あと数日で彼女に会える――そう思うとレオンの心は沸き立った。
 今の彼女は姉ではなく、他国の王女。血の繋がりがないと知った時は悲しみが押し寄せてきて、眠るのもままならなかった。
 もし、血縁関係があったなら彼女は――カムイは暗夜の王女としてずっと自分たちのそばに居てくれたのではないか、とさえ思った。
 そうであったのなら、厳格だが同時に優しい兄も、無邪気で人懐っこい妹も、当たり前のように生きていたかもしれない。
 だが、それはすべて「もしも」の話であって、現実はそうでない。
 ただ、血の繋がりが一切無いということは、悲しみと同時にひとつの希望をレオンにもたらした。女性として彼女を愛することが許される、という希望を。
 だからこそあの時、レオンは言った。あなたをもう姉と呼ばない、と。それは拒絶ではなかった。むしろ、その正反対のものへ繋がっているといってもいい。
 彼女がどのようにその言葉を受け入れたかはわからない。レオンはもう、カムイというひとりの人間を、憎んではいなかった。

 * * *

 からからと音を立てながら車輪が廻る。その音で目を覚ましたカムイは、そっと窓を覆うカーテンの隙間から外を見た。
 もう空は暗夜の色を帯びている。どうやら眠っている間に国境をこえたようだ。
 まだ真っ暗ではない空。遠くには畑が見える。王都まではある程度距離があるのだろう。
 隣りに座るカミラはまだ目を閉じている。そんな姉を起こさぬよう注意を払いつつ、カーテンを閉める。
 心に思い描くのはレオンのことばかりだ。ずっと会いたいと願ってきた人物。芽生えた想いを彼女はもう抑えきれない。
 無意識に彼の名が声になってこぼれた。それは小さく細い声だったので、カミラが目を覚ますことはなかったが、カムイ自身の頬がかっと赤く染まった。
 王都に到着して、クラーケンシュタイン城に入って、それからのことを彼女は考える。レオンにはどんな顔で、どんな言葉を紡げばいいのだろう。
 それに、レオンはどのような思いで自分に会ってくれるのだろう。カムイはそんなことばかりを考え続けていて、その間にカミラが目を覚ましていたことにも気付かなかった。
 カミラは考え込む妹を優しい目で見つめ、しばらく経ってから「カムイ」と名を呼んだ。呼ばれた方の妹は「え」と驚きの声を漏らし、その目を姉へと向ける。
「か、カミラ姉さん……いつの間に?」
「少し前よ。声をかけるタイミングを見計らっていたの」
 あなたはずっと考え事をしていたようだから、と言いながらカミラはふ、と笑った。
 カムイはふたたび頬を赤く染める。そんな様子のカムイの頭をカミラは優しく撫でた。それはとても温かな手で、妹はかつての記憶を思い起こした。
 北の城塞で過ごしていた頃のことだ。城塞から出られないカムイのもとに、きょうだいたちは足繁く通っていた。
 自由を知らないカムイにとっての世界は酷く小さい。けれど、冷たい風に凍えることも無ければ、血の匂いが立ち込めることもない。
 窮屈で不自由だけれど、穏やかな世界だった。そんな彼女に様々なことを教え与えたのもきょうだいたちだった。
 マークスは剣の稽古をつけ、戦いというものを教えた。彼女は厳しい稽古にも熱心に励んでいた。
 カミラが教えたのはこの城塞の外のこと。同時に女性としてのあれこれを教えてやることもあった。
 レオンは勉強を見てやっていた。それは戦術から歴史など多岐にわたるもので、これまたカムイは真面目に取り組んだ。
 エリーゼはカムイによく懐いていて、安らぎというものを与えた。末っ子の無邪気な笑顔は彼女にとって光のようなものだった。
 そんなきょうだいたちを自分は結果的に裏切ってしまった。あれほどまでに自分のことを愛してくれた彼らを――そこに触れると、激しい痛みが心身を駆け巡る。
 俯いたカムイにカミラは声をかける。妹は数秒経過してから、泣き出しそうな目をカミラへと向けた。
「泣かないでちょうだい、カムイ。私たちにも思うところはあるけれど……みんな、あなたを愛しているわ。あなたもそうでしょう?」
「……はい。それは、もちろん」
「だから、もうそんな悲しい顔はしないで。お兄様とエリーゼも願っているはずよ。あなたが幸せになることを」
「でも、いいのでしょうか……私は……」
 この手で多くの命を奪ってしまったのに、と続けようとしてカムイの頬を透明な涙が伝った。
 今さっき泣かないでと言われたのに、その涙を堪えることが出来なかった。
 最期まで暗夜の第一王子で在り続けた兄。最期まで自分たちを思い続けていた妹。
 彼らだけでなく、たくさんの命がすり抜けて落ちていった。自分の選択によって、多くの人々の運命は捻じ曲がった。
「――カムイ」
 カミラは優しく名前を呼ぶ。姉さん、と答えようとする妹の震える肩に姉は手を置いた。
「もし、ここにマークスお兄様やエリーゼがいたら、きっとあなたには笑っていて欲しいと願うはずよ。カムイも、大切な人と幸せになって欲しい……って」
「……カミラ姉さん」
「それに――あなたがレオンに想いを寄せていること、私はずっと前から知っていてよ。お兄様たちもそれを知ったら、私と同じ願いを抱くはずだわ。だからね、カムイ。あなたは、自分のことを許してあげて」
「私が……私を……」
 姉の言葉を、妹は確かめるように胸の中で繰り返し再生する。
 許されないことをした。一生をかけても償いきれないことをした。カムイはずっとそう思ってきた。
 けれど、カミラは言う。幸せになっていいのだと。カムイはじっとカミラを見る。そこには自身が暗夜王女であった頃と変わりない姉の姿がある。
 まだ止まらない涙。カムイはそれを拭って――数十秒経ってから、静かに首を縦に振った。
 自分の幸せを望んでくれているのは、白夜のきょうだいだけではなくて、目の前にいる暗夜のきょうだいもまたそうであること。
 それをカムイはようやく受け止めることができた。そこでまたレオンへの愛おしさが沸き起こってくる。許される愛であるのならば、自分はそれを守りたい。
 その間も馬車は王都へと歩を進めていて、「そろそろウィンダムに到着致します」という声がふたりに降りかかる。
 どくんどくんと心臓が激しく鼓動した。ついに自分はここへと戻ってきたのだ。カムイは馬車が止まる前に、カミラへこう言った。
「……愛してくれて、ありがとうございます。カミラ姉さん。あなたの妹であれたこと……それは、私の誇りです」
 カムイはそこで一度言葉を区切る。もう彼女は泣いていない。柔らかな笑みがそこにはある。
「これからも、どうかそばで見守っていてください。私もカミラ姉さんのこと、大好きですから」
 カミラは驚いたような顔をしたが、すぐに表情を変えた。
 そこに優しい笑みを刻んで、「ええ」と答える。心が揺すぶられ、瞳が潤みそうになるのを堪えて。
 たとえ血が一滴も繋がっていなくとも、継ぎ接ぎの姉妹であったとしても、ふたりの関係が崩れてしまうことなどない。
 カミラは愛する妹の言葉でそのことを改めて知った。

 * * *

 王都ウィンダムはよく晴れていた。黒一色の空に幾つもの星は瞬く。
 馬車を降りたカムイを出迎えたのは、今なお暗夜王城に仕える懐かしい面々であった。
 代表して声を発したのは、エルフィの相棒であるハロルドだ。エルフィ同様、かつてエリーゼに仕えていた彼。
 思うところはあるようだが、この国の為に生きることをエリーゼも望んでいるだろうとのことで今の立場に置かれている。
 その隣に立っていたサイラスもカムイに「おかえり」と声をかける。暗夜の貴族の出である彼は、幼い頃カムイと何度も遊んだ親友のような人物。
 フェリシアとジョーカーも久しぶりに戻った祖国の空を仰ぐ。白夜とはまるで違う色をしたその空を。
 カムイとカミラのあとに降りたエルフィにハロルドは労う声をかけ、その間にベルカも冷たい石畳に足を落とす。
 何人もの暗夜兵に囲まれながら、カムイたちはクラーケンシュタイン城へと入っていく。
 王城クラーケンシュタインは下へ下へと伸びる巨大な建造物だ。それの奥の奥にレオンの待つ王の間はある。
 足元に注意を払いつつ、カムイは数歩先にいるカミラの背を追う。はやる気持ちをなんとか抑え込みながら。
「カムイ様とここに来られるなんて、本当に夢のようですぅ……」
 フェリシアが小さな声で言った。いつもならばそんな彼女を咎めるジョーカーも、今日ばかりは何も言わない。
 彼も同じ気持ちであるのだろう。主君とともに暗夜を離れ白夜に渡ったことで、祖国である暗夜王国にこのような形で戻れる日がくるとは思っていなかっただろうから。
 ハロルドやエルフィ、サイラスやベルカは黙したままではあるが、みな彼女の言葉に何かを感じた様子である。
 足元に気を付けて、とカミラは振り返って言った。カムイははい、と答えて進んでいく。あと数分後にはレオンに会える――次第にその時が近付いてくると、少女の心は弾む。
 やっと王の間のすぐ前まで来た。扉の前にはゼロの姿があって、彼は訪れた王女カムイに恭しく頭を垂れる。
 その後にゼロは「陛下がお待ちです」と発言し、大きな扉を数回ノックして返事を待ってからそれを開いた。
 扉の奥に向かうのはカムイとカミラだけであった。そのことは事前に知らされていた為、カムイが戸惑うことはなかった。
 フェリシアたちは一度別室に移動する。何かと話すこともやることも多いのだろう。
 ぎい、と扉は軋む。カムイは右手で左胸を押さえて、それから前をすっと見据えた。孤独から縛られた自分は、もういない。

「……レオン、さん」
 広い部屋の奥に、彼の姿はあった。
 大きな王座に腰を下ろし、その立場にあることを象徴するサークレットが金の髪を押さえている。
 深い色の両目はカムイのことを捉えており、薄紅の唇がそっと開かれるとそこからこぼれ落ちる彼女の名。
「カムイ……久しぶりだね。会いに来てくれてありがとう」
 優しい声色だった。同時に、酷く懐かしい。
 カムイは静かに彼へと近寄っていく。彼女とともに入室したカミラは少し離れたところでゼロと立っている。
 豪華なシャンデリアが光を降らすその部屋で、離れ離れになっていた魂は惹かれ合う。
「……ずっと、ずっと、私……レオンさんに会いたかったです」
「僕もだよ。君のことを想わない日は一度も無かった」
 レオンが立ち上がる。そしてカムイの直ぐ側まで歩いて、その腕の中にの彼女を埋めた。
 ぎゅうと抱きしめられ、光が伝う。レオンさん、レオンさん、と繰り返し彼の名を呼ぶ少女の頬に。
 空気を読んでゼロとカミラは一度退室したが、レオンとカムイがそれに気付いたのはずっと後のこと。
「カムイ。君に会えて……本当に嬉しいよ」
 しばらく抱き合っていたふたりが名残惜しそうに身体を離すと、彼は改めてそう言った。
 カムイはじっとレオンの姿を見る。また少し背が伸びただろうか。随分と大人っぽくなったようにも見える。
 けれどそこにいるのは確かにカムイがよく知るレオンで、懐かしさと愛しさに溺れてしまいそうになる。
 レオンの方もカムイから目を逸らさない。波打つ髪も、赤い瞳も、陶器のような肌も――彼女のすべてをその目に映し続ける。
 流れ落ちる時の中、そうしてふたりは待ち焦がれた再会を果たすのだった。


孤独を知らない右手ですか



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