暗夜の空は変わらない黒で満たされていた。幾つかの星は控えめに瞬いているけれど、月は見つからない。
 バルコニーに立ち、暗夜王国の若き王レオンは遠くをじっと見つめる。
 心の中に思い描くのは、ずっと想い慕ってきた少女の姿。「会いたい」という気持ちは募るばかりだ。
 白夜王国の第二王女である彼女の名は、カムイという。色素の極めて薄い長髪、高価な宝石のような赤い瞳。
 彼女は白夜王家に連なる人物でありながら、幼い頃に暗夜へ連れてこられ、レオンの「姉」として育った過去を持つ。
 前王であり、レオンの父でもあったガロンは連れ去ったカムイを北の城塞に閉じ込めていた。
 その小さな城塞は彼女の知る世界のすべて。暗い空の下に佇むそれは、いわば檻のようなもので、少女は自由の意味も名も知らずに育った。
 そんな彼女のもとに、レオンやきょうだいはしばしば会いに行った。カムイはいつでも笑顔で彼らを出迎える。
 どこで何を言われているかわからない王城クラーケンシュタインよりも、その城塞にいる時のほうが幸せだった、と今でもレオンは思う。
 だが、運命は残酷だった。カムイは真の平和の為に、暗夜王国を離れる道を選んだのである。生まれた国、白夜王国の王女として生きる道を。
 それはレオンたちを裏切る行為で、彼らは深い悲しみに沈んだ。ずっと一緒にいた彼女が去っていった事実を受け止めることが、すぐには出来なかった。
 ガロン王の手中で暴走する暗夜からの侵略に、もうひとつのきょうだいと共に立ち向かう白夜王女カムイ。
 その戦いは熾烈を極め、暗夜の長兄マークスと末妹エリーゼは命を落とした。本当はずっと一緒にいたかった。カムイの願いは叶うことなく、海辺に築かれた砂の城のように崩れ落ちる。
 戦いが白夜王国の勝利で終わると、両国間には恒久的な平和条約が結ばれ、世界はまた歩き始めた。白夜王となったリョウマと、暗夜王になったレオン。新たな時代が訪れたのである。
「……」
 冷えた風が吹き抜けていく。レオンの唇は無意識のまま彼女の名をかたどる。
 今、彼女は白夜王国で何をしているのだろう。何を思っているのだろう。
 体調を崩してはいないだろうか。元気なのだろうか。――自分のことを、忘れてはいないだろうか。
 そんな風に考えると胸が張り裂けそうになる。会いたい。会って、彼女の綺麗な瞳に見つめられたい。彼女の優しい声で名を呼んで欲しい。
 けれど自分はそう簡単に暗夜王国を離れることが出来ない。かつての暗夜王女カムイとはまた違った意味で、この国にとらわれている。
 ふたたび吹く風はやはりひんやりとしていて、心をも吹き抜けていった。そんなレオンを呼ぶ声がひとつ。
「……ゼロ、か」
 レオンは振り返らずにその声の主の名を呼ぶ。ゼロはレオン直属の部下で、ずっと彼を支えてきた人物である。
 最下層の貧民街で育ったという過去を持ちながら、今の立場までのし上がってきたゼロは、レオンが家族以外で最も信頼出来る人物。
 戦時中は呪術師であるオーディンとともに、レオンの臣下としてその力を存分にふるっていた。
 そのオーディンは、白夜との戦争が終結すると程無くして姿を消した。遠い遠い故郷へ帰ったのだろう、とレオンは思っている。彼はきっともう二度と自分の前に現れないであろうということも察している。
 ゼロは静かに言う。そろそろ部屋に戻るように、と。この国の風は冷たい。王たるレオンが身体を冷やし体調を崩してはならない。
 ああ、とレオンは答える。でももう少しだけ、と付け加えれば隻眼の男は少々困ったような顔をしつつ、頷いた。
 ゼロはとっくに気付いているのかもしれない。レオンがかつての義姉のことを想っているということに。その想いが、ただただ真っ直ぐであることに。
 自分はこの国の王である。いずれかは愛する人を娶り、それとの間に世継ぎである子をなさねばならない立場にある。実際そういった話が舞い込んでこないと言えば嘘になる。
 けれどレオンは、カムイのことを想い続けていて、それが揺らぐことのない愛であることにも感づいていた。
 想いを打ち明けたい。レオンはそう思っている。彼女が受け止めてくれるかわからない不安もあるけれど、この世界で一番カムイを愛しているのは自分であろうと断言出来るとも思っている。
 いつしか夜空には雲が広がってきて、星が少しずつ姿を隠していく。もう一度ゼロが王の名を呼んだ。レオンはそれに頷き、バルコニーから城内へと戻る。
「……カムイ」
 レオンがまた無意識に彼女の名前をこぼす。もちろんゼロはそれに気付いたが、何も言わず、執務室へ戻る彼の背を見つめ続けていた。

 * * *

 光溢れる豊穣の大地、白夜王国は春真っ只中にある。
 薄紅色の桜が咲き誇る城下町は民たちで賑わい、青空をそよ風が駆け巡る。
 第二王女カムイと、第三王女サクラは街へ出ていた。
 姉妹でこうやって街を歩くのは久しぶりだ。姉にあたる第一王女ヒノカも誘ったのだが、用があるから、と残念そうな顔をしていた。
 楽しんでおいで、とヒノカに言われたカムイとサクラは手を振る人々に笑みを返しながら歩いていく。
 護衛として、サクラの臣下であるカザハナとツバキも同行している。ふたりの顔も明るい。
 長い戦いは終わり、ようやく世界にもたらされた平穏。この穏やかな時を、王族たる自分たちは永遠のものにしなくてはならない。
「ああ、カムイ様にサクラ様。ようこそいらっしゃいました」
 露店を切り盛りしている女性がにこやかな顔で声をかけてくる。
 ふんわりと甘い香りが漂ってきた。どうやら、砂糖菓子や焼き菓子を売っている店のようだ。
 甘いものに目がないサクラが嬉しそうな表情を浮かべたが、すぐに恥じらうようにそこに紅色を添える。
「王女様、よろしかったらどうですか。この焼き菓子がこの店の一番人気なんですよ」
「わあ、とても美味しそうですね。サクラさん、買っていきましょうか?」
「は、はい……! 兄様たちにも買っていきたいです……!」
 カムイにそう言われ、サクラは目を輝かせる。「それは名案ですね」とツバキが言い、カザハナが頷いて代金を支払う。
 見た目も可愛らしい甘い焼き菓子は丁寧に袋の中に入れられ、ツバキが受け取った。
 店の女性も嬉しそうな顔をしたので、カムイもそれに似た表情を浮かべる。
 ただ、同時に寂しい気持ちも芽生えた。自分は今、当たり前のように微笑っている。けれど、失ったものも多くて、幸せを感じる度に哀しみも沸き起こってくるのだ。
 暗夜王国のきょうだいたちのことである。白夜に兄が、姉が、弟が、妹がいるように、暗夜にも大切な人たちがいる。
 もし自分があの日、あの時、暗夜王国の王女としての道を選んでいたのなら、「今」という「未来」は無かった。また違う現実が自分には与えられたはずだ。
 ガロンやマークス、エリーゼを失った暗夜王国では、レオンが王となって、カミラは降嫁した。暗夜王女としてのカムイの存在も無い。
 今、レオンはどのような思いであの国に生きているのだろう。そう思うと、カムイの心は掻き乱される。
「……レオン、さん」
「えっ? カムイ姉様、いま、なにか仰いましたか?」
 思わず声を漏らしたカムイに、サクラは首を捻った。妹の声によって我に返ったカムイは「なんでもありませんよ」と笑みを作る。
 その笑みはどこか悲しげに見え、妹であるところのサクラも不安そうな目をした。
 だがカムイはすぐに先程と変わらない様子に戻り、サクラ、ツバキ、カザハナに言う。そろそろ城へ帰りましょう、と。
 店主はカムイたちに手を振った。また来てくださいね、と王女たちの背に声を投げかける。
 サクラの脳裏には、姉の悲しげな笑みが焼き付いたままだった。

 白夜王国の王城は、シラサギ城という。
 どっしりと佇むそれは美しさと力強さを兼ね備えたもので、白夜の象徴と言ってもいい。
 カムイとサクラは肩を並べてリョウマの待つ王の間へと進んでいるところだった。
 ツバキたちはこのあと別の仕事があるからと言っていたので、王城前で別れた。
 買ってきた甘い菓子の袋はサクラの腕の中にある。カムイの臣下であるフェリシアの話によると、ヒノカとタクミも王の間にいるという。
 フェリシアは、ずっとカムイの面倒を見てきてくれたメイドだ。故郷である暗夜王国を離れたあの時から、その忠誠は変わらない。
 執事であるジョーカーもそうだ。北の城塞で生活を送っていたあの頃から、カムイにとって、両国のきょうだいとはまた違った意味での家族のような存在である。
 双子の姉フローラを亡くしたフェリシアは、大切な人を喪う痛みを知っている。だからこそ、彼女はカムイに仕える道だけを歩んでいた。

 王の間のすぐ前まで辿り着くと、カムイが代表してその扉の前に控える白夜兵にそこを開けるよう言う。
 若い白夜兵は「はっ、只今」と声を発し、重いそれを開く。ぎい、と軋みながら開いた扉の向こうにリョウマはいた。
 彼は王座に座り、真っ直ぐこちらを見ている。すぐそばにはヒノカとタクミの姿があった。リョウマの臣下たちはひっそりと部屋の隅に立つ。
 リョウマは穏やかな目をしていた。おかえり、と優しく声をかけた姉ヒノカにカムイとサクラが静かに頷く。
「あっ、あの、リョウマ兄様。ヒノカ姉様、タクミ兄様……いま、お時間はありますか?」
「え? 僕はもう用事はないけど?」
「……ああ。私もだ」
「俺も今日やるべきことはすべて終わらせている。何か用があるのか、サクラ」
 兄に問われたサクラがかい摘んで話をする。カムイたちと城下町で菓子を購入してきたことを。
 そして、きょうだい皆で揃って談笑がしたいのだ、と。
 するとリョウマはふ、と笑った。タクミも、ヒノカも、同様に嬉しそうな顔をしている。
「……たまにはそういうのも良いな」
「では、そうしましょう。ジョーカーさんにおいしいお茶を淹れてもらって、それで」
 リョウマに続けてカムイが言い、きょうだいたちはゆっくりと首を縦に振る。
 それを確認したサイゾウが手早く扉を開け、カゲロウはというとジョーカーにこの件を告げに消えた。
 きょうだいたちは皆幸せそうな顔でカムイの私室へと向かった。緩やかに流れ落ちる時を感じ取りながら。
 自室への道すがら、穿たれた窓の向こうの青空をカムイは見つめた。この空が闇に交わったその先にいる、彼のことをひとり想った。
 暗夜王国の王、レオン。彼は今、どんな表情で広大な世界を見据えているのだろうか。
 今、自分は幸せだけれど、彼はそうなのだろうか。そもそも、彼から大切な人を奪ってしまった自分に幸福になる権利はあるのだろうか。
 歩くスピードが落ちたカムイに、タクミが気付いて「姉さん?」と声をかけてくる。どうしたの、と問う弟に彼女は「なんでもないですよ」と返事をした。
 タクミはそれ以上追求はしなかった。なんでもない、なんてことは無いとわかりつつも、歩みを早めるカムイに苦笑した。
 彼女の私室へ入るともうそこにジョーカーとフェリシアの姿はあって、ちょうどいいタイミングに茶を用意してくれた。
 カムイはいつもの場所に腰を下ろし、サクラたちも続く。僅かに開いた窓から吹き込んでくる風が気持ち良くて、カムイが目を細めた。
 それから菓子や茶に手を伸ばし、きょうだいでそれと会話を楽しむ。幸せなのに胸の奥がちくりと痛むのは、暗夜での思い出もよみがってくるからで。
 もし、みんなが一緒に生きていける未来があったなら、こんな痛みを知らずに、白と黒のきょうだいたちが集って笑い合えたのに――今となってはどうしようもないことを、カムイは繰り返し考えた。


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