アタナシアの夜
私は彼を好きになってしまったのだ。
けれど、私はこれを間違った恋だなんて思わない。
たとえ、愚かな想いだったとしても。
◇
契約の国――璃月の空に幾つもの星が瞬いている。普段ならば寝息だけが静謐な空気を裂く、そんな時間帯だというのにこの部屋にいるふたりの意識は夢の外にあった。
寝台の上に横たわるのは水色の髪をした華奢な女性。そんな彼女の唇に自らの唇を落とす青年。彼らは――鍾離と甘雨は、愛し合う男女の関係にある。とはいえ、その想いを重ね合わせたのは、それほど前ではない。何度も繰り返し降る口付けに、甘雨の吐息は熱度を上げていく。鍾離の方も、その溢れる息に全身が火照りそうになっていた。普段なら見られない姿。聞くことの出来ない声。これらは、彼女が自分のことを想ってくれているが故に見聞きさせてくれる、特別なもの。
「……甘雨」
特に理由も無く、彼女の名を耳元で囁く。彼の声に甘雨が身を捩った。ふたりを見ている者は誰もおらず、声が届くのはこの場にいる甘雨と鍾離だけ。寝台がギシギシと軋む音がして、甘雨は更に体温が上昇していくのを感じた。
そもそも、このようなことをしていいのか。不安にも心配にも似た何かが、胸の奥で存在を主張する。だが、それ以上に鍾離へ対する愛しさが大きく膨らんでいくのもまた事実。彼は自ら凡人になることを望んで今の立場に在るが、それでも甘雨にとっては唯一無二の「彼」である。そんな彼から愛され、自分もまた同じだけの愛を返している――ふたたび名前を呼ばれることで、不安も、それに伴うすべての感情が日向の雪のように姿を消していく。
甘雨は鍾離に手を伸ばした。あまり日焼けをしていない白く細い腕が伸びた先にいる鍾離が、その手を取る。指と指が絡み合った。心臓が強く鼓動するのを甘雨は感じつつ、今度は彼女の方が彼の名前を声にした。
「……ん」
その唇を、またもや塞がれる。次に絡むのは舌と舌。深い口吻をしている。甘雨はそのことを自覚すると、もう何がどうなっているのか分からない程の想いの波に、すべてが拐われていってしまう。
「……っ!」
口付けはともかく、肌を重ねる行為はしたことが無い。勿論、このように愛する人に求められて、嫌なわけは無いけれど、心の中であるものが訴えかけてくる。一度は消えた筈なのに――先程と同じ、不安だとか心配だとか、そういった名で呼ばれるものが連なって。でも、と鍾離の顔を見る。彼の澄んだ瞳は、いつもと何かが違う。熱情を孕んでいる。しかし、そのような彼のことも、好きで好きで仕方がない。甘雨は、細い声である言葉を発した。室内は静寂で満ちているがゆえに、その声は彼の耳に届く。もっと、あなたに触れたい。そして――あなたにならば、触れられたい。いつもの自分であれば、発言することを憚ったであろう言葉たち。甘雨の体温は更に上がっていく。
「――いいのか? 甘雨?」
鍾離の問いは短いものだった。甘雨はそれに時間をかけて頷く。彼はそれを待った上で、もう一度彼女の唇に自分のものをそっと重ねるのだった。
「ん、あっ……」
何度も角度を変え、口付けが繰り返された。甘雨の透き通った瞳がとろんとしたものに変わっている。鍾離は、そんな彼女の頭をそっと撫でると、そのまま頬に触れた。普段とは違う紅く染まったそこも確かな熱を持っていて、甘雨は気恥ずかしそうだ。そんな彼女もまた、愛おしく思える。自分たちはすべてのもとを辿れば、非常に長い付き合いになる。そして「これから」というものも、普通の人間より遥かに多く用意されているのだ。だが、と思いながら、甘雨は自らを組み敷く鍾離の目を見た。いま心に芽吹いたそれは、確かに「鍾離」という名の彼に向かって背を伸ばしている。そこに障害は無く、甘雨は明確な恋心を彼に抱いていた。これが愚かと呼ばれるような想いであろうとも。
鍾離の手は次第に下に落ちていき、胸元がはだけられる。顕になったのは、やはり白い肌。甘雨は緊張しているのか、その身体は小刻みに震えている。しかし「本当にいいのか」と鍾離はこれ以上尋ねてはこなかった。何度も執拗に問うことはせずに、愛しさを灯した目で彼女を見る。甘雨も甘雨で分かってはいるのだ、彼が自分を痛め付けたり、傷付けるようなことは絶対にしないと。そこにあるのは信頼と深愛。甘雨の薄紅色の唇が鍾離の名を呼ぶ。その声は少々上擦ったものだったが、彼は覚悟を決めた。
「あっ……!」
彼の指先が、胸の頂にそっと触れる。その途端に、甘雨の口から濡れた声が溢れた。誰にも触れられたことのないところから走る刺激は、想像以上に強い波となって押し寄せてくる。鍾離の方も、こんな彼女を見たり、彼女のこんな声を聞くことだってはじめてで、なにかが昂ぶるのを認めざるを得なかった。
「ん、あっ……あ、んっ……ん……」
与えられるものの激しさに、甘雨が身を捩っている。寝台の上に横たえられた身体のあちこちに火を付けられたかのよう。彼女が身にまとうものを、鍾離の手が一枚一枚脱がせていく。
「とても綺麗だ」
彼の声が至近距離から聞こえる。
「し、しょう……り、さ……」
甘雨が瞳を潤ませ、顔を紅色に染め替えて、彼を呼んだ。ああ、と応じる彼がその唇を塞ぐ。彼女の意識がそちらに向けられている間に、鍾離の手は更に下へ。滑らかな肌には、所々に傷跡がある。それは、彼女が戦場を駆け抜けている証。女性の肢体には傷など無い方が良いと言うものが大多数だろうが、鍾離の目には醜いものとしては映らない。これは勲章でもあるのだ、「神の目」を得て、その眼差しを受けることで授かった元素の力と、遠い昔に交わした契約のもと――戦いというものを望まない「麒麟」の血に逆らい、戦い続けてきた甘雨の。
「ああっ……!」
彼の指が、甘雨の秘所に触れる。彼女は、とっくに生まれたままの姿となっていた。そして、その部分はすっかりとろりとした蜜を吐き出していて、甘雨は更に恥ずかしそうな表情をする。彼の指が一本、中に押し進められた。力を抜いてくれ、と言われてもなかなかその通りにはいかない。解きほぐすように、鍾離の指が何度か動かされた。その動作の度に甘雨は甘い声を上げてしまう。彼の手付きは優しい。何があっても、甘雨を傷付けたくはないという考えが見え隠れする程には。だが、甘雨は、それに気付くだけの余裕が持てずにいる。
「あっ!」
より一層、高い声がした。どうやら、甘雨はここが良いらしい。それに気付いた鍾離の指先が、そこを何度か突く。甘雨の瞳から無意識に大粒の涙がひとつ溢れて、寝台の白にしみを落とす。
「し、しょ……ああっ! ん、あっ……!」
「……ここか?」
「ん、あ、ああっ……」
甘雨の口から出る声は、最早何の意味も持たない喘ぎだけになっていた。そして彼女は彼に返答することも出来ない。涙で滲む視界の中で、どうしてだろうか、鍾離の顔はやけにはっきりと見えた。もっと、だなんて、はしたなくて言えない。でも、そちらが今の甘雨の本音だ。鍾離は鍾離で、それが分かっている。求める言葉を聞きたいところだが、顔を赤で染め、押し寄せるものに身を委ねることしか出来ない彼女に、これ以上を望むのも酷だ。鍾離は指をそっと抜くと、もう一度彼女の名前を呼んだ。
「……すべてが欲しい」
続けた言葉に、甘雨の双眸から光が落ちる。
「……いい、だろうか……甘雨」
鍾離の声に対し、甘雨は眼差しで応えてみせた。声として気持ちを発せずとも、彼らは分かり合うことが出来る。ギシ、と寝台が軋む音がする。鍾離は何度目になるか分からない口付けをしてから、甘雨の濡れそぼったところに自らの盛りを押し当てた。彼のものも甘雨を求めており、その逆もしかり。
「……ん」
身体を繋げ合うことに一切の抵抗が無い、とは言えなかったが――彼らは互いを求めている。それが、岩神と半仙の娘の間に成立するもので無かったとしても、ふたりは好きになってしまったのだ。過ちの想いなんかでは無い。愚かだと言われようと、甘雨は鍾離を想い、鍾離は甘雨を想う。それに誰が口出し出来るのか。
「あああっ……!」
鍾離の熱が、甘雨のなかへ這入っていく。恐る恐るでは逆に不安になるだろうと思い、ある程度の勢いをつけて。
「……くっ……辛くは、ないか……?」
その問いに、甘雨は頷いた。そんな答えを見ても、やはり無理をさせているのではないかと思ってしまう。鍾離は、何度も彼女の名を呼びながら最奥を目指す。ああ、と甘雨が声を上げる。高く濡れた声。他の誰にも聞かせたくない、そんな声を、他の誰にも見せたくはない表情をした彼女の口からこぼれ出た。そう簡単には言い表せない独占欲が、鍾離の奥底を満たしていく。
「……っ!」
鍾離は甘雨の背中に手を回し、彼女の身体をゆっくりと起こさせる。動くぞ、と前置いてから、下から上へと突き上げる動きをすれば、その度に寝台はギシギシと軋み、甘雨もまた嬌声を上げた。海原の波のように快楽が押し寄せて、次第にそれが大きさを増していく。
「ああっ、あっ……ん、あっ……! んっ……!」
甘雨の理性の箍は、もうとっくに外れている。恥ずかしい、という気持ちも快感の裏に隠されてしまった。それでも流れ落ちる涙。鍾離は背に回した手でそこを優しく撫でてから、更に律動を繰り返す。動けば動く程に甘雨の艶めかしい声が響いて、鍾離の方も何もかもが崩れてしまうようなそんな感覚に陥る。愛しい人とひとつになったことと、愛し愛されているということを実感する喜び。これ以上の幸福は、この広いテイワット大陸の何処を探したって見つからないだろう。何度も舌を絡ませ、その度に心は互いへの熱情で満たされる。
「ああ、ん、んんっ……あっ……!」
少しずつ迫りくる限界。鍾離は、まるでそこを目指すように動いた。自分より、ずっと小さな彼女の手に自らの手を絡めて。
「あっ、ああああ……もう、わ、わたし――」
誰も自分たちを見ていない。いま、この時だけは、ふたりきりの世界。神だとか、仙人だとか、仙獣であるとか、人間であるとか――そういった大きな概念も霧隠れしている。甘雨は鍾離を愛し、鍾離は甘雨を愛する。その結末が此処に在る。
「くっ……!」
切なく歪んだ、至近距離にある鍾離の顔と。
それを見る、昂ぶるものに全部が支配された甘雨の瞳。
「ああっ、あっ……あああ――!」
ほぼ同時にふたりは達した。熱い白濁が放たれて、甘雨の身体がぴくりと揺れる。鍾離と甘雨、それぞれが零す荒い息はひとつになって甘い空間を漂った。
「っ……」
甘雨が、そのまま寝台に崩れるように身体を横たえる。鍾離はそんな彼女の頭を何度も撫でて、まだ火照ったままの顔を覗き込んだ。はあはあ、と息を整える彼女に彼は気遣う言葉をかけ、それに対し彼女は淡く笑む。
「……鍾離、さん」
未だ熱の冷めない彼女の声。それ以上言葉は足されない。ただ、愛しい人の名を呼んだだけのよう。鍾離は、そんな甘雨に倣ったかのように笑んだ。汗の光る額も、それにはり付いた髪も、まだ露わになったままの肌も、そして向けられるふたつの瞳も――ここにあるすべてが愛おしい。まだ夜は長く、朝は遠い。鍾離は甘雨に口付けて、耳元で囁く。その声に甘雨がまた頬を赤らめたが、その目には確かな幸福感が浮かんでいた。