Anser

 鼻に付く臭いがして、眉を顰める。蛍が自分の足から血が滴っていることに気付いたのはその後だった。
 ファトゥス第11位――「公子」と呼ばれる青年が蛍のことを見下す。その顔には確かな笑みがあって、蛍は本能的に「逃げなければ」と思った。「ファトゥス」。それは氷の国スネージナヤが擁する「ファデュイ」と呼ばれる組織の中で、頂点に立つ者たちを指す単語である。11人存在するファデュイの中でも、「公子」タルタリヤは最も若く、同時に最も危険な人物だと囁かれていた。
 掴みどころの無い彼は、幾度と無く蛍とその仲間の前に姿を見せてきた。だがこうして交戦するのは初めてで、蛍は圧倒的な戦力差に唇を噛むことしか出来ない。
「――その程度かい?」
 タルタリヤは普段と変わらない声色で問いかけてくる。蛍を見る瞳はテイワットの空と同じ色をしていて、こんな状況下だと言うのに酷く美しく見えた。
「そろそろ、本気を出してくれないか。俺は君と戦いたいって言ったじゃないか」
 彼はそんなことを言いながら長い手を差し伸べてくる。この手を掴んではならない。蛍はそう思って、彼に向けていた視線を逸らした。すると、タルタリヤは大袈裟に落胆したかのような顔に変わる。
「ひどいな。君を殺したいわけじゃないって言ったはずだけど?」
 これは罠だろうか?
 蛍は考える。そうやって嘘を並べて、本当は自分の命を狙っているのではないかと。タルタリヤはファデュイだ。外の世界を幾つもこえてきた旅人と、大国スネージナヤの執行官。その力を比べてしまえば一目瞭然。ここで死ねば、双子の兄――空との再会は果たせない。蛍がここまで戦い抜いてきたのは、「神」の手によって引き裂かれた兄を探し求める為。空は今も苦しんでいるかもしれないし、「神」によって自由も何もない状態かもしれない。死ねない。蛍はタルタリヤを強い目で見た。
「ああ、その顔だよ!」
 戦闘狂。そんな言葉を咄嗟に蛍は脳裏に描いた。
「さあ、続きを楽しもうじゃないか! この戦いの続きをね!」
 タルタリヤが得物を強く握りしめるのが見えた。蛍は一度先程負った傷を見る。流血はあるがそこまで深い傷ではないはず。鋭い痛みも感じられるが、この程度の痛みであるのならなんとか耐えられる。
「はあっ!」
 剣を振りかざすと、蛍の金髪がさっと踊るように揺れる。ずっとこの剣を手に戦ってきた。きっとこれからもそうなる。兄を見つけ、世界の答えを知る時を迎えるまで――どんな困難があろうと、どんな障害があろうと、蛍は意思を貫き通してテイワット大陸を駆け抜けていかねばならなかった。
「ああ、やっと……やっと本気を出してくれるのかな?」
 タルタリヤの瞳がぎらりと光るのが見える。狂気的に見えるそれから蛍は逃げなかった。幾つもの夜と朝をこの剣をもって越えてきた。そしてタルタリヤという名の青年との戦いも――越えねばならない。蛍の目にも強い光が宿る。
「――くっ!」
 激しい攻撃に蛍が表情を歪めた。タルタリヤは容赦無く攻撃を繰り返してくる。流石は「公子」だ。若くして氷の国の執行官のひとりにまで上り詰めたタルタリヤの実力は本物である。
 蛍のことを殺さない、とタルタリヤは言った。だが、そうならば。それが本当のことであるのなら――戦いの終わりは何処にあるのだろうか。蛍はそれを問いかけようとして、言葉を飲み込んだ。喉の奥へそれを押し込める。タルタリヤがさっきまでとまるで違う表情をしていたからだ。何処か淋しげで、痛々しい笑みが見えたのだ、蛍の澄み切った瞳に。
「……ははっ、どうしたのかな。そんな顔をして」
 それはこっちの台詞だ、と蛍は言いたくなった。実際、すぐにタルタリヤが口を開かなければ、きっと問いかけていただろう。
「まあ、なんとなく分かるけどさ。……思ったんだよ、俺と君がこんな戦いをせずにいられたらどうなるのかな、ってね」
 それこそ謎めいた言葉だった。蛍はパイモンと、そして風の国モンドで知り合った仲間たちと此処まで来た。それはモンドを救う為の戦いだったが、テイワットを巡るうちに璃月を守る為の戦いにもなった。一方でタルタリヤはファデュイである。凍てついた国の君主が何を目論んでいるかは未だ定かではないが、彼はどうあっても「旅人」である蛍の進む道に交わらない。
「君に興味があるよ、旅人」
 だから、とタルタリヤは言葉を切った。
「――もう少し、君の実力を見せてくれるかな? こんなものじゃないんだろう?」
 鋭い眼光に、蛍が「えっ」と声を漏らす。
「だって、俺たちは戦い合うことしか出来ない。ああ、死ぬまでの戦いは求めないよ、そう約束したからね。でも、まだ……まだ足りないんだ」
 迂闊だった、と蛍が思った途端にタルタリヤの一撃が飛んでくる。ぐっ、と痛みに蛍が呻くのを彼は見下ろして笑う。ほら、立って。もっと聞かせてよ、君の声を、叫びを。彼の声はついさっきよりずっと低いものとなっていて、蛍は新たな傷に手を当てる。赤いものが溢れ出てくる。殺す気が無いというのは事実のようで、然程深いものではないけれど、痛みが無いわけではない。蛍の足元が赤く染まるのを、タルタリヤは涼しい目で見ていた。蛍は剣を床に突き刺すと、それを支えにする形で立ち上がる。大丈夫か、とパイモンが叫んでいるのが聞こえてきて、蛍は頷くだけで相棒に答えた。剣を構え、タルタリヤにそれを向ける。銀色に鋭く光る切っ先を。
「君はここまで来たんだ。俺にその答えを教えてくれたっていいと思わない?」
 タルタリヤは淡々と言う。蛍はそんな彼に頷いた。答えが欲しければ幾らでも教える。戦いで満たされるなにかがあるのならば付き合う。それが蛍の返答であり、決して交わることのないタルタリヤへの思いであった。

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