想い告げる日

 北寄りの風が、フォンテーヌ廷を通り抜けていく。僕は冷たい両手に息を吹きかけてから、ふと、空を仰いだ。
「……」
 何処までも青く、何よりも高く。優しい眼差しで大地を見下ろすそれは、いにしえの時代から何も変わらない。いつの間にか止まっていたこの足が向かうべき場所は、パレ・メルモニア。この美しき水の国の中枢と言える場所。そして――僕の心を大きく揺さぶる「彼」がいる場所。
「はあ……」
 今の僕は一般人だ。本来ならば、そう簡単に会える相手ではないのだ、彼は。しかし彼は「普通の人間」になった僕に対して、接し方を僅かも歪めなかった。だからこそ、僕は戸惑う。
 彼は――ヌヴィレットはフォンテーヌの最高審判官。言ってしまえば、テイワット七国のひとつに数えられる大国「フォンテーヌ」でも一番の権力者。
 そんな彼に、僕は想いを寄せている。本当は、許される筈もない恋心である。だが、僕には、この想いを否定するようなことは出来ない。この世界は広いが、彼以上の存在など、何処を探したって見つけられないだろう。たとえ、これから先、僕にまた約五百年の生を与えられたとしても。
「……フリーナ様?」
「えっ!?」
 動けずにいた僕の名を呼ぶ声がして、我に返る。誰かと思って振り返れば、そこにいるのは、メリュジーヌと呼ばれる種族の者であった。名前は出てこないが、顔を合わせたことは何度かある。ヌヴィレットの部下だ、というのはすぐに分かった。彼女は不思議そうに小首を傾げ、僕にその目を向けていた。
「……もしかして、ヌヴィレット様にご用でしょうか?」
 僕は、またしても間の抜けた声を発してしまった。違うのですか、ときょとんとした様子の彼女に、僕は「いや」と否定する。ヌヴィレットに用がある、というのは図星だ。だが、まだ、心の準備が出来ていない。覚悟だって、一切出来ていない。ぐらりと心が揺れる。彼女は「そうなのですか」と微笑み、「では付いてきてください」と小さい背中を僕に向ける。ああ、もう、引き返せなくなってしまった。
「……」
 僕は、彼への贈り物の入った紙袋をぎゅっと胸に抱いた。そう、僕がヌヴィレットのいるパレ・メルモニアに向かう理由――それは、今日が「バレンタインデー」だからだ。要するに、想いを寄せる人や、とても大切な人に、贈り物と気持ちを渡す日なのだ。このメリュジーヌが、それを知っているかどうかは分からないけれど。
 奥へと通されて、あっという間に僕はヌヴィレットの執務室の前だ。まず、先程のメリュジーヌが大きな扉を丁寧にノックし、「ヌヴィレット様にお客様です」と告げる。「どうぞ」とすぐに返ってくる声が、もう既に酷く懐かしい。僕は一度深く息を吸った。心臓は、今にも破裂してしまうのではないかと思う程、激しく脈打っている。彼がいる。この部屋の中に、彼が。会わない日が無かったくらい、一緒にいた日々は、もう、過去と表現されるものとなった。
「――フリーナ殿……」
 先に声を発したのは、ヌヴィレットだった。彼の驚くような表情は珍しい。いつもは涼やかで、一種の冷たささえ与えがちな瞳が普段より大きくなって、僕の方へと向けられていた。
「え、ええっと……久し振り、ヌヴィレット」
「あ、ああ……」
「……」
 漂う空気が、若干重たい。突然来てごめんね、とか、変わらず元気にしていたかい、とか、そういった簡単な筈の言葉すら出てこない。暫く沈黙が流れる。それを破ったのは、ヌヴィレットの方だった。息災だったか、と問いかけるそれは、少々ぎこちなく聞こえなくもない。
「う、うん……変わりないよ」
 僕はなんとか答える。風邪もひいていないし、怪我なども特にしていない。新居での生活にも、そこそこ慣れてきた。何もかもが変わってしまったけれど、これはこれで、悪くないと思えるようにもなった。ただ、彼と――いま、目の前にいるヌヴィレットと、頻繁に会えなくなったことは、正直に言うと寂しいのだけれど、それを口にすることは難しい。
「私に何か、用があるのだろう?」
「えーっと……そ、それは……そうなんだけど……」
 声がだんだん細くなる。受け取ってもらえるか分からない贈り物を探すのは、本当のことを言えば、心が苦しかった。渡すことの出来ない未来を想像してしまうことも多々あった。僕はヌヴィレットが好きだ。でも、彼は違うかもしれない。水神を演じていた頃の僕とは、仕事だから、と、仕方なく付き合っていたのかもしれない。そう考えると、涙が出そうになった。
「どうした?」
 彼は立ち上がり、僕の方へと歩んでくる。
「……あの、その……ヌヴィレット。僕は、キミに……渡したいものがあって……」
 もう、言うしかない。玉砕覚悟で。いつの間にか俯いてしまっていた顔を上げる。ヌヴィレットの眼差しは、思っていたよりも穏やかだった。
「め、迷惑かもしれないけど……その、う、受け取ってくれるかい?」
 包みを彼の方へ差し出す。僕の視線はまたしても下方へ落ちる。ヌヴィレットは、改めて僕の名前を呟くように呼んだ。声色の優しさに、僕は再び顔を上げた。どんな顔をしたらいいのか分からなかったし、彼に拒まれたらと思うと顔を見るのが怖かった。けれど、僕のことを見るヌヴィレットの瞳は、今までで一番と言ってもいいほどに、優しげだった。
「……ああ、有り難く受け取らせて貰おう」
「本当に……? い、嫌じゃないのかい?」
「ああ」
 頷く彼は続ける。
「寧ろ、何故、君は私が嫌がると思ったのだ」
「だ、だって……キミ、こういうことには興味も関心も無いんじゃないかなって思って……。ただの迷惑にしかならないかな、って、僕は悩んでいたんだよ」
「……そうか。だが……フリーナ」
 ヌヴィレットはもう一度、僕を呼ぶ。
「……最も大切な女性からの贈り物だ。それを、迷惑に思うわけが無かろう」
 彼の頬が、ほんの少しだけ赤らむのが見えた。えっ、と僕は思わず、そんな声を出してしまう。今、彼は、なんと言ったのか。最も、大切な。そう聞こえたけれど、僕の聞き間違いだったのだろうか。
「……もう一度、言った方が良いのだろうか?」
 聞こえなかったのなら、私は何度でも言うが――そう、ヌヴィレットが薄く微笑って言うのが聞こえる。彼は僕が渡した贈り物を一旦机の上に置き、その手を僕の方へ伸ばす。その手を、僕は反射的に取っていた。結ばれた手。ぎゅっと力を込められる。
 今日は特別な日だ。長い長い歳月の中でも、一番。僕は彼を呼ぶ。すぐに返ってくる目線。彼の目に映った僕も、赤面している。
「……お返しは何が良いだろうか」
「……な、何だって良いよ。……キミからのものなら、何だって嬉しい」
「そうか。考えておこう」
 楽しみにしていると良い。そう続けたヌヴィレットは、僕の目の前でまたそっと微笑むのであった。


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2024年バレンタイン小説でした。

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