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Novel - Hanno | Kerry

5





 暗闇の中、ひとすじの煌めきがするりと淡く白い軌跡を残し落下していく。窓の外で、青白い月に照らされて鴉色から濃藍へとうつろう夜空に燦然と輝く満天の星空。ツーっと星の滴が湧き出ては、夜空を伝った。

 今夜はいつもより多くの人々が空を見上げるだろう、数年に一度の真夏の流星群の夜。願いに満ちた夜。またひとすじ、今度は窓の外を見遣る俺の視界の淵で白い光が煌めいた。
 窓越しの青白い月明かりに照らされた涙の滴の煌めきは、恐らくは臥してなお離してくれない絶望的な悲しみを滲ませて、白く滑らかな頬の上を重力に従い無力に流れ落ちていった。
 外には星々が、この病室には眠っている後輩の頬を伝う涙が、儚く輝いては流れ落ちていた。

 星の流れ落ちゆく軌跡と、落涙のそれはどうも似ている。キラリと湧き出しては音もなく闇の中を伝い消えてゆく。そして、この白い頬をなぞる涙も、この空をなぞる流星も、秀美な見た目とは裏腹に、それぞれに軌道を描くそれ本体の内側には、燃えさかる焔をたたえているだろうところもだ。
 とはいえ、多くの場合前者は悲しみを乗せ、後者は願いを乗せることが多いという、限りなく対極に近い差異を孕むが。


 今、自分の面前にしどけなく横たわるこの後輩は、限りなく完璧と言う言葉に近しい人物だ。
 幼くして恐ろしいほどの理性と鋭すぎる才能を持ち合わせ、理性と才能を両立させていた。そして、危ういほど美しかった。直近にも前例があったという意味で、鳴り物入りで入隊したうちはイタチの後の入隊であったのが不幸中の幸いだったが、それでもこれらの要素は十二分に周囲の競争に駆られる大人達の視線を掻き立てた。
 瞬く間に噂の的になり、子供への純粋性の押し付けから始まり、次には才能の検証に留まることを知らなかった。
やがて醜い大人達の見濁に巻き込まれたかと思えば、妬みにすらなった。要するに、同じ目線でコイツに寄り添える人間はいなかった。それでもnameは耐え忍んだ。そうするしか、コイツに生きて行く術はなかったからだ。泣きつく親類も帰る場所もなかったからだ。まぁ、こればかりは暗部に若くして入ってくる者としては特段珍しくないのだが。

 任務遂行時のこいつの態度はといえば、まるで過去の自分を見ている気分だった。命を急かすように、自らの身を罰するように、生きぬよう死なぬよう、丁寧に、ひそやかに、誰にも知られることなく確実に命を削げるように、尋常ではない量と質の任務に没頭する。
 唯一子供らしく我儘を言うときといえば、勝手に代替を引き受けてしまうnameの仕事量を、俺や火影様が半ば強制的にコントロールした時くらいだった。
 そしてnameは瞬く間に、近年でも稀に見る極秘かつ高難易度の任務を単独最年少で達成した。そして事実上、それと引き換えに命を投げ捨てる正当な権利を手にした。勿論、火影様もnameの心身の強い負荷を危惧していなかったはずがないが、強くなりすぎたnameは、あの日まで至極自然に任務遂行と報告を行い、来る日の隙を確実に狙ったというわけだ。

 そしてついに、世界にその悲しみを当て付けるように、自らには躊躇なく計画を執行した。

 テンゾウの機転と根への人脈がなければ、確実に落とせていた命。どうにかこの世の淵から零れ落ちていく寸前で拾い上げることができたものの、目覚めの後の失意に満ちた彼女の表情は想像に容易い。
 その時にこの無機質な病室に響かせるべき言葉をまだオレは見つけられていない。ただ一つかけてやれる言葉といえば、ほぼ間違いなく未遂に終わるであろうこの自殺は、もしも再決行するならダンゾウの思惑通りであるからその手に落ちるな、ということぐらいだ。しかし、nameにしてみれば、そんなことはきっともうとうにどうでも良いことであろう。

 彼女からしてみれば、ようやくこの地獄の中で手に入れたはずの愛がこんな形で踏みにじられ、献身のあての里には、その実恋人を永遠に辱められ手はずから奪われた。この空虚な世界に生きるすべを見出す必要すら感じられないだろう。
 必然だ。終わりのないように感じたであろう陰鬱な運命の中で、苦しみながら、それでも自分で定義した幸せを獲得しては毟り取られ、最後には自分の手で壊すことを仕向けられた。

 雁字搦めの中で規程を満たした今、これ以上やすやすと他者や組織の都合よく出来合いの幸せを見出すような、まるで人生ごと他者に受け渡す選択肢は彼女の中にあるはずもないだろう。

 この命の捨て方はきっと、怒りに似ている。

 自分に消費される運命を強いる全ての者たちへ、そして恐らくnameが本来は感じる必要のない、無力感を抱える自身へ、残骸となかった形で命を当てつけたかったはずだ。
 例えば、自らの胸を切り裂いて心臓を取り出し、人前に差し出すまで生きられたとする。そうして取り出した右心房はこの無明の絶望を強いた者たちへ、左心房を無力な自分へ投げつけたかったはずだ。やつらの目前で、筆舌に尽しがたい絶望の偶像として、差し出したいはずだ。
 手始めに面々の目前で、その手で血が滴るままに心臓を握りつぶし、血飛沫を浴びせてから目の前に差し出し、そして戸惑いながら伸ばされる手をすり抜けるようにこの穢土に叩きつけ、千切れて砂にまみれた心臓を前に、お前たちが選んだことだと言い放ち、その才とゆきずりにこの世を拒絶し去りたいと考えるのは自然なことだ。
 斥力も引力も全体で足せばゼロになるようにこの世は組まれているのだから、物理法則としても自然だ。そうだ、そう考えれば、ここまでの彼女のやり方は上品すぎるくらいだ。

 雪崩のように思考を巡らせるカカシは、いつかの、いや未だに時折自身の胸の奥深くどこかに、燻り続ける鋭い胸の痛みが想起され、思わず奥歯を噛み締めた。

 ほんの僅かの消耗ですら惜まれるような、そんな死の淵を彷徨う今この時も、殊勝なことに眠りながら涙している。その涙を捧ぐ相手は、恐らくは自身ではなく一人の男への物だろう。

 この大人びた子供と唯一、痛みとその青い狂気を分け合える次元に生きられるのは、あの男しかいないだろう。

 うちはイタチ。

 暗部除隊から早数年、見込み通りnameはすっかり最前線の任務を安定的かつ数多く任されるようになったと聞いていた。ナルトの修行の件でテンゾウをできるだけ地上に上げる必要もあって、早くもアイツの後任はnameという話が既に出ている所までは聞いていた。俺が除隊される前から、nameの実力を考えれば明らかなことだった。
 流石に文句を言う身の程知らずももう居ないであろう。そのうちに祝いの席でも用意しなくてはと考えていたのに。

 自死を選ぶなら、この忌々しい任務の受任の時にでもしてくれたらよかったのに。それなら、幾分またこの背にのしかかるこの新たな遣る瀬無さも軽く済んだのに──なぜ。

 そんな問いをあえてかけたくなるほど、カカシには幾度も二人で生き抜く抜け道を考えただろう日々が鮮やかに想像できた。そのことが鋭く切ない痛みが胸を突き刺すのが煩わしいのだ。
 あの二人のことである。思い悩み、最良の改案の契機を絶えず模索し続けながらも、そしらぬ顔で日常を消化しながら、背後には残酷な重荷をたった二人、幼い背中で背負って。鋭く重くのしかかる事実が容赦なくカカシの胸を抉った。

 暗部内でも稀代のツーマンセルだったように思う。現に、内外戦の同時勃発をたった二人で防いだことは確実だ。だから、この割り当ても確実に間違っていなかった。そうだ、正しかった。それでも、この二つの希有な才能に対し"消耗品"として使用を念頭に入れながら許可したのは、機密保持のためとはいえ本当に正しかったのだろうか。火影様の正しかった決定にすら、今は問いを抑えられなかった。

…何が楽しくて、才能を見込んで直々に手塩にかけた後輩を、二人そろって間接的に殺し合わせなきゃいけないんだっての。

 そんなことのために日々成長を見守り、鍛えたわけであるはないのに。二人の青い恋に頬を緩めたわけではないのに。

「泣きたいのは、コッチのほうだよ…」


 空に言葉を投げかけた。

…実は裏切り者だと思っていた方の後輩はすべては末代まで着る濡れ衣を伴った任務で、もう一方は、それを遂行するための監視に据えられ、殉死を装った自害だったなんて──いい加減にしてほしいね。

 もっとも、今でもこの事実は里の幹部も限られた人数しかしらない。現役の者では今のところ俺とテンゾウと担当医療忍の数人だけだ。それ以外には"暁と交戦後負傷"とだけ伝えられている。

…オレはさ、あと何人周りの人間を奪われれば死ねるのかしらね。

 あどけない寝顔に向かって、なんて最悪な事をうそぶくんだと自嘲しながら、俺はこの圧倒的で静かな惨禍を前に、なす術がなかった。まろやかな寝顔とは対照的な、この激しい怒りに似た悲しみを当てられた腹の有り様を見てみれば、依然として包帯が滲むほどの血液混じりの浸出液を滲ませていた。

 綱手様の治療によりどうにか種々の内臓からの大きな出血は止まったものの、今後も膠着なく完治できるかは昏睡状態のまま七日経過した今でもまだわからないらしい。それもそうだ。身体の前面から背後まで、十一字筋の筋の合間を折り目正しく、寸分の狂いもなく一気に縦一文字に切り裂いたのだから。

…いやぁ、次期暗部総隊長様候補ともなると、腹の裂き方まで精悍なこった!大した女を後輩に持ったな、カカシ!

 なんとも物騒な物言いとともに、見舞いに来たカカシの肩をドンと叩いたのが今日の夕方の回診のことだった。綱手なりの景気付けとnameへの最大の敬意の表であることはあきらかだ。カカシは今回ばかりは強く叩かれた肩から、重苦しい何かが幾分落ちて、少し気分が軽くなった気がした。

 こんな形で前倒しとなってしまったnameとの数年ぶりの再会は、処置後に入院着を着せられる直前の彼女だった。傷の保護はもちろん、そのための皮膚の固定の意図もあってか、腹から胸元まですっぽりと包帯で巻かれ、身体中管に繋がれていた。記憶を辿りながら、数日前まで死にかけていた上に今まさに悲しい追憶に泣き濡れているであろう後輩の寝姿に、倒錯的な美しさを感じて、一瞬うっそりと見惚れてしまった自分の歪さを𠮟咤した。

 カカシは漸く回想を終え、夜空からnameへと視線を移した。曲線を描くのがわかるほど長い睫毛と大きな瞳を覆うための端正な骨格が眼元に影を作り、対照的にまろやかな額と細い顎は月明かりに照らされ光を帯びていた。この病床までの経緯も相まって、まるで聖像に命が宿り眠っているような神々しささえ感じられた。

…いつの間にか身体ばっか成長しちゃって、寝てるときじゃなきゃ泣くこともできないのに。

「生意気に腹なんて裂くんじゃないよ、バカ」

 どんな言葉や何度息を吐いても、無力感が気道までせり上げるように埋め尽くした。深い呼吸がしたくて、今一度満天の空を見上げれば、またひとすじ星が流れた。
 ああ、せめて旧知の人間だけでもオレより早く死ぬことなどなくなりますように。そんな願いを込めても、現実はどうしようもなく変わらない。こんな願いに溢れる夜でも、雰囲気に酔えるはずもないことは痛いほど分かっているのに、今夜はそう願わずにはいられなかった。

 今しがた陳腐な八つ当たりの文句を当てつけたnameの頬には、もう伝うものはなにもなかった。nameの安定した睡眠を見計らうように、俺には何ができるというのだろうと、いつもの底無しの自問へと一気に思考が切り崩れ始めた。
 流れ星に誘われて、久々に自慰的な様相を呈した冷たい滴が自らの頬を伝うのを感じた。

 今晩はいつもより少しだけ長く、俺にこの夜の暗がりを残してください。そしてできるなら、どうか一つでも多く願いをかける星を流してみせてください、神様。

 柄にもなく願いに手を伸ばすくらい、夏の夜明けの早さは俺を心許無くさせていた。





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