神に初恋

 璃月の海が見渡せる宿屋の一室。数回扉が叩かれる音がして、甘雨は顔を上げる。いつの間にか俯いていたことに、そこでようやく気付いた。ひとりで居るといつもこうだ。どちら様でしょう、と誰何すると返ってきたのは聞き慣れた青年の声。少しだけ上擦った声で甘雨が「どうぞ」と応じ、扉がゆっくりと開かれる。
「突然すまないな、甘雨」
「いえ……鍾離さん、私に何か御用ですか?」
 姿を見せた鍾離に甘雨は小首を傾げる。彼は璃月の葬儀屋「往生堂」に招かれた客卿。そして今は、旅人と一緒にテイワット各地を駆ける仲間のひとり。甘雨は彼を部屋に招き入れた。幸い甘雨は一人部屋なので、同室の者に気を遣わせてしまう心配もない。
「いや、夕餉の時にお前の姿が無かったからな。少々気になって、顔を見に来てしまった」
 鍾離はそう言ってから部屋へ一歩踏み入れる。部屋の明かりがぼんやりと彼の輪郭をなぞり、その石珀にも似た瞳に優しげな光を灯す。
「……ちょっとやることがあったので、食事は早めに済ませてしまったのです。それに、そもそも私は皆さんと同じものを食べられないので、時間をずらした方が良いので……」
 甘雨が菜食主義を徹底していることを、仲間は皆知っている。それは勿論、鍾離もだ。
「そうか。具合でも悪いのかと心配したが、どうやら杞憂だったようだな」
「いえ。……すみません。先に言っておくべきでしたね」
 そう答えながら、甘雨は気付く。鍾離がとても自分のことを考えてくれていることに。それは仲間のひとりとしてのものに違いない。甘雨はやや早まった胸の鼓動を、その言葉で鎮めようとする。
「では、俺はそろそろ失礼する。お前も早めに休んだ方がいいだろう?」
 彼は僅かな笑みを浮かべ、背を向けた。
「……て、帝君……!」
 向けられた大きな背中に甘雨は思わずそう呼びかけていた。
「あ……」
 半仙の甘雨が強く慕う存在――岩王帝君。三千年以上もの時を遡る、遠い時代。岩神モラクスは仙人たちと共に璃月という国を築いた。甘雨は、その岩神との契約で「璃月七星」の秘書を長きに渡り務めてきた。その岩神こそが「鍾離」である。鍾離は神の座を下りたものの、甘雨は彼を心から崇拝している。人間であり、仙人でもある自分に生きる意味を教えてくれた存在で、絶対の存在だったから。
「な、何でも、ありません……」
「どうした、お前らしくない」
 鍾離はくるりと甘雨の方に向き直る。
「ごめんなさい、ごめんなさい、し、鍾離さん……」
「そんなに謝らなくてもいい。……甘雨?」
 甘雨の様子が少々おかしい。どうした、ともう一度問えば、甘雨は大きな瞳を鍾離へと向ける。それは薄っすらと涙で潤んでいて、鍾離は面食らった。
「私、ずっとあなたに伝えたいことがあったのです」
 彼女の頬に雫が伝う。堪えきれなかったそれは、酷く美しく見えた。 
「私が今を生きていられるのは帝君……鍾離さんのおかげです。帝君との契約があったからこそ私は長い時を生きてこられたのです。でも、今こうして、旅人の同行者として……あなたと一緒にテイワットの各地を巡るようになって……私は、とても欲張りになってしまいました」
 ふたたび落ちる涙は、とても清らかなものとして鍾離の目に映る。
「もっとあなたと居たい。もっとあなたに近付きたい……。いけないことだって、分かっています。でも、私は……あなたが」
 甘雨は視界が滲んだまま鍾離のことをじっと見た。その眼差しには、すべてが含まれている。自分に多くを与えてくれた岩神モラクスへの感謝の思いと、日に日に募る鍾離へ向ける熱い想い。鍾離は無意識にそんな彼女を両腕で抱きしめていた。
「甘雨」
 彼は背を何度も撫でる。震える甘雨はまるで雨に打たれた小鳥のよう。
「お前はずっと、俺のことを見ていてくれたのだな」
「……はい。ずっと……私は、あなただけを」
 鍾離が甘雨の体を少しだけ引き離す。すると、当然のように彼らの視線が絡まりあった。吐息がかかるほどに、近い顔。何方ともなくふたりは唇を重ねる。少しの躊躇いの後に触れ合った彼らの頬は、やがて揃って紅色に染まったのだった。
 
 ◇
 
 鍾離と甘雨の距離は、初めての口づけを境に大きく狭まった。元から鍾離のことを強く想っていた甘雨と、そんな彼女の気持ちに鍾離が答える形で。夜を迎え、食事を終え、後は眠るだけといった時間になると鍾離が甘雨の部屋に足を運ぶようになったのだ。
 だが、その関係はまだ誰にも明かしていない。故にふたりきりの時間は夜の数時間だけである。旅人とその仲間たちは自分たちがこのような関係になったことを、きっと祝福してくれることだろう。だが今は伝えるべき時では無いように感じたのだ、鍾離も、甘雨も。
「……ん」
 今夜もまた甘雨の部屋に鍾離の姿がある。以前よりも自然な形で口づけを交わすふたりは、そのまま縺れるようにベッドの上に倒れ込んだ。ぎし、とそれが軋む音すらも自らの心音でかき消されてしまいそうなほど。
 鍾離が「甘雨」と名前を呼ぶのも、もう何度目になるか分からない。鍾離はすっかり紅潮している彼女の頬にも口づける。そこだけではなく、首筋や肩にも、優しく熱を灯していく。その度に甘雨はくぐもった声を上げた。窓掛けの小さな隙間から僅かに溢れ差す月の光。それはこの場に似つかわしくない程に清らかだ。
「――いいのか? 甘雨?」
 彼のそれは最終確認である。
「……はい」
 少しだけ間を置いたのは、彼女の恥じらいから来るもの、だろうか。その返事を待って、鍾離は薄紅色をした柔らかい唇を塞いだ。先程の触れるだけの口づけとは違う。もっと熱を持った、深いもの。甘雨の目がとろんとしたものに変わるのを見て、鍾離はなお深く口づける。
「ん、んっ……」
 名残惜しそうに鍾離の唇が離れる。甘雨の目尻には無意識に滲み出た涙が輝いていた。彼の大きな手がそっと頬にあてがわれる。
「……顔が随分と熱いな」
「……っ」
 恥ずかしそうに甘雨が更に頬の熱度を上げる。それが分かった上で、彼の手はゆるりと下へと落ちていく。首筋、胸元。それからその頂へ。その度に彼女が身を捩った。鍾離は丁寧にそんな甘雨の服を脱がしていく。僅かに灯された洋燈の光が彼女の白い肌を艶かしく照らし出している。
「とても綺麗だ」
 甘雨の肌は陶器のように滑らかで、鍾離は耳元で囁く。その低い声に甘雨は大きく反応する。
「んん……あ、あ……」
 甘雨が声を必死で堪えているのは明確だった。我慢するな、と鍾離が微笑みを湛えて言うと、彼女はなお頬を真っ赤にする。
「あっ……ん、てい……くっ……、あっ……!」
 半分、麒麟の血を持つ甘雨は長い年月を生きてきたが、誰がひとりを――ひとりの異性を愛するようになったのは初めてだったのだ。自分の存在理由は岩神に、岩王帝君にある。故に、甘雨が鍾離に恋心を抱いたのは自然な流れだった。帝君との契約があったから今まで生きてこられた。人間の街である璃月での暮らしに、寂しさがあったのは事実だが、鍾離がそれを埋めてくれたのだ。
「甘雨」
 無意識に自分を帝君と呼ぶ彼女を窘めるように名を綴れば、甘雨の身体が跳ねる。服の大半を剥ぎ取られた彼女の目は何処か物欲しそうで、鍾離はそれに応えるような形で至るところに唇を寄せた。
 早く彼女のすべてが欲しい。鍾離は逸る気持ちを抑え込んで、甘雨の彼方此方を愛撫する。やがて鍾離の指がついにそこまで辿り着くと、既にとろりと蕩けていて、甘雨がぎゅっと目を瞑った。全身を駆け巡る快感は少しだけ怖い。鍾離が自分を傷付ける訳がないと分かっていても、それが甘雨の正直な気持ちだった。
「目を……目を、開けてくれ、甘雨」
「ん……」
「別に俺はお前を怖がらせたり、苦しませたりしたい訳じゃない。お前が欲しいというのが本音だが――お前が嫌がるようなことは、何一つしたく無い」
 おずおずと開かれた瞳は、やはり濡れたままだ。けれど鍾離の澄んだ瞳をじっと見て、甘雨は「大丈夫です」と言う。続けて、私もあなたとひとつになりたいです――生まれてはじめての言葉を口にすると全身がかっと熱くなるのを感じた。鍾離という人だからこそ、甘雨はこれ以上のことを望んでいる。
「……そうか」
 鍾離は再びそこを何度か触れる。水音が響くと同時に、甘雨の口から甘い喘ぎが溢れ出た。鍾離の理性の箍を容易く粉々にしてしまいそうな、そんな声が。
「甘雨、……本当に、いいんだな?」
「……はい」
 来て、ください。そう甘雨は告げる。乾いた大地に降り注ぐ恵みの雨のような、その台詞。鍾離はすっかり綻んだそこに昂ぶるものをゆっくりと押し当てた。
「……甘雨」
 甘雨の全てが欲しい。甘雨を自分のものにしたい。それは神としてではなく、鍾離というひとりの男としての欲望だった。
「あっ……くっ、あっ……!」
 はじめての行為に、そしてそれが伴う痛みに、甘雨が目をぎゅっと閉じた。けれど今度はすぐに自分の意志で彼女の目は開かれ、いつもよりややぎらついた目の鍾離の姿がそこに映し出される。そのまままた唇が塞がれ、舌が舌を絡めた。深く、角度を変えて、何度も口づけが繰り返される。離せば両者の口から濡れた声が溢れるのだ、互いの名を呼ぶ声が。
「っ……大丈夫か、甘雨?」
 こんな時でも、鍾離は彼女を気遣う。その優しさに甘雨が頷いて答え、彼は奥へ奥へと自身の熱を沈めていく。少し動くだけで甘雨は高い声を上げて身体を捩る。好きだ、と言えば涙声が返ってくる。私もあなたを愛しています、と。鍾離は甘雨のその言葉に多大な喜びを感じ、甘雨もまたそれは同じだった。
「あ、あああ、あっ……」
 聞いたことの無い彼女の声は大変艶やかで、鍾離はその声だけでも溺れそうになる。ふたりの額や首筋には汗が滴っているのも見えた。カチコチと時計の針が正確に時を刻んでいく音など、もう彼らには聞こえない。聞こえているのは相手の発している声だけで。
「……あっ、あ……もう、わ、私っ……!」
 何度も押し寄せるものに、甘雨が限界を感じて声を上げた。鍾離の方も同様のようで、律動は更に激しいものになる。快楽に揺すぶられる甘雨は最早彼の名を呼ぶことしか出来ない。鍾離さん、と彼女の喉から頻りに発せられる声は彼を高みへと導く。
「――……!」 
 鍾離も甘雨も殆ど同じタイミングで達した。はあ、と鍾離は肩で息をしており、甘雨はというと草臥れ果ててしまったようで、ベッドの上で鍾離の顔を見上げることしか出来ていない。それでも鍾離が「大丈夫か」と問えば微笑するくらいの体力は残されているようで、彼は安堵する。甘雨の目尻に残った涙を鍾離の指は優しく拭う。
 ふたりのはじまりは「契約」にあった。けれど今は、もっと違う関係で、共に在る。そしてその絆は、愛情は、永遠へと至る。神と半仙。人ではない彼らの愛は何よりも長く存在し続けることだろう、この悠久の大地で、愛は雪のように降り積もっていくものだから。

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