すべて失うその日まで

 蛍は、暗く冷たい闇の中にいる。何も見えず、何も聞こえない。此処は何処なのだろうか。幾つもの問いを重ねても、答えは何一つ見つからない。自分はいつもと同じようにベッドに潜り、眠りに落ちていったはず。だから、これは悪い夢。そうに違いない。早く、早く目を覚まさなければ。瞼を抉じ開ければ、そこにあるのは光の降り注ぐ青空のはずなのだから。
「――蛍」
「!」
 背後から微かに聞こえたのは、懐かしい声だった。どくんどくんと強く心臓が鼓動する。まさか、そんなはずは無い。だって「彼」はもう私の側には居ないのだから――蛍は足元が抜け落ちていくのではないかとさえ思った。振り返ることも怖く、立ち尽くすことしか出来ずにいる。
「蛍」
 次は先程よりもはっきりとした声。
「お、お兄ちゃん……?」
 振り返る勇気は持てなかったが、震え声で蛍は呼んだ。自分にとっての片翼のような――愛しい、かけがえのない存在のことを。そう、蛍には双子の兄がいる。その名前は空。空と蛍は、共に数多の世界を駆け抜けてきた。ある時、「天理」の調停者を名乗る見知らぬ神の手により空は囚われてしまい、運命は引き裂かれ――そこから先の記憶は混濁している。蛍が「旅人」となり、幻想世界テイワット中を巡っているのは、その兄を見つける為。自由の国であるモンド。契約の国と呼ばれる璃月。現段階ではその二国しか巡れていないが、いずれは稲妻、スメールといったこの世界にあるすべての国――七つの国を回ることになるのだろう。モンドでは龍災、璃月では岩王帝君暗殺騒動に巻き込まれたりもしたが。
「――蛍、どうしてこっちを……俺の方を見てくれないんだ?」
 パイモンやアンバーといった仲間にも恵まれたが、空が居なくなったことで欠けた心を埋めてくれる存在は無かった。だって、蛍にとって「兄」と呼べるのは、片割れであるのは、空だけなのだから。ずっと会いたかった。会って、その優しい瞳に自分の姿を映し出して欲しかった。その願いは振り返れば容易く叶うのに、心はざわざわと落ち着かない。不安が広がる。ここに闇が広がり満ちているのと同じように。
「……蛍」
 何度目になるのか分からない呼び声。ずっと会いたかった兄に、ずっと探していた兄に、妹であるところの蛍は何の言葉も返せない。空の声は続く。何度も、何度も、繰り返し名前を呼ばれ、けれど胸に広がっていくのは不安ばかり。彼の声は何処か不穏で、蛍の良く知る「空」の声ではないような、そんな気がするのだ。
 
 視界が白んでいく。広がる不安は消えないままだったが、夢は霧のように姿を消した。当然、空の姿は無く、あるのは宿屋の一室の光景。此処は璃月港。蛍は現在この国に滞在し、様々な依頼を受けたり、荒野を闊歩するヒルチャールや、何かと目につく宝盗団などの討伐をしている。
「……酷く魘されていたようだが、大丈夫か?」
 蛍に優しく声をかけたのは、ジンだった。彼女はモンドの西風騎士団で代理団長を務めている人物。今はパイモンや、それから何人もの仲間と共に、各地を旅するメンバーのひとりだ。ジンは真面目で落ち着いた、頼れる存在だ。蛍は頷き、大丈夫だと続ける。でも少し気を紛らわせたいから、と付け足し宿を出た。行ってくるといい、と見送ったジンの声はとても優しいものだった。
 時間帯はまだ早朝といえる頃だが、街中には多くの人がいる。この国は貿易、商人の国ともされる。そういった者たちの朝は早いのだろう。モンドとはまた違う空気が漂う。蛍はゆっくりとした足取りで街を歩いていく。
 
 どれだけ歩いただろう。角を曲がったところで、ある人物の姿が目に飛び込んできた。
「おや? 随分と朝が早いんだね、相棒は」
 蛍がばったり出くわしたのは、「公子」タルタリヤであった。彼は氷の国スネージナヤの人間で、彼の国が有するファデュイの頂点――ファトゥスに属する。ファトゥスの中でも最も若い彼は、同時に危険な人物である、とも囁かれる。そして彼は、どういうことか蛍たちの「仲間」としてテイワットを旅しているのだ。何を考えているのか。それはそれなりに同じ時間を過ごした蛍にもよく分からない。齢十四で戦場に立った等という噂もあり、なにかと謎の多い男である。加えて、掴みどころが無く飄々とした一面を見せるかと思えば、得物を手にした際の目つきは、まるで血に飢えた獣のようにギラついたもので。
「こんな時間から何かやることでもあるのかな?」
「……」
 不思議そうに問うタルタリヤだったが、蛍は何も答えなかった。そんな彼女にタルタリヤは大袈裟な溜め息を吐いてみせた。まだそんなに多くを語ってもらえる関係ではないのかな、などと言って。
「まあ、いいさ。誰にだって言いたくないことのひとつやふたつ、あるものだからね。それは俺だってそうさ」
 寧ろ語ったことのほうが明らかに少ないのでは、と蛍は思ったが口にはしなかった。まだ彼への警戒は解けない。なにせ、彼は璃月を滅ぼしかけたのだから。あの魔神を呼び覚ましたのはタルタリヤで、渦巻く水に襲われた璃月を七星――凝光や刻晴、それから遙か昔からこの国を護ってきた仙人たちと救ったのが、蛍なのだ。あの時のふたりは確かな壁で別け隔てられていた。なのに、今は「仲間」なのだと言う。それでもタルタリヤの全部を受け入れ、彼の鋭い瞳が、矢先が、蛍を貫くことが無いとは言えない。
「なら、ご一緒しても?」
 タルタリヤが問う。蛍は拒まなかった。けれど、笑顔で頷いた訳でも無い。
「それじゃあ、モンドの栄誉騎士様と一緒に、少し街をぶらつかせてもらおうかな」
 朝の日差しが遠い時代より在りし大地へ落ちていく。そして、次第に空気も温められていく。あちらこちらで人々の話し声も聞こえてくるが、蛍とタルタリヤの間に会話は無い。これでは本当に「一緒に歩いているだけ」だ。しかしタルタリヤはそれに不満を言わない。蛍はそこにも引っかかったのだが。
 
 歩きながら考えるのは、やはり空のこと。夢の中に現れた双子の兄は、昏い瞳をしていた。本当の彼とは、違う眼差し。彼と離れ離れになってすぐの頃の蛍は、夢の中で良いから兄に会いたいと願っていた。けれど、実際に夢見ると彼に違和感を覚えてしまった。なにか黒いものを心に抱え、重いものを鎖で繋いでいるような兄。蛍はちらりと隣のタルタリヤを見た。タルタリヤは前を向いていて、視線が絡むことは無い。タルタリヤも時に昏い目をする。けれども、夢の中の空のそれとは、やはり何かが違うのだ。
「……っ!」
 考え事をしていて、前方をよく見ていなかった蛍は躓いてしまった。段差があったらしい。
「――危ないよ」
 そんな彼女をタルタリヤがガシッと掴む。転ばずには済んだが、心臓が大きく揺れた。
「あっ……」
 蛍を見るタルタリヤは、とても心配そうな顔をしている。
「……ええと、その……ありがとう」
「いやいや、別に礼を言われるほどのことじゃない。でも足元には気をつけてくれよ、相棒。転んで怪我でもしたら大変だろう? 君は女の子なんだからさ」
 少し前に黄金屋で激戦を繰り広げた人物の台詞ではないような気がするが――蛍はこくんと頷いた。タルタリヤの優しさに触れた途端、胸の傷がじんじんと疼く。兄も、優しかった。いつだって蛍のことを気遣ってくれたし、支えてくれた。そんな彼は夢に出てきてくれたけれど、蛍の良く知る兄では無かった。だんだんと視界が滲んでいく。直ぐ側にあるタルタリヤの姿も、例外無く。
「ど、何処か痛いのか?」
 問われた途端に、雫が落ちた。
「……なんでも――なんでも無いの」
「そうは思えないけど……君がそういうのなら、そうなんだろうね」
 また自分は夢を見るだろう、双子の兄、空のことを。あの日から遠く引き裂かれた片割れのことを。そしてその度に傷を負うのだろう、胸の奥に。本当の再会を果たせる日が来たとして、その時に夢を振り落とすことは出来るだろうか?
「――そこに座ろう。せめてもうちょっと落ち着くまでは、さ」
 タルタリヤが指差すのは、街の片隅にある小さなベンチ。蛍は首を縦に振って、先に座り、タルタリヤも隣に座った。彼の橙色をした髪が朝の風に揺れ、蛍の淡い金髪も踊る。特にこれ以上の会話は無く、ただ並んで座っているだけ。
「……」
 どうも今日の自分は不安定だ、蛍は何度か目を擦る。青い、どこまでも青く高い大空を見上げた。兄と駆け抜けた日々が少しだけよみがえってくる。あの時も――見知らぬ神に兄を奪われた時も、世界は美しい青色で満ちていた。そう、いま隣にいる彼の瞳の色と、同じ色に。そんなことを考える蛍を、タルタリヤは何かを語るわけでもなく、ただ、その目で見ていた。


title:失青

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