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Novel - Hanno | Kerry

3




 まだ薄く漂っていた隣にあった気配。冷たく降り注ぐ雨粒によってちょうどかき消されたのを感じる。ほのかな体温と、最愛の弟の気配──百分の一が千分の一となり、そして今、ゼロになった。

 ゆったりと時間が流れたような気がするほど、たった数秒のことであっても弟に関することならば、俺はまだ心を奪われることができたらしい。しかし、周辺を気にするために神経を研ぎ澄ます必要もなくなったことを、頭痛と肋骨と肺を削ぐような痛みが思い出させた。それはまるで灼けるようで、さながら痛みより熱いという感覚が近い。だから今、このひんやりとした雨は俺に心地よさすら感じさせるのだ。

 汚された倫理を血で洗い、残った血は再び血で洗い流すことを正義と定義されたこの人生で、依然として痛いだの涼しいだのと悠長に考えている自分の獣性にほとほと呆れ返り、せり上がってきた嫌悪感は嗤笑として吐露された。とはいえ、嗤笑もままならぬほど、どの臓器からのものかはもう分からないが、この喉には血液がずいぶんと溜まってしまった。一度咳払いをしなければ気道がふさがれてしまうのも時間の問題のようだ。
 それにしても人間とはなんと愚かなことか。このように今わの際にひとたび立たされてしまえば、肩書など無力にも平等に動物的な思考や反応を抑えることすらままならぬのに。名家の出身であるか否か、天才だとか、いっぱしに他者の値踏みだけは惜しげもなく披露し、その審美眼とやらが招いた結果がこの有り様だ。

 そうだ。例えばその天才と定義された動物がたった今できたことと言えば、最愛の肉親に、サスケに、あの日あの小さかった身体に一身に憎しみを背負わせ、この地獄を生きることを強いたことくらいだ。そして、サスケはオレに応えるがごとく──いや、たった一人茨の道を歩き、強くなっていた。

 だから、先ほどの刺し合いでも想定より少々立っていられる時間が短くなってしまったが誤差の範囲内だろう。もう俺がこの世に、この里に、サスケに、してやれることも遺してやれるものも、もう何も無いのだから。
 先刻、俺の横に大人しく倒れこんだということは身体の激しい摩耗もあるだろうが、アイツが自身の目的の達成を認識したとの証と考えて差し支えないはずだ。


 目まぐるしく、それでいて身体の状態を考えれば不気味なほどはっきりと逡巡する思考をはたりと断つように、あまりにも無防備すぎる強い気配がすぐ近くまで到達していることに漸く気がついた。

 こんな時までなんとも素早い奴だが、なんて心もとない、いや、ぞんざいな足音だ。この最重要任務をたった一人遂げようとするお前が、あの日幼くも迷いのない目でこの危険な任に俺と添うと決断したお前が、そんなに脆い女であるはずがない、そうだろう、ユリ。

「ユリ……」
「イタチ……分かるの?」

 慟哭の声色を滲ませたユリの影が、どうやら俺の双眸に落ちてきたらしい。僅かながらまだ俺の両の目は光をとらえているようだが、もう二度とこの世界のどの色も映さないことを理解するには十分な状況だ。
 あの澄んだ色の大きな瞳も、やわらかに艶をたたえる髪も、もうこの瞳に入れることはできないのだ。

「暗部の極秘任務を担う忍が、そんなに無防備にチャクラを出すな……気づかれたら、お前も、抜け忍に……」
「別にそんなんじゃない。でも、私ももう頑張ったでしょう?イタチほどではない、けど……だから、自分にご褒美をあげても、いいでしょ」

 あの日、俺は過去にもう一寸だけ自分の獣性を捨てられなかったことがあった。この女を、ユリを、手放せなかった。火影命令の任務だからと、ダンゾウと火影の間での取引だからと、もしくは、孤児同然だったユリを当時タカ派として急拡大するダンゾウという男から守るために、と。内外戦の両方の危機の高かった当時、いくらでも正当な理由はあげつらうことができた。正当性は焦燥感にかられる俺の心を巧妙に誘い、そして意思を固めさせた。

 いや、詭弁だった。そう、思い込みたかったのだ。ただ、心を既に置いてしまっていた。あの状況で。必ずこの日が来ると、傷つけると分かっていたのに。人の道を真に考えたのならば、忍としても一人の男としても、この任を力尽くにでも反故にさせなかった俺は外道そのものでしかない。業を重ね続け、最後は卑しくも自分を愛した女に自分を殺させ、きっと後を追わせる。
 こんな血みどろに支えられた平和とはどのくらい続くのだろうか。サスケが伴侶を見つけ、子を成すまでせめて保たれるのだろうか。

 こうしているうちにも俺の頭の中は己の欲に満たされるのか──つくづく、穢らわしい。

「おまえは……任務報告があるだろう、はやく死亡確認と遺体回収の作業に入れ。何も躊躇することはない」
「分かってる……」
「……泣くな」
「イタチだって……泣いてるじゃない」

 ユリにこんな苦しげな呼吸を強いているのは俺だというのに。せめても、今俺が背負える業をすべて負い、さらに重ねることしかできない俺のことをどうか許してほしい。

「──考え直せ。おまえはまだ若い。今度はこんな結末を与えない人に、ユリなら必ず出会える」

 死を前にして、無様にもうそぶく俺を許してほしい。許してくれるのなら、どうか未来を。
一度はお前といつか見たいと願った、未来を──

 業を認識し、その醜さに圧倒され、疎み、嫌悪しながらもそれを重ねることしか、俺の人生には許されないようだ。それでもこれは諦観ではない。受容だ。俺がユリに最後にできることは、コイツの底なしの孤独を断つ理由になってやること、くらいだ。
 もう俺には時間がない。自分の身体が少しずつ、しかし確実にその機能を失いつつある。既に痛みも苦しみも、混沌とした願いと欲望の渦の中に沈んでしまっていた。遠のく意識の中でまでお前が寄り添ってくれるようで、過分なひと時だ。

「愛してる」

 いつもの逢瀬の別れ際に聞いた、凛とした響きのそれではないが、確かに俺の耳に暖かく滲む声が響いた。
 もう俺は小指の先ですら動かせないようだ。最後にお前に触れたくても、それが罪人には奢侈であるように、背負いすぎた業が身の丈にあっていないことを運命が俺にいさめる様に、瞼の縁でさえも……もう、動かないんだ。
 それでも、俺も愛してるいると、声にならない声でそう呟いた。

 降りしきる雨の中、頬を伝う暖かな雫と唇の感覚だけが俺たちを繋いで、そして、離した。




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