家を出る前に寝室で未だ眠っている同居人を起こそうか。
そんなことを考えていると、不意に家の呼び鈴が室内に鳴り響いた。
「?? 誰かしら?」
朝早くからの訪問者に首をかしげる名前であったが、すぐに頭の中に浮かんだある人物に納得する。
昨日の今日だ。また家賃の回収にお登勢が訪ねに来たのだろう。
呼び鈴の音にも起きる気配のない銀時に苦笑いしつつ、名前は家を出るついでにと自身の荷物を持って玄関へ向かった。
玄関のガラス戸に浮かぶ人影。
引手に手をかけゆっくり戸を開けると、聞こえてきたのは叫び声にも似た元気な挨拶だった。
麟子
初出勤当日。『万事屋銀ちゃん』と掲げられた看板を新八はどこか緊張した面持ちで見上げる。
自分から申し出たこととはいえ、いざ彼の元で働くとなると浮き足が立ち落ち着かない。
だからといっていつまても道端で右往左往しているわけにもいかず、新八は両手で拳を握ると万事屋へ続く階段を上がりはじめた。
昨日の事件のあと、新八は銀時の元で働きたいと頼み込んだ。
そもそも彼が原因で職を失ってしまったのだ。その責任を取れ、と半ば脅迫すれば、最初は面倒臭がっていた銀時も渋々了承した。
この男とともにいれば、見つけられるかもしれない。
男は言った。
護りたいものがあるなら剣を抜けばいいと。
自分は自分の護りたいものを護る、と。
『侍』とはなんなのか。自分にはまだわからない。
今だって迷っている。そんなものが本当にあるのか。
それでもここへ来たのは、きっと信じているからだ。
父が最後にいった『あの言葉』を。
悩んだっていい。迷ったていい。
自分を信じて前に進もう。
それが自分の『剣』になると信じて。
「……よしっ!」
ガラス戸の玄関前で一度ゆっくり深呼吸をしてから呼び鈴を押す新八。
しばらくしてガラス戸に映った人影に身体が自然と強張る。何事も最初が肝心というものだ。
新八は開かれる戸を見て勢いよく頭を下げると、それと同時に叫ぶように挨拶の言葉を口にした。
「おはようございます! 志村新八、今日からこちらでお世話になりますっっ!!!」
道場育ちというだけに声のハリには自信がある。
挨拶の基本は先手必勝。良好な人間関係を築く上で大切な第一歩だ。
その一歩を上手く踏み出せたことに新八は安堵した。
しかしいつまで経っても相手から反応が返ってこない。
「……」
あ、あれ? いつまで待てばいいんだ??
どれくらい頭を下げていただろう。
一向に返事のない状況を不思議に思いチラッと顔を上げてれば、目の前に立っていたのは新八も予想にしていなかった人物だった。
「えっ?」
「ふふ、随分と元気な挨拶ね」
夜空に浮かぶ月のような丸い瞳。首を傾げる動作に合わせて肩から流れ落ちる艶やかな黒い長髪。
姉よりも年は少し上だろうか。
新八の目の前には洋服を着た女性が立っていた。
クスクス。口元に手を当て鈴を転がすようように笑い続ける女性。
まさか銀時以外の、それも女性が現れるとは思いもしなかった新八は彼女を前に慌てふためく。
「るっせーなァ。近所迷惑だろーが」
訪ねる家を間違えたのだろうか。
困惑しているところに女性の背後から目当ての人物がようやく現れ、新八からホッと息が零れた。
「なんだ、本当に来たのか」
――のもつかの間。
この一言と銀時の姿に新八の表情が引きつる。
大きな欠伸に目元に浮かぶ涙。
寝間着であろう服の合わせ目から腕を入れ腹を掻く動き。
銀時は明らかに寝起きのようであった。
心機一転、決意を胸に人が朝早くから訪ねて来たというのにこの男、寝起きなうえに自分が本当に来るとは思わなったという口ぶり。
しかもあろうことか大きな欠伸を再度これ見ようがしにまた吐いた。
これには流石の新八も言葉を失う。
「銀時、私そろそろ行くね」
文句のひとつでも言ってやる。
そう思った新八が口を開くよりもはやく、それを遮ったのは女性の言葉だ。
ご飯できてるから、掃除と洗濯だけお願いね。二人の間に立っていた彼女は鞄を肩にかけると新八へ背を向け銀時に向けてこう言った。
生返事を返す銀時。だがそんな彼の態度にも気をとめず女性は言葉を続ける。
「いってきます」
「おー。気ぃつけてな」
二人の会話に入れず立ちつくしていると、すれ違いざまに新八の肩へ女性の手が置かれた。
「またね、『新八君』。頑張って」
向けられた柔らかい笑み。
なぜ名前を。問いかけようとして直前に自分がした行動を思い出し耳が熱くなる。
赤くなった新八の耳に、また鈴を転がしたような笑い声が聞こえた。
早々に。なんてかっこ悪いんだ…――