拾伍、【霞明け 三】 沈黙、静寂。 紅と椿、二人しかいない執務室は時計の秒針だけが音を奏で、時を刻む。 少し長い黙考の後、先に口を開いたのは紅だった。 「最終的な通告は史長と各隊長だけだな。直接菊間司令に報告、他には通さない方が良い」 「そうですね。事を拡げない為にも宗璃王の件はこれから正式に幹部管轄で行きましょう。他には引き続き一条暹太郎の関連から調査を進めるよう指示を出します」 「そうだな。ゆするべも選抜して宗璃王に付ける人選をするべきだろう」 「── それより、改めて隊を編成した方がいいかもしれませんね」 事後確認のようなやり取りだった椿の言葉尻が一瞬変わった。 それに怪訝そうな面持ちで顔を向ける紅に、椿は分厚い書類を素早く捲って続ける。 「円鵠楼の件で逃走した二人の内貴方が宗璃王を、もう一人を監査三名が追跡しました。 ですが失敗し監査二名は死亡しました。残る一名も重症です。これは伺っていますよね」 腑に落ちない顔をしながらも紅は頷いた。 粗方の報告はこの三日間で受けているが、椿がこれから言うことは紅の知らないものだと雰囲気で判る。 そのまま黙って続きを待った。 「監査二名の遺体の検分結果が出ています。両名、頸動脈を一太刀で斬られて即死。その内一名は首が取れかかっていたとか。 これがどういうことか分かりますよね?」 「軍人を一発でそれも複数殺れる技量の奴がいるってことか」 「ええ。いくら監査方が偵察を主にしているとは言え、任務遂行中の訓練された人間を侠客やゴロツキ程度が一人で殺せるものじゃない。ましてや抵抗もなく第一刀で斬り伏せられたのなら尚更です」 「宗璃王が殺害した可能性は?」 「遺体の刀傷は厚みのある両刃で刃渡りも太刀より長いと思われます。 貴方の証言では宗璃王の所有していた武器は小刀、頸動脈を斬ったなら浴びてもいい返り血の報告はなし。 貴方と接触した直後部隊が到着しているのでその後に襲撃したとも考えにくい。 可能性としては第三者を考えるのが妥当でしょう」 再びの沈黙。 椿は書類を持って紅を見据えたまま。 紅は考え込むように腕を組み、斜め下を見つめている。 「……ったく一条の野郎はとんでもない輩を囲ってやがんだな」 また紅が先に呟いた。 気が抜けたように深々と黒い長椅子に身を沈め天井を見上げる。 ああ意外に染みがあるな、と関係ない事実が頭の中を覆い始めた。 「新しい部隊の編成の件はまた後日改めて話し合いましょう。各隊長には私から通達しておきます」 そう言って椿は書類を机で整理し立ち上がる。 続けて紅も席を立った。 「菊間司令には己から言おう。これから頼さんに会うだろ?そう伝」 「駄目です」 そのまま椿の横を通り過ぎようと足を進めた紅に椿ははっきり透る声で停止させた。 更に顔を近付けて言い寄る。 「貴方は療養中で一週間は隊務停止のはずですよ?」 「別に報告くらい」 「そういう言い訳をして医務官を困らせているのは誰ですか。 久保井医務長困ってらっしゃいましたよ?今回も縫合して直ぐに戻ろうとしだとか、点滴打たせてくれないだとか、次の日には稽古しようとしただとか」 表情は厳しく、次々と畳み掛ける椿の気迫に紅は押されて少々後退った。 おまけに自分に幾ばくか非があるものだから否定もしにくい。 結果として黙る紅に椿はまだ言い募った。 「貴方はそう安易に病院に行ける身ではないでしょう?それを汲んで気を遣っている久保井医務長の気苦労も察して下さい」 確かに易々と医者にかかれる状態ではない。 紅は性別を偽っていて、その事実を知るのは旧知の頼光と園衞などごく一部。 民間病院はおろか軍の医療機関にもおいそれと行けない。 紅もそれは判っているが、じっとできる質ではないので動くなという方が無理な話だった。 「兎に角今は安静に養生しなさい。書類や報告は私が引き継いでおきますから」 もう言うことはないとばかりに踵を返して去ろうとする椿に紅は慌てて叫んだ。 「だから動けるからいいってい」 「では医務官命令です。 即刻退去し本日から一週間療養期間に入って下さい。 いいですか?これは軍戒第五十八条で保障される医務官の権限を行使しての命令ですからね。 医務官が相当と判断しそれが証明できる場合は、如何なる地位の者に対しても強制的に軍務停止命令を下せる。 貴方の場合、久保井医務長から診断書を頂けば一発で出入り禁止にできますよ」 先よりも刺を含ませて椿は最後通牒を突き付けた。 椿は輔佐官であるが、元は軍医で洛叉監史には医務官としても席を置いている。 加えてその立場上紅の性別を知る数少ない人物で、紅の治療は久保井医務長か椿の役回りとなっている。 流石に医務官の立場を盾に言われてしまえば紅に反論する余地もない。 仕方なく俯きながら小さな声で判った、とだけ紅は答えた。 「判って頂ければ結構です」 やっぱり相互理解が大切ですから、と椿は紅の肩に軽く手を置く。 その感触に紅は徐ろに顔を上げた。 「夕美君、老若男女関係なく身体というのは資本です。仕事は完璧にと思うならそれ相応の体調で臨みなさい。貴方は蔑ろにしすぎですよ」 そう説く椿の顔は先の剣のあるものから幾分柔らかなものに変化していた。 歯に着せぬ物言いに厳格な態度で接してはいるが、椿は椿なりに紅が心配なのだ。 「それに。貴方が倒れると斐々緒(イイオ)さんが心配するんです。止めて下さい」 心配したかと思うと今度は凄まじい迫力で肩を捕まれ言い寄られた。 鋭く怜悧な雰囲気は消え去り、代わりに背後に渦巻くどす黒い瘴気が視えたのは気のせいにしておこう。 「四日だっけ?斐々緒さんに会ってないのは」 「三日です。三日も斐々緒さんに会ってないんです。 華洛の視察に行って三日。三日ですよ?」 表情は変わらないものの、ぶつぶつ呟く椿の纏う空気は更にどす黒く粘着質になり始めていた。 こうなると紅ですら傍観するしかない。 斐々緒というのは椿の細君である。 冷静沈着、鉄仮面とあだ名される椿だが、実は度を超えた愛妻家の一面がある。 私情を一切挟まず、苛烈なまでに職務を全うする男の唯一の例外がこの最愛の妻であった。 何度か負傷して止むを得ず椿の自宅に担ぎ込まれたことのある紅は、その折りに何かと世話になった斐々緒と面識があった。 成り行きで紅の事情を知った斐々緒は、それから生活力にも生活感にも欠ける紅を妹のように見守っている。 椿もそれは承知しているが愛する妻の心配の種になるなど言語道断、というのが椿の言い分らしい。 「ですから帰って下さい。これ以上仕事が増えて斐々緒さんに会えなかったら死にます」 至極真面目に言い切ってしまうのだから呆れるよりも感心してしまう。 紅は肯定の意を示して渋々頷いた。 色々な意味でもう帰るより他ないだろう。 「紅!!大丈夫か?!!」 その時、けたたましい扉の開け放たれる音と共に、それを上回るような勢いで男が一人飛び込んできた。 息を弾ませ、服を乱し、何も取り繕わず不躾に入ってきたのは頼光だった。 「頼さん?!」 思わず声を上げた紅が次に疑問を呈する前に、頼光は紅の肩を引っ掴むと思いつく言葉をぶつけだした。 「紅、大丈夫か?!気分は?傷の具合は?きつくないか?あーえーとそれから」 「ちょっ、ちょっと頼さん?!どうしたんだよ」 「どうしたも何も!お前さっき血吐いて倒れたって聞いたんだぞ!大丈夫なのか?!」 「……それ、誰に聞いた?」 「園衞だ。何処にいるんだって言ったらここだって言うから」 「執務室に血吐いた奴なんか運ぶかよ」 はぁ、と溜め息を吐いて肩を落とす紅に対し、頼光は訳が分からないといった様子で肩を掴んだまま首を傾げる。 「普通医務室運ぶだろ。いくら己がそう簡単に医者の世話になれねぇとは言え医務室くらい世話になるよ」 そりゃ園衞の質の悪ぃ嘘だ、と言うと頼光は怒るどころかほっとしたように笑った。 「はぁ〜、良かったぁ」 「……は?」 吐き出される安堵の色を持つ言葉に戸惑う。 どうして笑っているんだと紅が頼光の顔を覗き込めば、頼光は更に笑みを深くして紅を抱き締めた。 「また無茶したんじゃないかって心配したぞ。でも無事で本当に良かった」 気恥ずかしさと驚きで抵抗しようとしたが止めた。 何の迷いもなく抱き締めてくれる腕。 真っすぐ自分に向けられる声。 心からの言葉。 こんなにも心配してくれる人がいることを、紅は改めて実感した。 馬鹿みたいに意地なんて張っていたらこの人を心配させる。 それは出来ればしたくない。 今日は大人しく帰ろう。 紅はそう密かに思いを馳せた。 「感動のご対面中、大変申し訳ないのですが、」 いつの間に通常仕様に戻ったのか、椿がそれこそ仁王のごとく立っていた。 「史長、今日この時間でしたら定例会議だと思うのですが如何されたました?」 言葉遣いこそ丁寧で慇懃ではあるが差し向けられる刺を纏った言葉に、頼光は一気に石像のごとく硬直した。 「いや、あー、そのな、」 「言い訳無用!!さぁ史長今すぐ戻りしょう」 吃り焦る頼光の腕を素早く鷲掴み、有無を言わさず力ずく引き摺る椿。 「まだ未処理の書類も残ってるでしょう。私と夕美君がいないからってしなくていい訳ではないんですよ」 痛いところを遠慮もなく刺されているらしく、情けない顔を晒しながら頼光はなすがまま椿に連行されていく。 咄嗟のことに唖然としながら紅はその成り行きを見つめていた。 部屋から出る寸前、 椿が顔だけ振り返ると、 『お大事に』 そう口だけ動かして微笑んだ。 今日初めて見た椿の笑顔。 その笑みを最後に扉は意外にも静かに閉じられた。 【了】 |