涙落ちるとき
甘雨が「彼」と今の関係を得たのは、それほど前のことではなかった。
稲妻での旅を終えた旅人が璃月を再訪し、その空にふたたび群玉閣が浮かび上がり、契約の国はまた新しい一歩を踏み出している。そんな璃月で、甘雨は今日も膨大な量の仕事をこなした。気付けば空は茜色に染まっていて、もう少し経てば太陽は水平線の向こうへと姿を消す――そんな時間帯に差し掛かっていた。甘雨、と呼ぶ声がして、名を呼ばれた彼女が淡い水色の髪を揺らしながら振り返ると、刻晴が手招いているのが見えた。
「どうかしましたか、刻晴さん」
刻晴は「璃月七星」のひとり。玉衡とも呼ばれる。
「凝光に言われたの。そろそろ休憩をとったらどう、って」
「凝光様に、ですか?」
首を小さく傾げる甘雨に、刻晴は「ええ」と頷く。一緒に夕食を摂りに行きましょう、と続けながら。甘雨はちらりと後ろを見た。仕事はまだ終わっていない。まだまだ目を通さねばならない書類は山になっているし、捺印が必要なものだって多い。けれど、前にも凝光から言われている。真面目なのは良いことだけれど、休憩はしっかりとりなさい、と。甘雨は「ご一緒させてください」と答えた。決まりね、と続ける刻晴と共に、甘雨はこの場を離れていく。
このように、刻晴と一緒に食事を摂りに街に出るのは、はじめてかもしれない。自分たちはそこそこ長い付き合いにはなるけれど、「七星」と「秘書」という線引きはずっと前から存在していた。それに、甘雨は基本的に食事を独りで摂ることを好む。理由はふたつある。ひとつは甘雨自身が菜食主義者である為だ。肉類などを食べない自分に、相手を合わせる必要が出てくる為。甘雨は殆どの場合、そういった誘いを断ってきた。だが、刻晴はそれを知った上で声をかけてきてくれたのだ。もうひとつの理由は――甘雨は「食」というものに大変気を配る性格だからだ。美味しいものを前にした時、食欲をセーブするのに彼女は必死になる。誰と一緒に食事を摂ることになれば、その箍が外れてしまう危険性がある。でも、今日は刻晴の誘いを受けた。どうしてなのか、自分でもよく分からない。
「――このお店でもいいかしら」
気付けば、目的の店の前まで来ていたらしい。刻晴の声に、甘雨が顔を上げる。この店には前にも来たことがあった。その時はひとりだったが、自分でも食べられる料理が何種類かあったと記憶している。大丈夫です、と答えると刻晴はほっとしたような顔をして、店の扉に手をかけた。
店員に案内されたのは、テラス席だった。中はもう満席らしい。時間が時間なのだから、無理もない話ではある。刻晴と甘雨は向き合う形で椅子に腰を下ろし、手渡されたメニューを見ながら注文するものを決めていく。甘雨は少し迷いながらも、野菜をふんだんに使った料理を選んだ。刻晴も、自分が好きなものを注文する。程なくして運ばれてきた料理に彼女たちは目を輝かせ、そんな自分たちに笑みを零し、食事を始める。
彼女たちは時折ちょっとした会話を交わしながら、料理を口に運んでいく。この店の料理は絶品だ。甘雨も刻晴も同じように思いながら、手と口を動かす。こんな風に和やかで、穏やかな時間を過ごせることに彼女たちは喜びを覚える。
今でこそこのような関係にあるが、甘雨と刻晴は特別親しい仲、という訳では無かった。岩王帝君に絶対的な忠誠を誓う甘雨と、岩王帝君の決定のみで動く璃月というものに疑問を持つ刻晴。ふたりの考えは、そのように異なっていたからだ。人間が前を向いて進んでいく為には、神の支えから自立しなければならない――刻晴の思想を甘雨はあまり理解できずにいた。しかし、今は一定の理解を双方が持っている。甘雨が岩王帝君との契約を捻じ曲げることは一切無いし、刻晴の方も思考を変える気は無い。それでも、だ。
「……あら、もうこんな時間なのね」
食事はとっくに終わり、甘雨と談笑をしていた刻晴が呟くように言う。刻晴はゆっくりと立ち上がった。これから行かなければならないところがあるの。そう続けた彼女は申し訳無さそうに甘雨へ言う。私は先に失礼するわ、と。長い紫髪を揺らし、刻晴は急ぎ足で店を離れていく。相変わらず多忙な人だ、と甘雨は思いながら湯呑に残った茶を飲んだ。それはもう既に熱を手放していて、とっくにぬるくなってしまっていたけれど、深い味わいは残っている。自分もそろそろ店を出ようか。甘雨は茶を飲み干すと、腰を上げて、店を離れた。
璃月の街は夜を迎えている。刻晴と食事をしているうちに太陽は沈んでしまった。それでもこの街の賑わいは失せない。流石はテイワット最大の繁栄を誇る国である。契約の国とも商業の国とも呼ばれる璃月は、各国からの情報と物資が集う流通の都でもある。岩王帝君の庇護下で人々は多くを得て、そんな岩王帝君との契約を貫き通してきた国なのだ。今までも、これからも、甘雨は「七星」の秘書としての日々を永く積み重ねていくことだろう。
玉京台に戻るべきだろうか、と考えはじめた頃だった。甘雨の視界に「彼」の姿が飛び込んできたのは。その人物は、前方からゆっくりとこちらへ向かって歩いている。長身痩躯の青年だ。焦茶色の衣服と、それに近しい色の髪をした彼は甘雨の存在に気付くと、琥珀色の瞳を少々大きくさせた。甘雨の方もそれは同様で、ぴたりと足が止まってしまう。
「――鍾離さん……」
先に声をかけたのは甘雨だった。彼は璃月の葬儀屋「往生堂」の客卿で、非常に博学な人物として知られる。一時期行動を共にしていた旅人からは「先生」と呼ばれる程だ。鍾離もまた甘雨の名前を呼び、彼女と同じく足を止める。甘雨の髪と鍾離の髪、どちらもが風に靡いてそれはまるで波のよう。甘雨にとって鍾離は特別な人だ。そう、想いを通わせた関係にある。立場が立場故に、始終一緒にいられるようなことは無いものの、甘雨は鍾離に強い想いを抱いているし、鍾離の方もまた甘雨に冷静ではいられない感情を持っている。
ふたりはどちらともなく一緒に歩み始めた。人々が多く行き交う道の真ん中にとどまり続けていては邪魔になる。そうして鍾離と甘雨が辿り着いたのは、璃月港が見渡せる高台。灯りは非常に少なく、その為、酷く薄暗いというのに不思議と互いの顔はやけにくっきりと見える。
「……変わりはないようで何よりだ」
「ええ、鍾離さんも」
そういう関係にあるとはいえ、ふたりだけになるのは久々のこと。普通の人間よりも、ずっと長い時間を与えられて生きる彼らだが、それでも空白の時間が在れば、それを埋めたいと願うのは自然なこと。肩を並べ、寄り添い、彼らは夜の璃月港を見下ろす。甘雨はちらりと傍らの彼を見た。自分の心臓はどくんどくんと強く鼓動していて、この静寂の中でならば、彼に聞こえてしまうのではないかと心配になるほど。ずっと鍾離に会いたいと思いながら、時を刻んできたというのに、いざ彼を前にすると言葉が喉につかえてしまう。
「……甘雨」
そんな甘雨に気づいたのか、それとも、気づいてはいないのか。鍾離が名前を呼び、甘雨が無意識に俯いていた顔を上げて、視線を絡ませる。彼と会う度に、綺麗な瞳だ、といつも思う。夕暮れの空を閉じ込めたような、そんなふたつの瞳には深い優しさと底知れぬ強さが共存していて、ずっとその目を見ていたいと願いたくなってしまう。甘雨は全身が火照るのを感じた。
彼に触れたい。そんな風に願ってしまう自分に、驚きと恥じらいを覚えつつ、甘雨は鍾離から目を逸らさない。いや、逸らせないのかもしれない。この広大なテイワットという大地の上で、何よりも、誰よりも、愛おしい人。自分にとっては「彼」が一番で、それはきっと永久に覆されることはない。それは彼が彼であるからであり、あの遠い契約のせいではない。
「……どうした?」
鍾離が甘雨に優しく問う。いえ、と口籠る彼女に鍾離は僅かに笑んだ。すべてを理解したかのような、そんな眼差しを向けつつ、鍾離が甘雨の身体を引き寄せる。そのまま背中をそっと撫でた。慈しむような優しい手に、甘雨は彼の腕の中で涙をひとつ落とす。彼と居られる。彼が側に居る。途方もなく長い時間を積み重ねてきた自分が――自分にすべてを与えてくれた「彼」と居るのだ、またしても目頭が熱くなる。
「甘雨」
彼の声が名を紡ぐ。
「鍾離、さん……」
同様に返した声は震えていたけれど、それは孤独に縛られていた頃とは違う。甘雨は幸福な涙を落としながら、鍾離の名をふたたび呼んだ。