、とフリーナは上目遣いで強請る。
「……ああ、無論だ」
 両腕で、ヌヴィレットはフリーナを包み込むような形を取った。僕にはキミがいて良かった。キミにも僕がいて良かったんだよね。やや声が震えている。感受性豊かな彼女は、悲しい詩に心が掻き乱されてしまったのかもしれない。ああ、と再び答える彼に、フリーナは「ありがとう」と囁くように告げるのであった。

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