蒼と石
はじまりの魔神は、塵の魔神で、名を「帰終」という。現在の帰離原に都市を築くと、そこは目まぐるしい発展を遂げた。帰終の降臨から幾何の年月が流れ、岩の魔神「モラクス」がテイワットに降り立った。後に岩神として「岩王帝君」と呼び崇められることとなる彼と、帰終の関係は非常に良好で、帰離原という地名も二柱の神の名を取って付けられた。世の塵を払い、民を守る――モラクスが契った最古の契約は、民を心から愛した優しき神、帰終の思いも密接に関わっていたのかもしれない。
だが、帰終は魔神戦争の最中、助力した仙人たちの奮闘も虚しく命を落とした。モラクスはそれを嘆きながらも、彼女との思い出が残る帰離原で暮らす民を、現在の璃月港にあたる南の地へと導いた。璃沙郊が水底へ沈み、渦の魔神「オセル」がモラクスに敗れて海中に封印され、塩の魔神「ヘウリア」も落命するなど、太古の璃月も激動の時代を送っていたと言える。
「――」
鍾離は?林と呼ばれる璃月西部にいた。慶雲頂に華光の林、奥蔵山などと呼ばれるエリアから成るこの地は、璃月を守る仙人たちの住処だ。加えて高低差の激しさもあり、普通の璃月人が迂闊に入り込むことはあまり無い。岩陰では石珀が静かに時を刻み、清心の純白の花は蒼穹を見上げる。鍾離が居るのは絶雲の間。その名が指し示す通り、眼下には雲海が広がっており、絶景といえる。
鍾離の脳裏に過ぎるのは、遠い時代、共に生きた同胞の姿だ。人間の姿を取り、「往生堂」に招かれた客卿として過ごす彼の正体こそが、「岩王帝君」と呼ばれる岩神モラクスだ。鍾離は六千年以上の時を生きている。契約のもとで璃月を守る役割を担い続けていたが、あることを切っ掛けに神の座を降りることを決めた。
だが、帰終はどう思うだろうか、鍾離は遠い景色を眺めながら考える。そして「俗世の七執政」の一柱――モンドの風神もどう考えるのだろうか、テイワットの七神の中で一度も代替わりをしていないのは、風神バルバトスと岩神モラクスだけであり、スメールの草神にいたっては今から約五百年に目覚めた若い神である。
モラクスが魔神戦争を戦っている頃、「竜巻の魔神」とされるデカラビアンが旧モンドを建国し、反旗を翻したアンドリュスがモンド全域を氷で閉ざし、フィンドニールに逃げ延びた僅かな人間にも「寒天の釘」が落ちて壊滅した。それによる犠牲者の数は、神であっても想像するのも難しい。
「……あなたは――鍾離さん?」
考え事に耽っていた彼は、背後から聞こえた女性の声により現実へ引き戻される。たとえるなら小鳥の囀りのような声の持ち主は、甘雨だった。彼女は璃月を実質的に統治、運営する「七星」の秘書だ。そして仙獣「麒麟」と人間の混血児であり、鍾離がモラクスとして魔神との長い戦いに明け暮れていた頃からの付き合いになる。だが、鍾離は彼女に正体を明かしていない。その理由は鍾離本人ですらよく分からないが――もしかしたら、帰終の死で味わった別れの鋭い痛みを、今でも恐れているからなのかもしれない。関わり過ぎることは、時にそんな苦しみを刻み付けるから。
「鍾離さんはどうして此処に?」
甘雨が小首を傾げて尋ねてくる。鍾離はすぐには答えず、目の前に広がる景色を眺めてから口を開く。きっとお前と同じだ、と。その返答に甘雨が目を大きくさせている。甘雨は半仙の女性であるから、この仙境とされる地の方が馴染むのだろう。璃月港のような人間たちの街よりも、ずっと。甘雨はそこまで口数の多い女性ではなかった。加えて詮索好きでもない。鍾離の答えに驚きつつも、そのまま彼の隣で世界を見据える。
「……景色が綺麗ですね」
「ああ、お前の言う通りだ」
鍾離が目を細めた。懐かしさと寂しさは似ている。それは波紋のように彼の胸に広がっていく。
「今年ももうすぐ迎仙儀式だな」
彼は静かに言った。迎仙儀式。それは一年に一度執り行われる、契約の国「璃月」の神事。岩神モラクスはその時だけ人間の前に姿を見せる。璃月の運営方針についての神託を下す為に。甘雨は「そうですね」と答えながら僅かに頬を紅潮させる。
鍾離と甘雨はまだ「出会ったばかり」だ。甘雨は彼がモラクスであると今はまだ察することが無いだろう。分かっていて、彼は儀式についての話題を振った。今回の儀式で自分は動くつもりだ。鍾離は入念に計画を立てている。それは甘雨を――長きに渡り岩神へ忠誠を誓い、絶対的なものであると思い続けている彼女を欺く行為だろうか。だが、鍾離は計画を進めると決めているし、彼女の方からすべてを察する時まで正体を明かさないつもりでいる。仙境へ踏み入ったことなどはヒントになりえるかもしれないが。
「お前も何かと忙しいだろう?」
「はい。でも……今日はお休みを貰っているんです」
「……そうか」
甘雨は七星の秘書として膨大な量の仕事をこなす。それは、すべて岩神の民の暮らす璃月の為。鍾離は彼女の透き通った瞳を数秒間見た。彼女はその目でテイワットの変化を見守り続けてきたし、これからもそれは続く。
――もし彼女が俺の正体を知ってもなお、俺のことを「個」として見てくれるだろうか?
そんな疑問を掲げつつ、鍾離は甘雨を見つめ返すのだった。