拾、【宵の詩吟を諳じて】 







風に揺蕩(たゆた)う鈴の音は、

偽と義に捕わる謡いの声(ね)。







哀れなるかな、哀れなるかな

また哀れなるかな


悲しいかな、悲しいかな

重ねて悲しいかな






夕闇が黒の帳を以て空を覆って一刻。
暗がりに灯る朱(あけ)の提灯、白の雪洞(ぼんぼり)。
処聞こえるお囃子と嬌声。
甘くねっとり漂う香と人の熱。
極彩色の女達が白い項と腕を晒し、道行く男を絡め捕る。

色味の欠ける現つとは異なる朱塗りの楼が立ち並ぶ、ここは華洛(からく)、花柳の巷。
渡来の文化に気触(かぶ)れた帝都・西京とは一線を引く古都・華洛は今も戦乱激しい時分の気風を醸し出す街である。
その色街・八重洲(やえじま)でも趣き深い廓のとある一室では、界隈の喧騒も蚊帳の外であった。




哀れなるかな、哀れなるかな

また哀れなるかな


悲しいかな、悲しいかな

重ねて悲しいかな




誰とも知れぬ謡う声が昏闇を震わす。
おそらく遊女か芸者であろう、その声は琴や笛や嬌声を擦り抜けその一室にも微かに響いた。


「哀れなるかな、か」


謡に合わせて呟く声がひとつ。
それはその部屋の出窓にもたれかかる男が発した言葉だった。

芸妓に劣らぬ派手な酔芙蓉が咲く紅の着物に覗く白の絹肌。
闇より黒く月明かりより鋭い光を放つ艶やかな黒髪。
その漆黒を切り取る左眼を覆う白い包帯。
そして覗く紅の隻眼。
景色に色を付け、絵のごとく佇む男は手に持つ朱塗りの煙管を傾けた。


「もう晩夏も過ぎたんだ、いつまでもそんなところにいたら風邪を引くぞ」


奥から別の男の声が掛かる。
趣向の凝らされた一枚板の机を前に書を認(したた)める男が一人。
窓にもたれかかる隻眼の男とは対照的に、きっちりと藍色の羽織袴を着込み、硬質の短い青みがかった黒髪に男らしい精悍な顔立ちのその男は筆を置き窓に向かって居直った。


「センは心配性だな」

「放っておいても良いが、そうすると後で桐泉(とうせん)さんが五月蝿いからな」


ああ、確かに、とくすりと笑うだけで隻眼の男は一向にその場を動かず、センと呼んだ男に首を向けるだけに留めた。
今の居場所が気に入ったらしく動く様子のない男にセンは溜め息を一つ零す。
こうなると飽きない限り動かないのは長い付き合いから目に見えていた。
代わりに別の言葉を投げ掛ける。



「円鵠楼の件は首尾よくいったようだな」


「いったと言えばいったけど、いかなかったと言えばいかなかった、かな」


センの言葉にやや間を置いて男は煮え切らない答えを返す。


「試しに新しい火薬でやったんだが、調合が巧くいかなかったみたいでねぇ。
洛中の五本柱全部は倒れなかった」

「倒れたなら一先ずは良いだろう」


徐ろにセンは立ち上がり男に近づく。
先の謡はとうに闇と喧騒に紛れ、残り香すらない。
楼や格子の合間から聞こえる哄笑や合いの手がやけに遠くに感じられた。


「まぁそれもそうだが、」


窓に手を掛け屈み込むように見ていたセンに対し、男はにやりと嗤った。


「挨拶としちゃぁいまひとつだな」


嗤う男はまこと絵になる艶笑を浮かべセンを見据える。
一つだけ晒された瞳は部屋に潜む闇の中で紅く濡れ炯々と光っていた。


「また行くのか?」


琥珀色の眼にその紅を映しセンは問う。
もうその答えは分かっているが。


「ご丁寧に大事な飼い犬まで差し向けてくれる御方々に、あれくらいのご挨拶じゃあ失礼極まりないだろう?」


男は更にその顔に嗤いを含ませる。
それは子供のように無邪気に見えて妖のように得体の知れぬ嗤い方であった。


「案ずるな。こちらを追う物好きな連中にご挨拶へ馳せ参じるだけよ」


男は器用にセンの横を抜けながら立ち上がった。


「無茶はするなよ。もう名前は割れているんだ、── 璃王」


不服そうにセンは言う。
その様子にまた一つ笑みを零し、隻眼の男 ── 宗璃王は煙管をセンに差し向けた。


「それはこっちの科白だ、暹太郎。お前は随分前から顔も出自も割れてんだ。
それに俺も直に割れる。連中の飼い犬につけられたからな」

「ゆするべか」

「ああ、おそらく。
奴等、名をくれてやるくれぇじゃあ物足りないらしいんでな」


璃王が差し向けた煙管をくわえる。
セン ── 一条暹太郎は懐に手を入れそこから黒光りする銃を取り出すと璃王に投げて寄越した。


「行くなと言いたいところだが、どうせ言ったところでお前には寝耳に水だろう。
持っていけ。そんな丸腰で行かせられるか」


腕を組み、憮然とした態度で一条は言い放つ。
対する璃王は難なく受け取ると、間を置かずにけらけら笑い出した。
粋狂などと呼ばれる璃王だが、別に丸腰で行くほど莫迦ではない。
分かっていながら素で咄嗟にこのような行動をとる不器用な友人を自分は殊の外好いているらしい、と場違いなことを璃王は思った。


「笑い過ぎだぞ、璃王。何が可笑しい?」


未だ笑う璃王に一条は顔をしかめた。
あまり分かっていない一条の様子が更に笑いを誘うらしく、璃王は上げそうになる声を抑えて笑う。


「いやいや、何でもない。
じゃあ俺はご挨拶に伺ってくるよ」


遂には涙を溜めてしまった目尻を拭い、璃王は紅い着物を翻して一条に背を向ける。
一条は難しい顔をしながらも黙ってそれを見送った。




「この前やった名前の対価はゆするべ一人。
姿形はそれくらいじゃあ教えてやんねぇぜ?洛叉監史さん」


くっくっくっくっ、と実に可笑しそうに嗤いながら廓を出る歩を進める。
透る声で謡を吟じながら。




恋しとよ君恋しとよ床しとよ

逢わばや見ばや見ばや見えばや


(貴方が恋しい、慕わしい)

(逢いたい、逢いたい、逢いたい)





「こうも恋われちゃ逢わない訳にはいかないねぇ」



餞別の銃を懐に隠しながら璃王は色街の闇へ向かった。


【了】 


《引用出典》  
空海『性霊集』
『梁塵秘抄』

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