春が来るのはあなたのせいです

 澄み渡る青空。木々は吹き抜けていく微風と戯れる。小鳥たちの美しい歌声が頭上から降ってきて、メルセデス=フォン=マルトリッツは目を細めた。
 ガルグ=マク大修道院。フォドラのほぼ中心部に位置し、フォドラで広く信仰されるセイロス教の総本山でもあるここには士官学校が併設されている。アドラステア帝国、ファーガス神聖王国、そしてレスター諸侯同盟領。このフォドラがそれら三つで分けられているのと同様に、士官学校にも三つの学級が存在している。ファーガスの人間であるメルセデスは勿論「青獅子の学級」に属する。この学級の級長はディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッド。彼はファーガスの王子であり、未来の王でもあった。
 メルセデスはゆっくりと修道院内を歩いていた。日課でもある大聖堂での祈りも終え、今日はそれ以外に予定も無い。故に、自由な時間がたっぷりある。課題も終わっているし、出撃予定もしばらくは無い。人によっては書庫で勉学に励んだり、訓練場で剣や槍などを振るったりしているだろうし、自室に籠もる者もいれば、茶会を楽しむ者だっているだろう。メルセデスは仲間たちの横顔をひとつひとつ思い描いた。こういった自分の時間は大切にしたい。誰だってそう思うだろう。
 少し考えて、メルセデスはこのまま温室へ向かうことにした。何日か前、親友のアネット=ファンティーヌ=ドミニクと花を植えたことを思い出したからだ。アネットは最も長い付き合いの友人である。ドミニク男爵の姪でもある彼女とは、ファーガスの王都フェルディアにある魔道学院に通っていた頃から仲が良い。自分のことを「メーチェ」と呼んでくれる彼女を、メルセデスも親しみを込めて「アン」と呼んでいる。彼女はとても努力家で、勉強好きでもあるから、今も書庫や自室で本のページを捲っているかもしれない。
 
 温室へ入ると、独特の香りがメルセデスを包み込んだ。ここにはいろいろな種類の草花が植えられており、癒やしの場でもある。先客はいなかった。いつもいる管理人も不在だ。そういうこともあるのだな、とメルセデスは思いつつ奥へと足を伸ばす。アネットと植えたのは、魔道学院でも育てた種類のものだ。寒冷なファーガスの花であるからここで育てるのは少々難しいかもしれない、と管理人からも言われたのだけれど。
 メルセデスはそっと如雨露を手にとって、それに水を与えた。まだ蕾もついていない。もうしばらくかかるのだろう、この花が咲くのは。メルセデスはそれ以外の植物にも水をかけていく。乾燥していたからだ、もしかしたら水やりの当番の者がそれを失念しているのかもしれない。水を与えられた草花は、きらきらと水を輝かせて嬉しそうに笑っている。咲いているものもあれば、今にも開きそうな蕾を幾つも付けているものもある。アネットとのそれはどちらでもないが。
 
 メルセデスはしばらく温室にいた。もしかしたら三十分ぐらいはいたのかもしれない。その間に管理人は戻ってきていて、温室を出ようとしたメルセデスに小さく頭を下げた。それを見てメルセデスも同じように頭を下げて、そして自室へ足を向ける。何日か前に、イングリットから本を借りた。それを読むのもいいかもしれない。イングリットもまた同じ学級に属する生徒で、彼女はディミトリやフェリクス、そしてシルヴァンと幼馴染でもある。彼らも思い思いの時間を過ごしているのだろうか――そう思った瞬間だった。後ろからよく知った声が降り掛かったのは。
「やあ、メルセデス!」
 たった今、脳裏に描いた人物の声であったから、メルセデスは大層驚いた。えっ、と間の抜けた声が出てしまって、思わず頬を赤く染める。
「ま、まあ、シルヴァン。こ、こんにちは〜」
「おいおい、メルセデス。そんな驚かなくたっていいだろ」
 シルヴァンは頭を掻いた。燃えるような髪色は、彼のトレードマークでもある。
「急だったから、びっくりしたのよ〜。ごめんなさいね」
「いや、いいんだけどさ。メルセデス。今からお祈りかい?」
「いいえ〜、それは終わったから、お部屋に戻ろうかなぁって思っていたところよ」
 穏やかにメルセデスは微笑ってみせた。
「そうか。じゃあ、少し時間はあるんだな? もしよければ、少し付き合ってくれないか?」
 再び驚き顔になるメルセデス。いったい何に、と彼女の顔には大きく書いてある。シルヴァンは女性を見れば誰であろうと口説く――そんな噂はよく聞くし、実際、そういった場面をメルセデスは何度も見てきた。簡単に言えば女性好きなのだ。実力も本物で、努力を積み重ねてきたことも事実なのに、シルヴァンはそんな仮面を付けてガルグ=マクを生きている。メルセデスはもう一度微笑んだ。
「ええ、いいわよ〜。私でよければ」
 今度はシルヴァンが目を丸くした。断られる、と思ったのだろう。シルヴァンは何度かメルセデスを食事やら何やらに誘ってきたが、毎回断られていた。今日はどういうわけか快諾され、誘った本人が戸惑っている。メルセデスはそっとシルヴァンに歩み寄る。
「――本当のあなたを見てみたいの」
 そんな姿、きっとみんなの前では見せてくれないでしょう、と続けるメルセデス。自分よりもずっと背の高い彼を見上げて、彼女は本当の思いを言葉にしたのだ。本当の自分、と言われ、シルヴァンは面食らったようだった。なかなか次の言葉が出てこない。そんな彼に、メルセデスは笑む。
「行きましょう、シルヴァン。私、あなたといろいろ、お話したいわ〜」
 手を差し伸べたメルセデスに、シルヴァンは間を置いて、その手を取った。彼女になら見せられるかもしれない。どうしようもない仮面を剥ぎ取って、ありのままの自分を。望まずに得てしまった紋章のせいで、振り回されてきた自分を。きっとメルセデスも見せてくれる。傷付いた過去を。シルヴァンはぐっと手に力を込めた。
 あの花はいつか咲く。それがそうであるように、自分たちだって、いつかは開いて本当の自分になれる。メルセデスは一度温室の方角へ目を向けた。まだ咲かない。自分と彼も、まだ、花開かない。けれど、同様に希望だとか、理想だとか、そういった名で呼ばれる太陽を追いかけて――咲くのだ。
 広がる青空は、今日も変わらず穏やかな目をしていた。


title:エナメル



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