氷の熱

 暗雲が立ち込めていた。おそらく雨が近いのだろう。
 ここは璃月。民はこの国を築き上げた契約の神「モラクス」を「岩王帝君」と呼び崇めている。璃月は、七つの国が存在するテイワット大陸でも、最大の繁栄を誇る国でもある。活気溢れる港を離れれば、聳え立つ山々や石林に囲まれた絶景が広がっており、人間とは違う時間を生きる仙人たちの住処も存在する。そんな美しさと力強さを兼ね備えたこの国を統治しているのは、「璃月七星」と呼ばれる七人の大商人たちである。中でも、法解釈などを担当する「天権」――凝光が事実上のトップで、玉衡や天枢といった面々をまとめ上げていた。
 そんな璃月港の景色をタルタリヤは眺めていた。タルタリヤは氷国スネージナヤの外交機関「ファデュイ」に所属する。そのファデュイの中でも「ファトゥス」と呼ばれる十一人の執行官のひとりに「公子」タルタリヤは数えられていた。
 タルタリヤにとって、璃月という国が特別な場所という訳ではない。あくまで氷の女皇から任務を与えられてここに滞在しているだけであって、目的の為ならどんなことでもする。事実、彼は造幣局「黄金屋」で「禁忌滅却の札」を用い、上古の魔神を召喚した。そこまですれば散々自分を弄んだ岩王帝君様とやらも姿を見せるだろうと考えたのだ。
 結果から言えば、魔神オセルは璃月七星と仙人、そして旅人に討たれた。凝光の所有する空中宮殿「群玉閣」を魔神の頭上に落下させることで。仙人と呼ばれる者たちと七星の仲は決して良好では無かった。だが彼らには共通していることがあった――それは璃月を守りたいという思いである。岩王帝君が遠い昔に築き上げたこの国を、暗い海の底で落とすわけにはいかない。
 そこだけを切り取れば、タルタリヤ――ファデュイたちの計画は失敗に終わったように見える。しかし、事実はそこまで単純ではない。魔神との戦いのあと、ファトゥスの第八位「淑女」シニョーラが鍾離から「神の心」を譲り受けたのである。鍾離は旅人に助力した人物であるのと同時に、この璃月を揺るがしたすべての発端であった。長きに渡り契約の神として璃月を守ってきた鍾離――モラクスは神の座から降りることを決め、淑女と契約を結んでいたのだ。スネージナヤの「氷の女皇」と結んだ「全ての契約を終わりにする契約」。それを果たす為に多くを騙し、多くを救った。タルタリヤも、知らずしらずのうちに彼の計画に翻弄されていたのだ。流石は契約の神、ということだろうか。
「……」
 タルタリヤはもう一度空を仰いだ。雨の気配は先程よりも近付いているように思える。高台から下を見れば、多くの人々が行き交う様子が見える。それは、あの日のタルタリヤが滅ぼしかけた光景でもあった。あの時の魔王武装は今でもタルタリヤの身体を蝕んでいる。強大な力を用いるには代償が付き纏うということだ。しかし、旅人――蛍との一戦は今なおタルタリヤの血を滾らせてもいる。明るく、自信に溢れた顔の裏に、タルタリヤは闘うことへの狂気を隠し持っていた。強者と闘うことだけが彼の乾きを潤すのだ、血の臭い、死への足音、鋭い痛み。そういったものにタルタリヤは興奮を覚える。最も若いファトゥスでありながら、最も危険なファトゥスと囁かれる理由はそこにある。
「……うん?」
 いつの間にか視線は下の方へ落ちていた。視界に見知った姿が入り、タルタリヤは少しだけ身を乗り出す。まだ雨は降ってないが、先程より空気が湿っぽく感じられ、より一層その時が迫っているのが分かる。その人物は、淡い金色の髪に全体的に白い衣服を纏った少女。彼女こそが旅人――蛍だ。タルタリヤは思わずそこから飛び降りる。難なく蛍の数メートル前に着地すれば、タルタリヤの突然の登場に蛍が目を丸くした。
「やあ、久し振りだね。おチビちゃんは一緒じゃないのかな」
 珍しいね、とタルタリヤが言うと蛍ははあ、と大きな息を吐く。
「……パイモンなら万民堂だよ。香菱の新メニューを食べてるところ」
「へえ、君は行かなかったんだ」
「だって、私、さっきご飯は食べたから……」
 パイモンというのは蛍の相棒、のような存在だ。基本的にいつでも蛍と一緒にいる。タルタリヤはもう一度「へえ」と答え、こう続ける。少し俺に付き合ってくれないかな、と。蛍の表情が強張った。
「また戦い?」
「ハハッ、話が早くて助かるね」
「……街の真ん中で?」
「勿論、場所は変えるよ。こんなところで騒いでいたら、千岩軍に捕まってしまうからね」
 タルタリヤは微笑った。蛍の方はと言うとまるで真逆な顔をしている。
「それで、君は俺の誘いを受けてくれるのかな」
 改めて綴られたその言葉に、仕方ないな、といった様子だったものの若き旅人は頷いた。

 ◇

 タルタリヤと蛍は璃月の街を離れ、人気の少ない草地にまで足を運んだ。本当に闘うことが好きなんだな、と蛍は呆れたような顔になる。運良くまだ天気はもっていた。蛍は片手剣を構える。彼女はずっと剣を手にテイワット大陸を巡っている。大切な人を探しているのだと、タルタリヤもいつだったか聞いたことがあった。蛍にとってタルタリヤは「味方」であるとは言い難い存在。しかし、ある程度、互いを分かり合っている存在でもある。タルタリヤがスネージナヤのファデュイであることに変わりはないし、彼が璃月で行ったことを蛍は全部を許すわけにはいかないと思っている。でも、それでも――蛍は真っ直ぐな目を、何もかもを射抜くような目を彼へと向けていた。
「――行くぞ!」
 タルタリヤも弓に矢を番えた。蛍の得物は片手剣。遠距離から攻撃を仕掛けられる弓矢には分が悪い。しかし距離を詰めてしまえば勝機はある。だがタルタリヤは弓だけではなく双剣の扱いにも長けていた。そう、水で構成された武装を開放することで。距離が狭まると、蛍が思ったようにタルタリヤは双剣に持ち替えてくる。
「はあっ!」
「――くっ!」
 全力で振り翳されたそれを蛍は間一髪で避けた。蛍もやられてばかりという訳にはいかない。強く拳を握りしめながら、元素力を手に集める。蛍は特別だ。この世界で元素力を扱うのには「神の目」というものが必須だ。神からの眼差し。神からの恩恵。仲間のアンバーが「炎の神の目」を持ち、ガイアが「氷の神の目」を、リサが「雷の神の目」を持つように、与えられる力は七元素のうちのひとつになる。タルタリヤの場合は「水」のものを持つが、彼は同時に「雷」の邪眼を所有する。
「はあっ!」
 集められた風の力が、タルタリヤに向かって飛んでくる。大地を吹き付け、木々を揺らし、海面に波を立て、時に人の心に不安を齎すようなそんな冷たい風。タルタリヤの腕をそれが掠め、痛みが走って彼は小さく呻いた。
「ハハッ、やっぱり君との闘いは実に面白い」
 タルタリヤは、狂気すら感じられるギラついた目を蛍へ向ける。あの時と同じだ、黄金屋で激闘を繰り広げた時と。あの時は絶対に負けてはならない闘いだった。ファデュイである彼が勝利するようなことがあれば、璃月は大きく揺らぎ、彼の策によって海の底へ落ちていたかもしれない。それに、蛍だって膝をつくわけにはいかないのだ、謎の神――「天理の調停者」に奪われた兄と再会を果たす時まで。
「君の全力を見せてくれ!」
 彼が叫ぶように言う。蛍は身じろいだ。あの時と今は違う。でも、全力で闘えと言っている。それはつまりどちらかが死ぬまで闘えということなのだろうか。タルタリヤは「闘い」になると理性のすべてが水の泡のように弾け、消えてしまうのだろうか。でも、と蛍は思う。もしタルタリヤが自分との闘いで死んでしまうようなことになったら、とても悲しい。彼の笑顔は嫌いではない。蛍がファデュイと分かり合える存在でない以上、心からの笑みではないかもしれないが、故郷について語る時の彼は本当に穏やかな目をしてくれたから。蛍は強く剣を握った。その切っ先を再びタルタリヤへ向ける。鈍く輝くそれにタルタリヤが笑った。
 ちょうどその時だった、ざあ、と雨が降ってきたのは。あっという間に雨脚が強くなり、冷たいそれはタルタリヤと蛍のことをも責めているかのよう。タルタリヤが舌打ちをする。せっかくいいところだったのに、と吐き捨てるように付け足す彼は得物をしまうと、蛍に右手を伸ばした。
「えっ?」
 なんの躊躇いも無く差し伸ばされた手。蛍の方が躊躇する。
「早く!」
 タルタリヤはやや強引に蛍の腕を掴んだ。そのまま木陰まで急ぐ。足元は気づけば泥濘んでおり、靴などを汚してしまっている。ざあざあという雨音の中、蛍は左胸が酷く騒ぐのを否定することが出来なかった。
「大丈夫かい?」
「……平気」
「なら、いいけど」
 彼は、蛍のやけに短い返事に文句も何も言わず、遠くに目を向けた。
「こうやって誰かと雨宿りをするなんて、久し振りだな」
「……私も」
 蛍は無意識なまま答えていた。お兄ちゃん、と思わず声が漏れる。タルタリヤの視線を感じ、彼女が俯いていた顔を上げて視線を動かすと、彼は何かを言いたげな顔をしていた。少しの間を置き、彼は言う――そうか、君にもきょうだいがいるんだな、と。蛍は何も語るつもりでは無かった。
 再三繰り返すがタルタリヤはファデュイ。それも執行官のひとり。それらと敵対し、抗っているのが蛍なのだ、スネージナヤの闇そのものを抱えるタルタリヤに多くを語るのは愚行なのだろう。でも。
「……お兄ちゃんに会いたい」
 言葉が溢れた。同時に、涙も。突然姿を見せた神の手により、双子は引き離された。七神に会うのは彼への手がかりを得る為。
「俺にも弟妹がいる。だから……少し分かるよ、君の気持ちは」
 枝葉の隙間から落ちる雨と、止まらない涙が混じり合って、もう、よく分からない。蛍が顔を上げ、充血した瞳でタルタリヤを見れば彼はどういうわけか傷付いた顔をしている。何故、タルタリヤがそんな顔をするのか。蛍は疑問に思ったが、すぐに答えを見つける、ああ、彼も痛みを知っているのだ。
 ファデュイのひとりとして闇を抱えるタルタリヤ。本当の自分を家族に隠し、黒いものを纏って闘う。そんな自分が少し嫌なのだろう、しかし彼は同時にスネージナヤのファデュイであることを誇りに思っている。氷の女皇への絶対的な忠誠は剥がれ落ちることが無いもの。たとえ世界の理ががらがらと崩れたとしても、それだけは不変であるもの。
 ふたりは雨が止むまで並んで立っていた。言葉は無く、しかし片手だけ繋がれたまま。

 ◇

「蛍」
 タルタリヤが右手を何度か振り、宿から出てきた旅人の名を呼んでいる。あの雨の日からそれなりの時が流れていた。蛍は現在この璃月港を拠点とし、様々な情報収集をしたり、魔物の討伐依頼を受けたり、多忙な日々を過ごしている。蛍はタルタリヤに近付いた。
「今日もおチビちゃんは一緒じゃないんだね」
「パイモンはまた万民堂に行ってるよ。最近は新メニューが出来る度に行ってるけど……」
「へえ、実は俺も前に鍾離先生とあの店には行ったけど……確かに絶品だったね」
 箸しか無いのには困ったけど、とタルタリヤが大袈裟に肩を落とす。スネージナヤの人間であるタルタリヤは、箸が苦手らしい。おそらくナイフやフォークを用いたテーブルマナーは完璧なのだろうが。
「それで、私に用?」
「あ、まあ、そんな感じかな……」
「……もしかして、また闘い?」
 蛍が小首を傾げる。
「いや、今日は……その」
 珍しく口籠るタルタリヤを前に、蛍は不思議そうな目をしている。ざあと風が吹いた。空は青く澄み渡っており、先日のような雨の心配は無さそうだ。人々が引っ切り無しに行き交う。ふわ、と漂ってくるのは屋台で売られている食べ物の美味しそうな香りだ。こんな璃月の光景を守ったのが蛍で、壊しかけたのがタルタリヤ。通行人たちは思いもしないだろう、ここにいる男女が両極端なことをこの璃月に齎したことなど。
「……君に会いたかったから、って言ったら、君は信じるかな?」
 そんな、予想外の台詞に蛍が瞳を大きくさせた。もともと大きな宝石のような目に驚愕の色が滲む。頬が段々と林檎のような色に変わる。そんな蛍の頬にタルタリヤの手が触れた。
「熱いね」
 氷を溶かすような、そんな熱がそこには宿されている。
「――信じてくれているってことで、いいのかな?」
 戸惑う蛍に対し、タルタリヤは悪戯っぽく笑っている。たっぷり時間を置いて蛍がこくんと頷いた。
 気付けば、タルタリヤという、掴みどころの無い人物のことが気になって仕方なくなっていた。あの雨の日に落ちてしまったのかもしれない、彼のいるところへ。そこは光り輝く場所ではないかもしれない。自分が居てはならない場所なのかもしれない。でも、もう落ちてしまったのだ、這い上がる術はない。蛍はタルタリヤがそうしたように彼の頬に触れてみせた。
「……タルタリヤも」
「うん?」
「熱い……」
「お揃いだね、俺たち。俺は嬉しいけど、君はどうなの?」
 タルタリヤが笑っている。はじめて心から笑う彼に会えた気がして、蛍は素直に「嬉しい」と答えていた。

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