──八月五日(3)






聞き慣れない声に顔を上げる。


声の主は玄関から続く廊下の直線上に立っていた。
窓を背に立つ姿は微かに入る夕日が逆光になって黒く浮き立っている。
顔は見えない。
家族でないことは混乱している司でも分かり切っていた。


『……だれ?』


震える声で問うのが精一杯だった。        



相手がこちらへ近づいてくる気配がする。
問い掛ける自分の声が鼓膜に響き、次第に感覚が鮮明になっていく。

湿った衣擦れの音。
鈍い音階を示す足音。
何かぶつかる硬い音色。

音だけが、現実。


薄暗がりだと思っていた家は、何も見えない闇そのものに思えた。


唯一つ見えたのは、
暗く炯々と光る紅蓮の灯火、
緋の眸。

この鋭くも暗い両の光が司を捕らえる。


抱えていた玲児に縋りつくように腕の力を込めた。

目線は目の前に広がる底知れぬ闇に縫い付けられ、体は石膏のように固まる。
後退りすらできない。



「誰でもないよ」




頭上から降り注いだのは、
低く響く玲瓏の音。

美しく心地よいはずの声音は、
喩えようのない恐怖を以て司を絞め上げた。



夏の夕日も

生暖かい風も

蝉の声も


全部消えた



その声の前に。





もう手が届くほど相手は司の前に立っていた。

手が迷い無く伸びてくる。
闇だと思っていた姿は髪と身に纏う衣の色で、その手は酷く白かった。 



── しゃらん。



自分に伸ばされる手首を飾る銀細工が涼やかに鳴る。
華奢な銀の薔薇が散るその手首が、目の前にくる寸でで


視界が紅に揺れた。


残るは緋の眸、銀の薔薇、白い腕、黒の肖像。



すべての感覚はそこで断ち切られ、






後は闇に埋もれるだけ。




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