大きく見開かれた瞳。引きつるその表情に、胸が締めつけられ窒息してしまいそうになる。
――こんな顔をさせたかったわけじゃない。
なのに、私の口はまた新たな嘘を吐くのだ。

「私は、あなたが“嫌い”よ」


I tell a lie to you.
-
私はあなたに嘘を吐く-


静かな室内に響く時計の音。正確に時を刻む秒針が、やけに耳障りに感じて名前はきつく目をつむった。
いまだ手つかずの参考書は窓から入ってきた風によってパラパラとページをめくられてゆく。
一向に進まない思考。しばらく葛藤(かっとう)したものの、結局フリーズしたまま思い通りに動かない頭に(たま)らず口から出たのは大きなため息だった。

星月学園、職員寮。学園に在学する二人の女子生徒は、安全性などの観点からこの職員寮の一室を借りて生活をしていた。
学生たちが集まる寮とは違いとても静かな場所だ。
そんな部屋にノックの音が響く。この寮で、名前の部屋を訪ねてくる人物は一人しかいない。

「名前、入ってもいい?」
「月子??」

きつく閉じていた瞼を開き、ノックに返事を返してドアを開ければ、目の前には幼馴染であり親友の月子が立っていた。

「どうしたの、こんな時間に…」
「あのね、昼間に金久保先輩からお茶っ葉を貰ったんだ。よかったら一緒に飲も」

そう言って手に持った丸缶を顔の横で軽く振り笑う月子。しかし、名前はそんな月子を見てため息を吐く。

「どうせ自分で淹れると美味しくないから、私に淹れさせようとしてるでしょ?」
「あはは、バレたかぁ」

彼女の淹れるお茶は不味いということで有名だ。そんな月子にお茶の葉を贈るなんて、誉も意地の悪いことをする。
仕方がない、とほんの少し困ったように名前が笑うと、それを見た月子は満面の笑みを浮かべて部屋へ上がった。

二人がこのように一緒の時間を過ごすようになったのは、つい最近のこと。二年生の春まで月子を含めた幼馴染、哉太、錫也と名前の四人の関係はけしていいものではなかった。
ある理由から一方的に幼馴染(かれら)を嫌い、避けていた名前。けれどもう一人の幼馴染である土萌羊の存在がこの関係に変化をもたらし、今では以前のように四人で一緒にいる時間が増えている。

そんな羊はもうこの学園にはいない。
寂しくないと言えば嘘になるが、夢を叶えるために旅立った彼を名前は心から応援したいと思っていた。

「はい。熱いから気を付けて」

急ごしらえではあったが、マグカップを茶器の代用にケトルで沸かした湯をお茶に注ぐ名前。マグカップを受け取った月子はひと口、ふた口とお茶を飲みホッと息を吐く。
開け放たれた窓からは、この時期独特の冷たい風が流れ込みカーテンを揺らした。

「はぁ…やっぱり名前が淹れるお茶は美味しい」
「それはあなたのがマズすぎるだけよ、月子」
「うぅ、否定できない…」

ひとこと。ふたこと。言葉を交わして二人は互いの顔を見合わせ笑みを零す。
まだ多少の違和感はあるが、確実にこの関係は以前よりもずっといいものとなっていた。

「もしかして、勉強中だった?」
「うん、ちょっとだけね。今回は課題が多くて…ホント、嫌になる」
「そっか。星詠み科は他の科と違って大変だって、一樹会長も言ってたっけ」
「そう…」

それは月子にとって一番身近で名前と同じ学科の先輩。深い意味はないはずなのに、その名前を聞いて胸が痛んだ。


名前と月子たちの仲が元通りになったことを、誰よりも喜んでいたのは一樹だった。


幼いころ、近所でよく一緒に遊んだお兄ちゃん。そんな一樹と再会したのは昨年の春。
まさかこの学園に彼がいるとは思いもよらなかった。おそらく月子たちも同じことを思ったに違いない。
けれど、当時の名前は再会の喜びなどよりも、いかに幼馴染(かれら)と関わりをもたないようにするかばかり考えていた。
だからこそ月子が生徒会のメンバーになったのをきっかけに、名前は一樹のことも避けた。

「他人を憎むのは簡単だ」

それは一年生のころに迎えた梅雨のはじまり。突然の雨に名前が立ち往生していたときのこと。
名前は並んで校門を通り過ぎる幼馴染たちの姿を教室の窓から睨むように眺めていた。
そんな自分に向かって投げかけられた一言。
名前はガラス越しに一樹の姿をみつけて顔をしかめた。

「だが、誰かを憎むことは自分を憎むことと同じ。名前、憎み続けていてもなにもうまれない。幸せになるためには、辛くても、苦しくても、受け止めるしかないんだ」
「……」

振り向こうとしない名前の背に一樹は言葉を続ける。このころには名前が月子たちを避けている理由に一樹も気づきはじめていたのだろう。
この学園へ入学して以来、なにかにつけて自分へちょっかいを出す一樹に名前は辟易(へきえき)していた。けれど、その中で一度たりともこうして核心に迫るような言葉はなかった。

一樹の言葉はいつも強くて真っ直ぐで…とても重い。

目を背け続けていた“答え”をいとも簡単に突きつける。たとえ名前がどんなに辛くなろうと、それを(あわ)れみ甘やかすようなことは絶対にしないだろう。
彼はいつだって正しい。

「そんなに辛いなら、俺に当たっていいぞ。倍返しするけどな」
「なにそれ、馬っ鹿じゃないの?」
「ははっ」

なにも知らないくせに、わかったことを言って欲しくない。
図星を突かれたことによる後ろめたさと、これ以上彼の言葉を聞きたくない一心から悪態をつきながら振り返る。…そして言葉を失った。
なぜなら、一樹はとても嬉しそうに笑っていたから。
あまりにも嬉しそうに笑っていたものだから、名前はそれ以上言葉を続けられなかったのだ。

自分のことよりも他人の幸せを願う一樹。
誰よりも強くて、真っ直ぐで、優しい人。


彼を好きになるのに時間はかからなかったと思う。


「なにかあった?」
「、え?」

急に黙り込んでしまった名前に月子は抱いていた疑問を口にする。その声に、名前が瞬きとともに見つめ返すと、月子は寂しげな笑みを浮かべて言った。

「名前は昔から、なにかあると無口になるから」
「それは、私がお喋りだって言いたいの?」

もの思いにふけっていたことを誤魔化すように、茶化すように名前がそう言えば、月子は苦笑いして首を振る。

「だって、名前はなにも言ってくれないから…」
「……」

それは彼女にとっての真実だ。

突然幼馴染(じぶんたち)を嫌い、なにも言わずに離れていった名前。想いを聞くことも、聞いてもらうこともできなかったあのころの名前は、月子の目にそう映ったのだろう。

そのことはいまだ月子の心に暗い影を落としていた。

「――…ありがと、月子」
「え?」

礼を言われるとは思ってもみなかったのだろう。名前の言葉に次は月子が瞬きを繰り返す。
そんな彼女の姿に思わず名前の口元に笑みがこぼれた。
月子はきっと名前の様子に気づいていたのだ。だからこうして部屋へ訪れた。名前の淹れたお茶を飲みたいという口実をもって。

「“なにか”って言われると、答えるのは難しいんだけど…でも、これは自分で解決しないといけない問題だと思うの。だから、いまは言えない。心配してくれたのに、ごめん」

そう。この悩みを解決するには、自分で考え答えを出すしかない。
けれど、月子の気遣いに甘え、こうして胸の内を言葉にすることでほんの少しだけ心が軽くなった気がする。

「そっか。…わかった。でも、もし一人でどうしようもないときはすぐに言って! 助けにはならないかもしれないけど、名前と一緒に悩みたいから」
「わかった。そのときは必ず月子に相談する」

名前の言葉に月子は安心したように大きく頷き笑う。そんな月子を見て、この笑顔を二度と傷つけたくないと改めて名前は思った。

傷つけた先にあるのは、虚しさと苦しさだけだと知っているから…――



「生徒会にくれば、購買部のパンは全部タダにしてやるぞ」

月子とのお茶会の翌日。昼休みの屋上庭園でパンを頬張りながら空を見上げていると、聞き慣れた台詞が聞こえて名前は眉をひそめた。

「どうだ、生徒会へくる気になったか?」
「何度も何度も…あなたはバカなの? 答えは【NO】よ」

この一年、ずっと同じ口説き文句で名前を生徒会へと誘う一樹。そんな彼の誘いに名前は同じように変わらない返事を返す。
しかし、このやり取りに慣れた一樹は名前の言葉を気にも留めずに彼女の隣に腰を下ろした。

「ったく、バカとはなんだバカとは。俺はお前の先輩だぞ」
「先輩ならもっと先輩らしくしたら??」
「ははっ、相変わらず名前は手厳しいな」
「……」

数センチ隣に感じる一樹の存在。ただそれだけのことで全身がマヒしたように動けなくなる。
嬉しさのあまり震えだしそうな気持を押し殺し、深く息を吸う名前。
「辛いなら俺に当たっていい」。そう言った一樹の言葉に名前はこの一年、ずっと甘えている。
どんなに悪態をついても、傷つけるような言葉を浴びせても、こうして笑って隣に座ってくれている一樹がその証拠だ。

「…なんでそこまでして私を生徒会にいれたいのよ」
「なんでって、俺は生徒会長だぞ? 俺が絶対って言ったら絶対なんだよ」

そう言って笑う一樹。その真っ直ぐで眩しいほどの笑顔に名前は目を細める。
ときめく想いと痛む心。

「はぁ…だから嫌いだって言ってるの」

息苦しくなる胸をごまかすように彼を“嫌い”だといえば、それは名前がその場を去る合図となった。腰掛けていたベンチから立ち上がり、その場をあとにする名前。
自分に背を向けた名前を、一樹が引き止めることはなかった。

今更どうして彼のことが“好き”だと言えるだろうか。

さんざん傷つけて、酷い言葉を何度も浴びせてきた。それでも彼の言葉に甘えて、馬鹿みたいに同じ時間を過ごしていた。
その眼差しを。その声を。そばに感じていたくて。

「、…」

屋上から階段を下る途中。目の前の廊下に名前は眉をひそめて足を止めた。
この廊下の先には生徒会室がある。
普段は気にも留めないこの廊下を、その日はなぜか足を止めてしまった。

本当に、ただの気まぐれ。

「……」

名前は生徒会室へと足を進めると、その扉を躊躇(ちゅうちょ)しながらもゆっくりと開ける。もちろんこの時間に人の姿はなく、室内はシンッと静まり返っていた。

机の上に山積みになった書類。会長席と思われる机に一枚の写真をみつけ名前はそれを手に取る。
春の写真だろう。現在の生徒会メンバー四人が並んで写るその写真は、皆とても楽しそうに笑っている。

その中でひときわ楽しそうに、嬉しそうに笑う一樹。その笑顔に、たまらず名前の瞳から涙が溢れ出した。

本当は好きだと言いたい。この写真のように、一緒に笑いあいたい。
でも、今更想いを告げて、もしも彼に嫌われてしまったら?
そう考えると、とてもじゃないが“好き”だなんて言えない。できあがってしまったいまある関係を、壊してしまうことが心底恐ろしい。



こんなにも、あなたを好きになるなんて思わなかった。



「…名前?」
「っ、!!」

不意に背後で聞こえた扉の開く音と一樹の声。ビクリと身体を強張らせ、しまった、と内心で焦る名前は彼に振り返ることなく俯いた。

「おい、どうし――」
「、近づかないでッ!!」

近づく足音に名前は咄嗟に叫ぶと、いまだ収まることのない涙を荒く拭って手に取っていた写真をもとの場所へと戻す。
声が震えないよう、ゆっくりと息を吐き出し顔を上げた。

「…なんでもないわ」
「なんでもないわけないだろ。なにかあったのか? 幼馴染(あいつら)と喧嘩でもしたのか?」

また一歩。自分の言葉を無視して近づいてくる足音。

「そんなんじゃないし、一樹には関係ないことよ」
「お前が泣いてるのに、ほおっておけるわけないだろ。なんでもいいから俺に話してみろ。一人で抱え込むなよ」

背後にと迫った一樹の存在に心が軋む。

「っ―! 人の気持ちも知らないで、簡単に言わないで! そんなだからあなたが嫌いだって言ってるんじゃない!!」

そしてまた嘘を吐く。本当は好きで好きで、どうしようもなく好きなのに。
一樹が離れていってしまうのがとても怖い。

「、?!」
「――ッ!!」

突然のことだった。なにが起きたのか、理解が追いつかず頭が真っ白になる名前。
山のように積まれた書類が音を立てて崩れる。

「か、…ずき…??」
「……」

一樹は名前を机の上に押し倒し真っ直ぐに名前を見つめた。

掴まれた腕に微かな痛みを感じながらも、真っ直ぐに自分を見つめる一樹を見つめ返す名前。
はじめてみる怒りにも似た真剣な眼差しに身体が震える。

「人の気を知らないのはどっちだ。お前に嫌いだって言われる度に、何度も諦めよとした。…でも駄目なんだ。お前がどうしようもなく好きなんだ。この気持ちを受けとめてほしいとは思わない。けど、拒絶だけはしないでくれ。……頼むから」

目の前で(うれ)いに揺れる瞳。夢をも思わす彼の言葉。
嬉しいはずなのに、涙がとめどなく溢れ出した。

「、きらい…! あなたなんて、嫌い。…大嫌いっ」
「名前…」

掴まれていた腕から力が抜ける。頬を流れる名前の涙を一樹の指が拭う。
触れた指先がとても暑く感じた。


「お前が好きだ、名前」


ゆっくりと重なる唇。
何度も何度も繰り返されるキスに名前の中の不安がひとつ、またひとつと消えてゆく。
自分を抱きしめるこのぬくもりが夢ではないことを教えてくれているようだ。
見つめあい、互いのぬくもりを感じあう二人。



今なら本当の気持ちを言える。



「一樹…私は、あなたが――」

彼女が彼に嘘を吐かなくなるのは、そう遠くない未来。


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