短い春の夢を見ただけ

 べとつく汗が鬱陶しい。ここのところ、ろくに眠れていない。何とか眠っても、見るのは血の色をした夢ばかり。ディミトリは上半身を起こすと、執拗に纏わり付く悪夢を振り落とすように首を振った。まだ、早朝と呼べる時間ですらない。深夜だ。人によっては、まだ起きているかもしれない。
 
 アドラステア帝国の若き皇帝――エーデルガルトがフォドラ統一の野望を掲げ、世界に戦争の火が燃え上がって五年と少し。寒冷な土地に築かれしファーガス神聖王国の王子であったディミトリは、ガルグ=マクで奇跡的に再会を果たしたベレスや、同じく彼女に学んだ「青獅子の学級」の者たちと共に、戦いの道を進んでいた。セイロス教団の者と手を組み、暗黒の時代を生きている。すべてはエーデルガルトの首を落とし、復讐を遂げる為。何もかもを奪ったアドラステア帝国へ剣を向けて、死者の無念を晴らす為。ディミトリはそれを固く誓っていた。父に、継母に、同胞に――散っていった尊い命に。
 何も起こっていなければ、今年は千年祭だった。そんなことが脳裏に過ぎる。五年前は疑わなかった。自分たちに光ある未来があることを。ファーガスの王となって、民を守り、民衆を導く。そんな自分の側にはベレスやフェリクス、シルヴァンといった仲間が居て――フォドラに巡る季節を彼らと過ごしていけるのだと、何一つ疑っていなかった。
 しかし、現実はそう甘くはなかった。いや、もともと現実が甘いだなんてディミトリは考えてはいなかったか。数年前にダスカーで大切な者たちを殺され、多くのものを奪われて。それでも、ガルグ=マク大修道院にある士官学校で過ごした時間は優しかった。ディミトリが級長を務める「青獅子の学級」の他にあるふたつの学級に属する生徒たちとも、仲良くやれていた。課題で得物を振り競い合うことだってあったけれど、あれはあくまで課題だった。エーデルガルトとクロードなどとも、そこそこ交流があった。今思えば、あの頃は本当に充実していた。食堂で他学級の生徒と食事をしながら会話をしたり。大聖堂で声を重ねて歌を歌ったり。もう、戻ることの叶わない過去。ディミトリは再び大きな息を吐くと、そのまま自室を出る。冷えた空気。空には幾つかの星。月は見当たらない。新月なのか、それともその部分だけ雲が覆っているのか。どちらなのかは分からない。
 
 ディミトリが何となく足を運んだのは、大聖堂だった。ガルグ=マクは、もともとフォドラで広く信仰されるセイロス教の総本山である。大修道院に士官学校が作られたのは気の遠くなる程昔のことで、ここで多くの者たちが勉学に励んできた。戦いによって至るところにその痕跡があるとはいえ、今も大修道院と士官学校はかつての姿と機能を維持している。
 少しだけ崩れた大聖堂。そこには誰もいない。この時間から祈りを捧げに来る者などいないと分かっていたので、ディミトリは特に何も感じず、そのまま前へ前へと歩みをすすめる。大司教レアの生死は未だ分からず、熾烈な戦いの終わりは見えず。そして、自分たちにも余裕はあまり無く。フォドラの各地で炎は燃え上がっている。ほとんどの民は今日を生きることだけで精一杯で、未来への希望など持てずにいることだろう。帝国の侵略に怯え、大切な人の死に涙を落とし、数年前には確かにあったはずの秩序は破られた。
「……」
 ディミトリの隻眼が遠くを見つめる。彼はここにあるものを見ているわけではない。もう、ここにはいないものを見ている。それから目線を落とし、手のひらにそれを向ける。この手は多くの命を奪ってきた。そしてこれからも、数え切れない程の命を屠る。真っ赤な血で染まったこの手で、いったい何が掴めるというのか。ディミトリの喉から乾いた笑みが発せられた。エーデルガルトへの燃え滾る憎悪は、日に日に増していくかのよう。ベレスなどには「少し冷静に」と言われることも多々有るのだが、その余裕などどこにも無い。
 戦争が始まる直前に、ディミトリはベレスやレア、学級の仲間と共に炎帝を名乗っていた「彼女」と戦ったことがある。首を落とし、帝都の門に晒す。そう叫んだこともよく覚えている。あまりにも鮮明な記憶だ。あの時それが出来ていたのなら、今とは違う未来と時間があったのかもしれない――そんなことを考えていると、背後で物音がした。ディミトリははっとして振り返る。そこにいたのは賊でもなく、帝国軍に属する者でもなく――よく知った女性が心配そうな目でディミトリを見つめていた。
「……お前は」
 いったい何をしに来た、とディミトリの喉から低い声。彼女は何度か首を横に振ってから、静かに彼へと歩み寄る。高価なエメラルドのような瞳に、それと酷似した色の髪。普段と変わらない黒い外套。彼女こそが、ディミトリとその同胞たちに様々な知識を与えた――ベレスである。彼女は問う。こんな時間から何をしているの、と。
「訊ねているのは俺の方だ」
 ディミトリが冷たい声で言うと、彼女は大きな瞳を更に大きく見開いて、それから「そうだね」と苦笑する。きっと、あなたと同じだと思うけれど。少しの間を置いてからそう続けたベレスの表情は複雑なものだった。恐ろしいほどの静寂がふたりを包み込んでいる。
「……お前も眠れないとでも言うのか?」
 ベレスは彼の言葉に頷く。ここのところ、ディミトリとはまともに会話が出来ていない。だからここでこのように話が出来たことに、喜びを感じた――その内容が何にせよ、彼の綴る言葉をこの耳で聞けることに。
 彼が多くを失い、何もかも奪われて、闇の中を彷徨っていたことをベレスは知っている。自分にとってとても大切だった人が、ひとり、またひとりと死んでいくあまりにも残酷な世界。今の彼に、かつての面影は無い。血に飢え、殺戮を好み、それこそ獣のように、自分へ近寄る者に噛み付いてきた。
 数ヶ月前――賊の根城となり、死臭のする場所でベレスはディミトリと再会した。きらきらと輝いていた金色の髪は痛み、真っ直ぐに向けられていたはずの瞳はひとつを残して闇に沈んだ。恨みと憎しみと、それから深い悲しみ。ディミトリに灯されていたのは、そういった負の感情ばかり。すぐにフェリクスたちと再会出来、彼らは揃ってディミトリとベレスと一緒に抗うことを選んでくれたが、ディミトリ本人の心は凍りついたままだった。そしてそれは今もあまり変わっていない。
「俺に近付くな……」
 もう一度少しだけ歩み寄れば、ディミトリは吐き捨てるように言った。その言葉を理由を、ベレスは何となくではあるが察する。故に、それには応じず、また一歩近付く。ディミトリが表情を歪めた。彼女にはそれがとても痛々しい顔に見えた。
 ディミトリはひとりではない。孤独ではない。ベレスはそう言いたかったが、言葉は喉につかえて出てはこなかった。あまりにも、彼が酷い顔をしていたせいで。手を伸ばして、触れたい。きっと、まだ冷え切っているであろうその肌に。触れたところから熱度が伝われば、彼は実感できるのではないか。ひとりではないということを。直ぐ側に仲間がいるということを。しかし、ベレスの手は伸びない。虚空を掴み、落ちるだけ。そんな彼女を見て、ディミトリはすぐに目を逸らした。
「……近付くな、と言ったはずだ」
「……」
「とっとと出ていってくれ」
 彼の声は、先程と違って震えていた。ひとりになることを望む言葉なのに、彼が抱えているのは真逆の願い。そのいびつな台詞に、鋭いベレスは気付いてしまう。そしてまたディミトリも分かってしまったようだ、彼女にはすべて御見通しであると。
 逸らされたはずの視線が絡み合った。ベレスは何も言わずに、頷く。その仕草がどういった意味を持つのか。今度はディミトリがそれに気付いた。彼女はディミトリと一緒にいることを望んでいる。たとえ邪魔だと言われても、ここから離れる気は無いのだと。ディミトリは唇を強く噛んだ。広がるのは鉄の味。今のディミトリは、食事を摂っても味が分からないほどなのに、血の味だけは分かってしまう。
「なあ、先生。お前は何故、こんな俺に……」 
 ディミトリの台詞が終わらぬうちに、ベレスが自らの手を彼のそれと重ねた。さっきは虚空しか掴めなかったのだが、今度は確かに触れ合った。ベレスの手は、ディミトリのものより一回りも二回りも小さい。こんなに小さな手で、彼女は「天帝の剣」を振るっているのか。改めてディミトリはそんなことを感じる。このように感じる余裕が持てたことにもやや驚きつつ、それでもディミトリは彼女の手を振り解こうとはしなかった。彼女の体温が伝わってくる。つい先程ベレスが願ったことが、音もなく叶う。
 彼が何を言いかけたのか。ベレスには分かった。何故こんな自分に優しくしてくれるのか。何故こんな自分を気にかけてくれるのか。螺旋のようにくるくるとまわるディミトリの問に、ベレスは言葉ではなく行動と表情で答える。自分にとってディミトリがとても大切な存在だから、だと。
 まだ、フォドラが人々に微笑んでいた頃。眩しい光の下で、希望を胸に過ごしていた頃。「青獅子の学級」をベレスが受け持ち、他学級と競い、高め合いながら日々を過ごしていた頃――あの頃から、ベレスはいつでもディミトリに優しかった。あの頃の彼女はあまり感情を出さないタイプだったが、それでも眼差しは優しいものだったから、冷たい印象は無い。教師としてベレスは多くのものを生徒たちに与えた。それは勿論、ディミトリにも。ファーガス神聖王国の王子としてではなく、同国の次期王としてでもなく、ひとりの生徒として接してくれた。ディミトリ自身がそう望んでいることを、ベレスは良く知っていたから。
「――」
 ディミトリは、また口を閉ざしてしまう。それは何を口にしたら良いのか分からなくなってしまったから、だろうか。ベレスは自分よりもずっと高い位置にある彼の瞳を見る。その視線にディミトリは複雑な思いを抱いた。彼女に縋り付くなんて、出来ない。本当は触れられることも避けなければいけなかった。何故なら、自分は血に汚れた醜い化け物だから。彼女が汚れてしまう。ディミトリはベレスに背を向ける。大切に思われていることは喜ばしいことだけれど、それも許されはしない。一瞬、溶けたかのように見えた氷。しかし、また世界は停止する。
 
「……ディミトリ」
 暫しの静寂のあと。空気を震わせたのは、ベレスの方だった。向けられた彼の大きな背中に、彼女のはっきりとした声。もう部屋に戻るのか、と尋ねるベレスにディミトリは「ああ」と短く答えるだけ。それにベレスは続ける。今からでも眠れるのか、と。そういった問いかけは予想外だったのだろうか、ディミトリは振り返る。ひとつの瞳には、淡い光すら宿されていない。この場には時計が無いから正確な時間は分からないけれど、少なくともまだ朝を迎えてはいないだろう。ディミトリは、彼女が何故そんなことを尋ねたのか分からなかった。思考を巡らせる彼に、ベレスはまた言葉を発する。
「――あなたは、ひとりでいるつもりなの?」
 その台詞も、予想しているものとは大きくかけ離れていた。故に、頭がぐらぐらとする。
「今のあなたをひとりにするのは、正直とても心配だわ」
「……何が言いたい?」
 静かな大聖堂に、淡々と綴られていく言葉。ベレスは一度目を伏せる。
「私が、そばにいては邪魔になる?」
 今度の台詞は直接的だった。ディミトリは若干驚いた。そのように言われるとは全くもって思っていなかった。彼女は言っているのだ、一緒にいたい、と。ディミトリは笑った。からからに乾いたそれは、彼女へ向けるものではなく、自分へのもの。数え切れないくらいの人間を殺し、そしてこれからも屍を積み上げていくであろう自分。そんな自分と一緒にいたい――そう願うベレスも、少し壊れているのではないか、と思ってしまう。彼女を汚したくなどない。ついさっきの思いは本物だ。彼女に大切に思われることも、彼女を大切に思うことも――許されない。たとえ彼女自身が壊れていたとしても、だ。
「迷惑になるのなら、私は部屋に戻るけれど」
 なかなか答えないディミトリに、彼女は言う。
「いや、別に迷惑にはならないが……お前は、こんな俺と居たいなどと本気で思っているのか?」
「……ええ。そうだけれど」
 ベレスは即答した。流石のディミトリも面食らったようだった。彼は、自分が過去の自分とかけ離れていると自覚している。もうあの頃には戻れない。幾ら願いを重ねても、天上に住まうという女神は奇跡を起こしてはくれない。フォドラに生きるすべての生命を見守り続けている、なんて教えを今更信じ込むことはしないけれど、とディミトリは冷笑した。そんな彼にベレスは何も付け足すことはなく、ただ彼の返事を待っている。
「……好きにすればいい」
「――そうさせてもらうわ」
 短い言葉に、ベレスが僅かな笑みを浮かべた。ディミトリには分からない。彼女のしたいことも、言いたいことも、何もかも。だが、彼女がそばにいたいと願っている、ということについては心が揺さぶられた。もう、自分に人間らしい心なんて無いものだと思っていたけれど。
 
 ベレスは何を話す訳でもなく、そしてディミトリに何かを求める訳でもなく、ただそこに立っている。ディミトリの方も何も言わず、この大聖堂に来る度に見上げるものをその目に映し続けているだけ。時間が有ると、ディミトリはよくここに足を運ぶ。ここのところは講習にも出ていないから、かなりの時間をここで過ごしていると言っても良い。考えることはいつも同じで、それはいつだって凍りついているのに、今日は違う。彼女がそばにいるから、だろうか。
「……もうすぐ朝になるね」
 ふたりがここにきてどれだけ経ったのかは、窓の向こうにある空の明るさで分かる。ベレスが言うと、ディミトリも目を向けた。闇がゆっくりと溶けて消え、代わりに光が昇ってくる。フォドラを照らすそれはあたたかくて、優しい。だが今のディミトリからすれば、どちらも痛いくらいだ。ずっと黒に塗り潰されていればいい。そんな風に思うくらいには。
「本当に……ここに居ただけだな」
 お前は何がしたかったんだ、とでも言いたげなディミトリにベレスは答えず、そのまま翠玉色の瞳で彼を見つめる。時が流れ落ちていく。もう少し経てば、朝の早い者たちから活動を開始することだろう。朝からこの大聖堂に来て、祈りを捧げる者も一定数いる。ふたりはそう知っている為、そろそろここから去ることを考え始めていた。
「先生は……どうして、俺なんかと」
 ディミトリが辿々しく疑問を口にした。ろくに眠れず、眠っても悪夢に襲われ、逃げるようにここに来て、そしてベレスと一緒にほぼ無言のまま朝を迎えた。何か問答をするわけでもなく、長い会話をしたわけでもなく、本当にただ一緒に「居ただけ」だ。問うディミトリに、ベレスはふ、と笑んだ。先生、と呼ぶ彼にかつての姿を垣間見たから。
「あなたをひとりにしたくない。そう言ったはずだけど」
「……」
「それに、私もひとりでいると……余計なことを考えてしまいそうでね」
 かすかにベレスの表情が陰る。彼女もまた大切な人を奪われた身。そのことをディミトリは思い出した。ベレスをひとりで育てたのは、かつてセイロス騎士団に身を置いていたある男だ。その人物も、陰謀の中で命を落とした。ディミトリにも分かった。今の彼女が言いたいことが、痛いほど。
「ディミトリ。あなたはたくさんのものを失った。その悲しみや苦しみは……私には計り知れないものかもしれない。でも、覚えていて。あなたの周りには、あなたを思う人が今でもたくさん居るということを」
 ベレスの声は固い。だが、そのまま真っ直ぐにディミトリへ向けられた瞳は穏やかな光を灯している。
「あなたがどんな道を選んでも、私は隣にいるから」
「先生……」
「……じゃあ、また後で」
 彼の声が、少しだけ柔らかなものに聞こえた。ベレスはそれでじゅうぶん、といった様子で大聖堂から出ていく。その背中はかつてと変わらない。揺れる髪の色は大きく変化してしまっているのに。ディミトリは彼女を引き止めなかった。いや、本当は引き止めたかった。何も、声が出なかっただけで。
 
「……」
 小鳥たちの朝の歌が聞こえてくる。ディミトリは、それでもまだここから立ち去ることはなかった。目を上へと動かす。陽の光は優しい。大地はこんなにも人間の血で染まり、空は哀哭で満ち、至るところに深い傷があるというのに。このフォドラを、そしてフォドラで生きるものたちを見守る女神の眼差しだから、とでも言うのだろうか。そこまで考えて、ディミトリは首を横に振る。そんなことはただの妄想だ。そう自分に言い聞かせるように、視線をずらす。
 胸には、いまも復讐の焔がある。彼女の首を捻り切るまでは消えないであろう焔が。取り巻くものは希望と呼べるものではない。けれど、ベレスが「そばにいた」ということが、ディミトリの心にひとつの火を灯した。それは昏い、何よりも昏く思えたそこで揺らめきながらも確かに存在する。もし、それがなお強い光になったなら――何かが変わるだろうか。それをベレスに問いかけたいが、もう彼女はここにはいない。そこまで計算していたのなら、とディミトリは考えて大聖堂を去ることを決める。いつもなら、もう少しここにいたけれど、今日は違う。
 広い空が澄んだ青に変わる。もうどこにも星は見つからない。闇とともに、帰っていったのだ。ディミトリは思う。ベレスとともに居た時間は、つかの間の夢のようなものだと。春風の吹く、夢。そして夢は儚く消え去っていくもの。去ったあとには、いつにも増して壮絶な現実がやってくる。その世界で、自分は果たさなければならない復讐を掲げる。エーデルガルトを殺す。それは変わらない、血の匂いのする誓い。それでも夢の残滓が胸の奥底にある。先生、と呟くディミトリの声は朝の風に交わってそのまま去っていった。


title:as far as I know



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