雨粒みたいな約束を、いっぱい集めて降らせたら

 叩きつける雨の音で、ベレスは目を覚ます。正直、雨はあまり好きではない。否応なく辛いことを思い出してしまうから。 
 ……予定より少し早く起きてしまった。けれど外は雨で、朝の散歩というわけにもいかない。さて、どうしたものか――ベレスは腕を組む。少し考えを巡らせて、彼女は書庫へ向かうことにした。
 
 ガルグ=マク大修道院。ここは、フォドラで広く信仰されるセイロス教の総本山。ベレスは、修道院に併設された士官学校で教師として働いている。もともと彼女は傭兵で、まさか自分が教鞭を執ることになるなど考えていなかったのだが、青獅子の学級を受け持ち、彼らと日々を過ごすうちにこの仕事も悪くないと思うようになった。
 青獅子の学級に属する者は、北方のファーガス神聖王国出身の者ばかりである。級長であるディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッドは、ファーガスの王子であり、次期国王とされている。フラルダリウス公爵家の嫡子であるフェリクス。それからゴーティエ辺境伯の嫡子シルヴァン。彼らとは幼馴染にあたるガラテア伯爵家のイングリットなど、個性的な生徒たちに囲まれての生活は、これまでの日々と大きく違う。難しい課題も彼らと一緒に乗り越えてきた。きっと彼らが士官学校を巣立つ時まで、これは続くのだ。
 
 書庫には誰もいなかった。早朝だから当たり前といえば当たり前だ。静かなのに、雨の音だけは響いてくる。ベレスはふう、とひとつ息を吐き出した。奥へを歩みを進める。特に探している本があるだとか、そういった訳でもなかった。何となく目に止まった本に手を伸ばす。古い本だ、開いてみると損傷が激しく文字を辿ることすら難しい。表紙をもう一度見やる。何のものかは分からないが、紋章のようなものが描かれている。
 紋章。それは、フォドラを歪めるもののひとつだ。人は、紋章に縋る。紋章の有無が人生を、運命を、大きく変えてしまう。ベレスには炎の紋章がある。それは望んで得られるものではない。持つものと持たざるものの差は激しい。ベレスはもう一度息を吐いた。本をそっと閉じて、棚へと戻す。何も紋章について調べに来たわけではないのだ。その時だった、後方で物音がしたのは。
「……?」
 振り返る。そこにいたのはひとりの少女。青獅子の学級に所属する、アネット=ファンティーヌ=ドミニクであった。大きな瞳を更に大きくさせ、アネットはベレスのことを見ている。彼女はドミニク男爵の姪にあたり、大変な努力家で、特に魔道に長ける人物だ。ベレスが首を傾げていると、アネットが口を開いた。
「あ、あの……びっくりさせて、ごめんなさい。先生」
 おそるおそる、といった様子のアネットにベレスは首を横に振った。気にしないで、と続ければ彼女はやっと胸を撫で下ろしたようだった。
「実は、理学について探したい本があって。いつもより早起きして来たんです」
 アネットはそう説明をした。彼女はファーガスの王都にある魔道学院に通っていた過去を持つ。同学級のメルセデス=フォン=マルトリッツとはその頃からの親友で、ふたりが一緒に笑って話し込んでいるのをベレスは何度も目撃している。アネットはゆっくりとベレスに近寄り、すぐ隣に立った。細い腕を伸ばし、本を手に取る。彼女が取ったのはやはり魔道書だった。理学を学ぶ中、生まれでた疑問の答えを自ら探し出そうとしているらしい。真面目な彼女に、ベレスは僅かに微笑を浮かべる。だが、アネットは本に目を落としていてそれには気付かない。
「――先生も探しもの、ですか?」
 少しだけ時間が経ってから、アネットがやっと顔を上げた。問いかけにベレスは否定も肯定もしない。何となく目が醒めてしまったから書庫に来ただけだ、と素直に本当のことを語れば、アネットは「そうなんですか」と言って、続ける。
「てっきり、今度の講習で使う本を探しに来た、とかだと思いました」
 アネットがくすりと笑った。そうしてまた二冊目の本に手を伸ばす。
「あたし、先生が青獅子の学級を受け持ってくれて良かったって思います」
 ベレスに向けて、彼女が言う。いったいいきなりどうしたの、と問うベレス。アネットは再び笑みを浮かべる。
「いきなりじゃないですよ。あたしはずっとそう思ってます!」
 きっとメーチェたちも同じですよ、と彼女が胸を張る。メーチェというのはメルセデスのことだ。ふたりは互いに愛称で呼び合う。本当に仲が良いのだろう。
「だから……これからもよろしくお願いしますね、先生!」
 アネットは改めて言うと、書庫を出ていった。おそらく自室へ戻って、見つけたこの本を読むのだろう。まだまだ早朝。彼女はうまく空き時間を利用して知識を溜め込んでいくのだ。ベレスは彼女に手を振る。自分はもうしばらくここにいよう。そんなことを考えながら。
 
「……?」
 アネットと入れ違いで、ひとりの青年が書庫に姿を見せた。金髪に青い瞳。ディミトリである。彼も先客であるベレスを見て驚いた様子をみせた。アネット同様、誰も此処にいないと思って入ってきたのだろう。
「先生か。随分と早起きなんだな」
 ディミトリも、アネットと同じようにベレスの隣まで近寄る。彼にベレスは説明する。先程アネットにしたものと同じ説明を。少しだけ付け足したのは、雨のこと。雨が降り頻る音で目を醒まし、その音を聞いていたら思い出したくないことばかりを思い出してしまって――そう続けたベレスに、ディミトリは察したようだった。彼女が何を思い出しているのかを。
「なあ、先生。辛いときは辛いって言っても良いんじゃないか」
 数分の間を置いて、彼は静かに言葉を綴る。
「俺は、先生の支えになりたい。先生は……迷惑をかけたくないとか、みっともないとか、そういうことを考えて、あまり本音を口にしないみたいだが」
 はっとして、ベレスはディミトリを見た。彼には何もかも筒抜けであることをやっと知る。何やかんやで随分と長い時を一緒に過ごしてきたのだ。いや、言うほど長い時間ではないかもしれない。だが一日一日が濃密なのだ、ディミトリや他の生徒たちと共に生きる日々は。傭兵として流されるままに生きていた頃とは違う。
「……」
 ベレスは無言だった。そんな彼女に、ディミトリはこう言う。
「俺たちは、いつまでも先生の味方だ。俺たちのことを導いてくれるお前の……な」
 ディミトリの手が、ベレスの手を取る。随分と大きさが違う。彼のそれは無骨なものでありながら、しかしあたたかい。雨の音がする。悲しいことを思い出させる音が。けれど彼が此処にいてくれるなら――その悲しみも少し遠のくよう。これは約束。何があっても、という強く結ばれる約束。ベレスの手を、ディミトリは強く握り締める。ありがとう、というベレスの言葉は確かに彼の心に響いた。


title:as far as I know



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -