幾千年の恋

 甘雨にとって岩王帝君は絶対的な存在で、それ以上のものは存在しなかった。三千七百年前に岩王帝君――岩神モラクスと彼に従う仙人たちの力により創り出されたのが、此処「璃月」である。甘雨は麒麟の血をひいている半仙の女性だ。だから当然、岩王帝君と交わした契約は甘雨にとって何より大事なものだった。それは数千年の年月が流れようと変わらない。何もかもがひっくり返されるようなことがあっても、帝君へと向けられる想いだけは揺るがない。
 
「……鍾離さん?」
 ここは璃月港にある宿屋の一階。蛍とパイモン。今の甘雨たちは彼女たちと共にテイワット各地を巡っている。だが冒険者協会からの依頼やその他諸々の事情から、暫く璃月に留まることになっている。蛍たちは何かしらの依頼なのだろう、朝早くからこの宿を飛び出していったが、甘雨や鍾離といった何人かの仲間は自由な時間を与えられていた。
 鍾離は椅子に腰を下ろし、何やら古書を読んでいる。甘雨がそれに気付いたのは階段を下り終えた後。つまり、声をかけた後だった。
「ああ、甘雨か。お前も此処に残っていたのだな」
「ええ、あの……読書の邪魔をしてしまいましたか。ごめんなさい」
「気にするな。ただ、何となく読んでいただけだからな」
 葬儀屋である往生堂に招かれた客卿。それが今の彼の肩書だ。非常に博学で、蛍やその仲間も鍾離のことを高く評価し、「鍾離先生」と呼ぶ者も少なくない。彼はあらゆる事知識を持っている。璃月のみならず、テイワット七国の様々な歴史や地理。先程まで目を通していた本だって、きっと酷く難しいことが書かれた書物なのだろう。
「お前は出かけないのか?」
 つい先程刻晴は出かけていったぞ、と彼は言う。璃月七星の「玉衡」である刻晴は、この国の建設と土地管理を担う商人だ。甘雨からすれば「天権」凝光と同様に上に在る存在である。甘雨は璃月七星全員の秘書なのだから。
「ええと、私には特に出かける理由も無いので……」
 それに、もう少し此処に残っていたいのです、という言葉は声にならなかった。再び「どうして」と尋ねられてしまえば、答えに窮するからだ。甘雨は友や仲間と一緒に街を巡るよりも、彼と――鍾離と同じ時間を過ごしたい、そう願っていたから。
 甘雨は知らされている。鍾離が普通の人間では無いと。だからといって甘雨のように半仙であるとか、のように仙人であるとか、七七のようにキョンシーであるとか、そういったことでは無い。
 鍾離は「岩王帝君」だ。気が遠くなる程に永い時間をこの世界で生き、人間たちを守護し、時に力を貸してきた岩神モラクス。それが本当の彼の姿だ。それを知らされているのは仲間の中でも一握りの者に限られる。混乱をまた招きかねないからだ。甘雨だってそれを知った時は酷く驚いた。ずっと強く慕ってきた岩神が、鍾離という姿を取って目の前に現れたのだから。幾千年の時を経て、再会を果たしたことを実感し、涙が流れる程嬉しかった。石珀にも良く似た瞳に自分の存在が映されていることが、何よりも。これまで生きてきた中で一番と言えるくらいに。
「なら、少し俺に付き合ってくれないか」
「えっ?」
「お前も理由があれば出かけるのだろう? お前が仕事ばかりしていることを旅人や刻晴が心配していた」
 鍾離が立ち上がる。確かに甘雨は時間があればその大半を仕事に費やす。彼女の口から「趣味は仕事です」と言われた時のパイモンは文字通り飛び上がっていた。
「それとも、俺と出かけるのは不服か?」
「えっ、いいえ、そんなことは!」
 寧ろ嬉しいです、という言葉も出てこなかった。だが顔には出てしまったらしく、鍾離がからからと笑う。
「お前がそんな顔をするのは久々に見たぞ」
「鍾離さん……」
 甘雨の脳裏によぎるのは、鍾離――岩王帝君と交わした遠い約束。俺はお前たちの為にこの国と民を護るのだ、そう続けた岩神モラクスの姿を忘れることなんて出来ない。久々、と彼は言った。人の時間では図りきれない程に遠い過去を鍾離も甘雨も揃って此処で思い出す。
「あ、あの、鍾離さん」
「何だ?」
「私は……あなたが……帝君がこの国で生きるすべての人を愛して、すべての人を護る姿が、好きです。でも……」
「でも?」
 鍾離が甘雨の次の台詞を待っている。
「……本当は、私だけを……見て欲しいなんて、言ったら……帝君は私のことを強欲だと、軽蔑……しますか?」
 甘雨の深い色をした瞳が揺れた。鍾離の瞳も大きく見開かれているのが分かる。
「……ごめんなさい。変なことを言って」
「……甘雨」
 言ってしまった。止まらなかったのだ、彼への想いが。契約の国で生き人間たちを等しく護る。それが、岩神モラクス。岩王帝君を慕う者は星の数程居るのだ。璃月で暮らす殆どがそうであるのだから。甘雨の胸の中に彼への想いが重く広がっていく。
「甘雨。今の俺の名は『鍾離』だ」
 顔を上げてくれ、と鍾離が言う。甘雨がそれに従って視線を彼へと向ける。泣き出しそうな顔の彼女に、鍾離は手を伸ばす。
「今の俺ならば、お前だけを見る約束を交わすことが出来る」
 岩神としては出来ないことだが、と彼はゆっくりと答えながら甘雨を抱き寄せた。それに本当なら俺から告げたかったのだがな、と続ける鍾離の声は優しい。
「お前はいつからそのように想ってくれていたんだ?」
「……ずっと、です。気付いた時にはもう、ずっと。てい……いえ、鍾離さんのことが」
「そうか」
 甘雨、と鍾離はもう一度名前を呼んで、彼女の方も「はい」と確かな声を発する。出かけるのはやめて、こうしてふたりで居ようか、と鍾離が言えば甘雨は微笑んで大きく頷くのだった。

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