ふたりの契約
今から三千七百年前、璃月は岩神モラクスと仙人たちの力によって生み出された。岩神は途方もなく長い時を生きてきた。定期的に民衆の前に姿を見せ、神託を下す。岩王帝君。人は岩神を敬意を払ってそう呼んでいる。
璃月という国は「契約」の国だ。甘雨が璃月七星の秘書を務めているのも、岩神との契約があったからだ。彼女には麒麟の血が流れている。甘雨は人間であり、仙人でもある。ふたつに属する彼女にとって、帝君は特別な存在であった。
「――甘雨。此処にいたのか」
「……はい」
そんな甘雨と「彼」は同じ道を進んでいる。璃月を揺るがした事件の解決後、ふたりは蛍と行動を共にすることにしたのだ。蛍は双子の兄を探しているという。そもそも蛍が璃月港に来たのも、兄の手がかりを得る為だった。甘雨は彼女からこれまでどのような日々を過ごしたかを聞いている。天理の調停者を名乗る「神」により兄――空と離れ離れになり、その後パイモンと出会い、璃月の隣国――テイワット大陸北東に位置する「自由」の国モンドを揺るがした風魔龍の一件を解決したのだと。きっと蛍は、テイワットの各国を巡って、ひとつ、またひとつと問題を解決していくのだろう。その道の果てに兄と笑い合える日が来ることを信じて。
「次はモンドへ行くことになった。西風騎士団が旅人のことを呼んでいるらしい」
低い声で、けれど穏やかな声で彼は言った。ジン・グンヒルドが代理団長を務める「西風騎士団」には何かと問題が山積みだ。大団長がかなりの戦力を引き連れて遠征に出ているせいだ。ガイア・アルベリヒやリサ・ミンツ、アンバーといった優秀な者は残っているものの、やらねばならないことが多く、ジンの苦悩は尽きないという。
「モンドへ行くのは久し振りだな」
「……ええ、そうですね。すぐに発つのでしょうか?」
「いや、蛍たちは買い出しに行った」
恐らく一時間は帰ってこないだろうな、と彼は言う。一時間なんてあっという間だ。本当に僅かな時間だ。瞬く間と言っても過言ではない。自分は永い永い時を生きている。人としての血よりも、麒麟の血が濃いのだろうか。そして、直ぐ側にいる「彼」も、永遠と呼べるような時を紡いできた。いや、紡いでいくのだ、これからも。
「甘雨。お前さえ良ければ、街の中を歩かないか」
そう提案をした彼は、穏やかな目をしている。
「は、はい。喜んで」
甘雨の答えに、満足げに彼が頷く。少しだけ甘雨の声が上擦っていることに、彼は気付いているのか、そうではないのか。
璃月の街は活気で溢れている。商人は大きな声で客を呼び込み、行き交う人々は揃って笑顔だ。この光景を、自分たちは護った。彼と雑踏の中を歩みながら、甘雨は思い出す。
「……」
甘雨はあの日、激闘の場に駆け付けたひとりでもあった。ある人物の手により目覚めた「渦の魔神」を仙人や璃月七星、そして、蛍と共に倒した。甘雨は空を見上げる。天権――凝光が築き上げた、あの群玉閣はもう無い。天衝山の上空に浮かんでいた空中宮殿。凝光の秘書である甘雨は、彼女がどれだけそれを大事にしていたかを知っている。多大な富を持つ凝光が何よりも大切にしていたのだ、あの宮殿を。
「どうした、甘雨?」
「……いいえ、少しだけ考えごとを」
「そうか……」
街の中心に近付けば近付くほど、人の数は次第に増えていく。甘雨と彼の間に会話はあまり無かったが、互いに一緒に街を歩くことに喜びは感じていた。
「……」
すぐ隣を歩く甘雨を見れば頬を僅かに赤く染めているのが分かった。仕えるべき存在と同じ時を過ごす。それは甘雨にとって何よりも幸福と呼べるもの。いまは「鍾離」と名乗り、整った顔立ちの青年の姿を取る、帝君。
「あ、あの、ありがとうございます」
当然、蛍たちはかけがえのない仲間だ。けれど、何よりも強い思いは鍾離へと向けられている。甘雨は帝君の為に闘うと決めており、秘めた力は帝君が願うものの為に振るうと決めている。
「急にどうした? 礼を言われるようなことはしていないが」
「いいえ、私は……あなたと共に在れることに感謝しているのです」
ふたりが足を止める。そして絡み合う視線。
「……そうか」
ならば旅人が終点へ辿り着いたその後も、共に在ろう。鍾離はゆっくりと、けれどはっきりとした声で甘雨に告げるのだった。