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この愛しい寝顔をあと何度この目に映せるだろうか────束の間の休息。恋人の緩み切った寝顔に誘われるように掌を髪に伸ばした。仄かに水分を湛えたような髪の質感を指先に感じ、滑らかな髪を耳にかけてやる。槿花色の髪がやわらかに風にそよぐと、この簡素な宿部屋がいくらか華やいだような気がした。
露になった髪と同じ色の可憐な睫毛と、今は閉じられている澄みきった大きな瑠璃紺の瞳。透けるような肌とそれに従い血色が分かりやすく色付く潤んだ唇。
この暖かな体温をあと何時間、この手に宿せるのだろうか。
俺がユリを愛してしまった理由を自戒のように思い返す。だが、何度でも同じ答えにたどり着くのだ。俺はこのほんの表層の人の目を惹きつけやすい見目より先に、彼女が自身の奥深くに巣食う、魍魎とした獣を手名付けていることに、気づいてしまったからだった。
獣は、生来巣食うような自己の物でもなく、尾獣のように大義のかけられた実態のある獣でもない。理不尽に他者から投げかけられ続けた、猜忌の念により植え付けられた、膨大に膨れ上がった陰鬱である。しかし、彼女は手懐けていた。側から見れば、いかなる状況でも小生意気なくらい、冷静で大人びた少女に見える程に。
その気高さを試すように、幾度となくこの心身に苛烈な悲しみや浴びせられてきた。少女だったユリが、既に絶え絶えの息を方で押し出すさなかでも容赦はなかった。一人の人間としての矜持さえ跡形もなく砕かれどれだけ濁流のように苦難が押し寄せても、ユリは最後のひとひらだけはどんな狂気にも明け渡さなかった。時には過酷な濁流に押し流されることを選んででも堅牢に、常に己で思考していた。
狂気に溺れることは、存外容易なことだ。
他者の憐憫に触れるような正当な理由さえ手に入れさえすればいい。たとえ理由に実体が伴わなくてもだ。苦境の渦に呑まれていくほど、狂気の誘惑は容易に耳元まで歩みを進めて、ひたりひたりと近づいてくる。くたびれた心身に、甘美にそして巧妙に囁き、誘い落そうするものだ。こちらに来れば、手軽な異質さで唯一無二になれるだとか、もしくは何もかも忘れられるだとか、大抵がその類だ。
この誘いに乗らなかった理由は自己愛と対極に位置する心持だろう。幼くして残酷なまでに徹底して己を蔑み、あらゆる自惚れを許すことを嫌ったためであろうことを知った時、俺は戦慄した。
日々自らの命の全体量を厳しく精査し、決して自分だけのための解放を与えぬよう、どの程度の辛苦と希望を自らに与え、その狭間で引き裂かれる痛みを味わえば先を拓けるのか、潰れれば代償は何かを計量するように。
自分よりさらに年端も行かぬ少女が、命を計るためだけに生きる強さと惨憺さに、歪であることは分かっていても、いやだからこそ、そこに美しさを見てしまったのかもしれない。同じだけの同じような漆黒を纏うこいつは、俺に影を落とさせなかった。それは、まるで明かりを灯されるような気分だった。
そして、ユリの内面を象徴するようなあの事件が決定打となったのは、苛烈な運命を共にする者の因縁だったのだろうか──
*****
入隊予定日数か月前から連続強姦事件が根を含め暗部内で数件起こり、一人の重傷者を出していた。その影響で新入隊員が巻き込まれるのを避けるために入隊日が後ろ倒しされていた期だった。
既に主犯格を逮捕し、実行犯もほぼ出そろっていたところでユリが入隊してきた。気鋭の若手くノ一の居る班に配属されたのは配慮で、数週間の間見習いを経て順調に任務に当たっていたのだが、それが完全な仇となった。
ユリは入隊と配属から一年もたたないうちに、暗部でも稀にみるこの凶行に巻き込まれた。事の顛末としては、その若いくノ一が実行犯である最後の一人の男を色恋沙汰のために匿い、男を自分の元に留め置くためと、年端も行かない少女に集まる注目を嫉んだ末に共謀したというものだった。偶然にもあの日、俺は任務後に追加提出する書類が急遽できて、班で一番の新入りだったから使いで待機所に戻って来た時に事は発覚した。
幾度思い出しても吐き気が腹から迫り上げるような、自分が男であることすら呪いたくなるような光景で、あのカカシさんですら絶句し、その場で先に手が出ていたくらいだった。ユリに手を下したのは、他でもなく直属の部隊長だった。
地下通路を小走りに進んでいると、怒りを帯びたような女の声のかけらと物音のような音がした。隊長、と言葉の先端だけが聞こえ、内容自体は聞き取れなかった。
通常時、地下通路沿いの部屋は物置だったり、簡単な演習ができたりするから音が響くこと自体は不審なことではない。しかし、音の小ささ割にはあまり平穏な気配ではなさそうな語気に違和感を覚えたのだ。
写輪眼を通してみれば、潜伏によく用いられる結界が張られている。指定の演習場以外ではあらゆる結界術が機密と安全保持のため禁忌となっているはずが、そこには確かに結界が見え、僅かに術式に綻びがあったために気付くことができた。
カカシさんに即座に緊急の報告を上げると、丁度任務報告から帰還した夕顔さんをそのまま引っ張ってきて耳打ちした。この様子では、自分の予測が確信に変わってしまうだろうと覚悟を決めた。俺が結界を破り、カカシさんを先頭にして突入し、テンゾウさんが後方確認の陣形をとり、処置は夕顔さんと俺という算段だ。
扉を開けた瞬間、咽かえる様な性と薬物、蝋の混ざった臭いで満たされていた。"アタリ"だった。
暗部に所属していれば凄惨な死も日常茶飯事で、子供であったものの俺も、既にこういった類の折檻を初めて目撃したわけでは無かった。だが、死臭とはまた異なる異常な臭いに鼻腔を刺激されることには、なかなか慣れることができずにいた。思わず顔を顰めた。
次いで俺は、自らの目に飛び込んできた光景に目を疑った。思わず自分の指先から、血の気が引いた。
壁にもたれかかり、両脚を開かれるように固定された白い肢体。縛り上げられた両腕の狭間で項垂れる頭には、目隠しと封印札まで固定されている。明らかに抵抗を封じる目的を超えているであろう縄に包まれた、強張る身体の右腕には赤い流線形の刻印が確かに刻まれていた。
この異様な状況に、髪の色や顔の輪郭、概ねの体格をなぞることさえ罪悪感があった。だが、紛れもなく昨日も稽古の相手をしてやった、唯一の後輩の姿がそこにあった。
既にほぼ全身が薬物か精液かも区別のつかない液体に塗れ、救援までに薬が回ったのか身体は少し離れていても赤く上気し呼吸も荒いのがわかった。先刻聞いたような声を上げることは、もうできないようだった。
どちらに何本用いられたかは分からなかったが、薬を直に静脈に入れているのか…注射器と使用済みのアンプルが数本、ユリの足下に乱雑に転がっていた。男はまだ背後に居る俺たちには気付いてない。部隊長が聞いて呆れる姿だ。
「そ、んな……」
夕顔さんの絞り出すような声は、男の異常に荒くなった息遣いとユリの引き攣るような嗚咽に、その場であっけなく掻き消された。
今まさに、ユリに覆いかぶさろうと、まだ薄い肩に男がその手をかけようとした時だった。目の前の強烈な光景に思考を焼かれ、ものの数秒間だったがその場で硬直していた俺を横目に、カカシさんがゆらりと前進した直後、ドスと骨のひしゃげる音がした。
鼻と頬骨のあたりから血を流した男の顔は、薬物の過剰摂取の影響か、毒々しく醜い獣のような顔に変わっていた。うつらうつらと怪訝そうに行為を中断させた主を見上げる表情に、はたりと緊張が走った瞬間、もう一度鈍い音がした。
再びカカシさんが男を殴り倒し、蹴り上げて入り口の方に向かせ、今度は胸倉を掴むのを見て、ようやく思考と体が動き出した。
「カカシさん、…この男を生け捕りにして、全て吐かせましょう。」
瞼が僅かに見開かれ、はっとしたように腕を降ろした。テンゾウさんと共に粛々と捕縛を済ませ、この場を後にした。カカシさんは終始無言だったが、こんなにも激しく顔を歪ませるのを憚らなかったのは、後にも先にもこの日だけだった。
夕顔さんは入り口付近の俺に一度静止をかけ、速やかにユリの全身に喰い込む拘束を解き、手持ちのマントを被せて俺を呼んだ。夕顔さんが心音や脈を採り、怪我の状態を確認し、俺は髪や顔に付いた液体の残滓を拭って、封印札の無効化と目隠しを解いてやった。
ようやく光に晒された顔をこちらに向かせてみるが、泣き腫らして充血しきった瞳の焦点は、俺の瞳孔を上手く捉えられないようだった。
「ユリっ、ごめん、ごめんね。もっとちゃんとあなたを見ててあげるべきだった。っ……ごめん、ごめんなさいっ……」
夕顔さんのわずかに震えていた声は、今や全てが悔しさや憐憫に舵を切っていたようで、ぼんやりと抱きしめられたユリの髪には夕顔さんの涙がはらはらと伝っていた。
衝撃は続く。意識確認に入ると、わずかだが首を横に振り、応答したのだ。瞳の焦点も合わないような状況にも関わらず、反応は遅くともまだ辛うじて小さく首を振ったり手指を僅かに動かすような意思表示ができる状態を保っていた。
いっそ分けもわからぬまま、であった方が幾分楽だっただろうに……何を支えに意識を保っていたのか。
緊急用の解毒剤を飲ませている間に、事態が事態のであるから搬送ではなくこの場に医療班を呼ぶという判断に至った。転がっていた注射器を回収し、俺は医療班の手配のため、この時点でこの部屋を後にした。意識があるならなおのこと、たとえ救助であっても家族でもない男にこんな姿を見られたいはずもないだろう。
後日、何度か事情聴取を受けた後に、カルテを共有された。不幸中の幸いで、強姦としては未遂だったらしいが、続く内容には、目を覆いたくなる内容だった。
性器には軽症ではあるが傷と出血があり、頸部と身体にも擦過傷や打撲と多数の軽度の火傷、はたまた薬物の副反応による発熱有り…どんな屈辱が与えられていたかは明らかだった。そして、最後にショック性の健忘は認められない、と書き留められていた。
つまり、ユリはすべてを覚えている、ということだ。ここまで凌辱の痕跡の数々が記録されていて、何が未遂なのだろうか。静かに俺の腑は煮えたぎり、呵責が収まることはなかった。
結果論として肉体的に致命傷になるようなことはなかったが、身内であるはずの同じ里の忍に、まして直属の上長に蹂躙された心はどう戻すのだろうか。途方もない気がした。
暗部の任務および待機の時間割は四分割されている。その間の二時間ごとに日別に場所を割って、点検と清掃が入るため、閑散とする。その合間に、暗部用の地下路沿いの演習場に先輩の説教だと誘いこみ、この凶行が実行された。
勿論、当時から実力は折り紙つきだったわけで、本気で忍術で対峙すれば最悪の事態には至らなかったはずだが、入隊数日で注目と同時に受け始めた嫌がらせやくだらぬ陰口の内容は、まだ人間関係の経験は浅かった彼女の判断力を鈍らせるには充分なものだった。
例え防衛のためとはいえ、同胞に、先輩に、まして自分の直属の部隊長に、忍術や体術の有形行使で逆らえば、今後どんな扱いを受けるか分からない。
そうあれこれと思案しているうちに間合いを詰められ、ほぼ無抵抗に素手の掴み合いとなってしまったと言う。ともなれば、いくら早熟の体格だろうが大の鍛えぬいた男と、成長過程の女の力の差が埋まるわけがないのは言うまでもない。
そして当然に上下関係を慮ったのはユリのみで、新入りを手籠めにする輩が人の心の位置するところを掴めるはずもなく、ユリの一瞬の迷いや遠慮は、隈なく凶行の実行に利用された。
幼くして才覚を見出されたユリを間近で見ていたこともあり、ご丁寧にその対策のためか手製の封印札まで行使し、女であれば十六に満たない若年者には薬物耐性訓練を大人ほど施されない、つまり、薬品が回りやすいことを利用する悪知恵は、姑息なまでに働くようだった。
この件は内容の重篤性から隠密に処理される運びとなった。未遂に終わったため、処刑は免れたようだがもう二度と檻の外には出られないようになるよう、厳罰も処される見込みが早々に立った。共謀の女は、男の逮捕後に自殺未遂、回復次第くノ一は懲戒となり、懲役の後に木の葉から事実上の追放になった。
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「もう、大丈夫ですから」
ユリはこの事件で、ろ班に配属されることとなった。現場にいた4人のみで見舞いに訪れると、開口一番に、二週間の休養を一週間で切り上げたいと申し出てきた。忍の世界では無きにしも非ずの出来事だと。休んでいるより任務に出たほうが、思い出す回数が減るからと。
極めて慎重に、かつ明るく笑って、ユリはそう言った。もちろんユリが努めて気丈に振舞っていることは、その場にいた皆が分かっていたが、あの笑みにあらゆる種の諦観が宿されていたことに気づいていたのは、恐らくあの場において俺だけであった。
あの強姦未遂事件のちょうど前日、まだ若いというよりは幼いかったユリに、ひとり宿舎に帰る彼女を不思議に思い尋ねてしまったのだ。そして、家族からの折檻から逃げていたところを保護されたということを知らされた。
さらに、逃げ出すため両親に術を行使し、致命的な怪我をさせたことも。明言することをユリは自身に許さなかったが、絶えず負うべきでない良心の呵責に喘いでいたことは想像にたやすかった。
────幼くして自分の内から崩壊させられるような果てしない遣る瀬無さを背負ったまま、また自分の属する先に自我を蹂躙され、自我さえ賭けさせられる失意に満ちた世界で、二人、生きてきた。
これが愛なのか憐憫であるのか、はたまた依存であるのか、もう今となってはユリもイタチも互いにその感触は掴めない。それでも、そんなことはとうにどうでも良い程に、言わずとして痛みの中で溶け合って、共に過ごしてきた。
────弟、恋人…俺は守りたい存在に限って、この手で隙間なく痛みを与えねば未来さえ閉ざしてしまう自分の業と、より深く対峙するべきなのだ。自分の胸の痛みなどにそやされる権利も時間も、俺にはない。
犠牲と責務を、忘れてはならない。
「……キレーだね。イタチは。」
腑抜けた声とセリフが俺の思考を分断すると、大きな瞳が既に開かれていたことに気づいた。
お前は、俺がいよいよ暗闇の最深に沈もうとすると、いつも見計らうようにこうやってその澄んだ瞳で俺を引き戻す。本当に、いつもタイミングってものがあるだろう、と思わざるを得ない、相変わらず不思議な女だ。自分の双眸がじんと熱を帯び、とっさにひた隠す方法を感じた時、胸に温かな槿花色が広がった。
大きく息を吐くと、午後の熟れた風が室内に漂った。