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Novel - Hanno | Kerry

1





 しんとした薄墨色の空の下、背を預けた木の幹から自分の速くなった心音が跳ね返ってくる。
この空によくなじむ色の雨に濡れたこの装束が体温を奪って、私が任務中に意識が思考を放棄しようとすることを許さない。
 すっかり付け慣れた面の裏で、解放のため息をついた。

「やっと、自由になれるんだね…。」

 私を乗せていた湿った枝を踏み込むと、ぐにゃりとわずかに足元が歪んだように感じたのは、枝が水分を含んでいたからだろうか、枯れていたはずの悲しみが自分の理性より嵩高く残っていたのかはわからなかった。

 煌々と輝く太陽のように光を纏い、歩んできた茨の道を暗示するかのような漆黒の貼りつくような炎の中で、命を燃やして今日もまた孤高の愛を実行するあなたをぼんやりと眺めるのも今日が最後。走馬灯のように、過ごした日々が脳裏をよぎる──

 あの日、彼の任務遂行と同時に彼の監視と活動のほう助を言い渡された。任務の秘匿性から潜伏任務に何重にも保険がかけられることは珍しくはない。まだ幼かった私の選任に反対する者もいたが、暗部内でも幼さ故にまだ親しい知人が少なかった私は、体のいい人材と判断されたようだった。



*****



 いつもより遅い招集時間に疑問と心もとなさを直感で感じながらも、任務に決まった型があったらずいぶんとありがたいものだと皮肉交じりに迷いを押し込めた。装備を整え更衣室を出ると、突然耳に聞きなれた声が差し込まれ、思わず振り返る。

「!……どうしたの、イタチ」
「時間がないんだ、お前なら必ずやこの情報を理解できる。手短に済ます。こっちへこい」

 いつも仄かに胸のどこかで妬いてしまうほど美しく深い漆黒の瞳。華やかな鼻梁をまたいで浮かべているのを確認するより早く、最初で最後のあなたの切迫した表情を、できるだけ抑えるかの如くこわばった形のいい薄い唇と、相変わらずの歳不相応な冷静な物言いのアンバランスさに神経が引き戻され、少しずつ自分の中の焦燥感の答え合わせがされようとしているのを感じた。
 近ごろ力強くなった気のする手に引かれ、焼けるような夕日の影の中で、彼の紡いだ内容に、私は絶句し、立ち尽くした。

「わかった……でも私はあなたから、イタチから離れたりしない。したくないから。私が決めたことだから」
「ならば…今夜再び落ち合おう」

 乾ききった喉を今一度注意深く嚥下し、会話としてなんとか成立する応答めいた言葉と自分の思いをひとひら吐き出すことに苦心していると、瞬身の煙が立ち込めた。その隙間から一瞬垣間見た表情は先ほどの見る影もなく、何の温もりも冷たさも感じず求めもしない、途方もない孤独をその瞳に湛えていた。
 生ぬるい夕方の風が頬をすり抜け、全身の感覚がイタチを捉えることから自分に返ってくると、指先が体温を失っていることに気が付く。まだ任務前だというのに太ももの付け根に力が入らない。額のあたりがぼやけ、呼吸をするたび喉がつかえるほどに渇き、鼻腔の奥がつんとするけれど、瞳から想定していた水分が流れることはなかった。

 嫌だと、なぜあなたがと、泣き叫びたい。寂しいと伝えたい。それでも、今夜から彼がたった一人で立ち向かい続ける痛みの器量は計り知れるはずもなく、彼にしか受けることさえ許されない。
 痛みというにはあまりに単純で浅はかなそれに思いを馳せたいのならば、そんな物言いは監視者といえば尤もらしいが、傍観者の自分に対しては到底、許可などできるはずもなかった。

 受任確認を終え外気を吸いに本部を出ると、道行きの窓にひらひらとカーテンがそよぎ、先刻よりも涼しくなった風を面越しに感じると、小さな子供の笑い声が聞こえた。風にのった素朴な匂いは私を現実に引き戻した。この子の今夜の夕食は焼き魚だろうか。そんなことをぼんやりと考えていたら、ようやくイタチの痛みの象るところが胸を刺し、腹からこみ上げてくる何かを抑えながら、静かに嗚咽した。言葉になるはずもなかった。

 互いに暗部に配属された私たちは、この抑圧と熾烈を極める組織の中で、ひそかに心を開ける数少ない間柄であった。だから、あなたのこの未踏の到達点を私以外の誰にも触れさせたくなかった。見せたくもなかった。彼が悲しみに浸る間さえ与えなかった、彼が彼のために使える時間をたった一瞬でさえ残しておかなかったこの世界への、ささやかな抵抗だった。

 結ばれた夜に瞬く間に引き離された私たちは、昇りくる日の影の中で、季節に合わず、極度の緊張に震えることすらなく冷えきった手を離した。泣きはらした視線を交えて。


*****



 薄墨色の空と同じ色の荒野となった岩々を蹴り、サスケ君が暁に運び出されたのを確認し、視界に次第に鮮やかな赤が広がるのが分かる。まるで薄墨の絵の中の紅墨のようで、この世界の誇り高い主役は本当は誰なのかを示すようで、美しい場所だと思った。早く傍でその美しさを目に焼き付けなければ、そう思うと急いだ。

──もう彼は、私のことはきっと見えないだろうから、私しかこの美しい空間を記憶しておけないのだから。

「name……なの…か」
「──っイタチ!!分かるの?」

 今度は泣き崩れていいだろうか。雨に濡れた冷たいコンクリートに本能に任せて膝をつき、隣に寄り添った──イタチは生きていた。
 しかし、この出血だともう長くはない。これまで薬の受け渡し内容を考えるならなおさら。雨で一面に広がった赤い水たまりをかき集め、削れた命をこの腕の中に掻き集めるようにイタチを抱きしめた。今は血液の一滴でさえ彼が恋しかった。
 予測はしていたが、最後に顔を合わせた時よりさらに痩せていた。もともと華奢なはずだったのに、どれほどの犠牲を払ってきたのだろうかと胸をかきむしりたくなるほど苦しくなった。

 自分が感傷にひたるためにイタチの犠牲を考えることを禁じていたが、もうその必要もないのだ──

「暗部の忍がそんなにチャクラを無防備に出して、誰かに気づかれたらどうするんだ。お前も抜け忍に…」
「別にそんなんじゃない。私ももう頑張ったでしょう。イタチほどではないけど」

 まるで初夏に瑞々しく茂る若草の上で、昼食を広げて談笑する男女のように私たちは軽快に笑いあった。やっと、この日を迎えられることができたんだ。超S級長期任務の最年少達成記録。晴れやかな気持ちになるのも妥当であろう。里は一つの殺戮危機から守られたのだ。少しの間、自分の幸せを追求しても許されるような気がした。

「おまえは任務報告があるだろう、はやく死亡確認と遺体回収の作業に入れ。何も躊躇することはない。」
「そんなこと、分かってる…」
「っ……泣くな」

 瞬きさえ忘れて、今役目を終えようとしている双眸から、ひとつまたひとつと滴がせり上がっては溢れては痩けた頬を伝った。

「イタチだって……泣いてるじゃない。」
「…考え直せ。おまえはまだ若い。今度はこんな結末を与えない男に…nameなら必ず出会える。」
「イタチじゃなきゃ…っ…誰が私の痛みを、誰が痛みのまま抱きしめてくれるの?」

 恒久の別れの鎌が喉元にむけられた今、みるみるうちにnameの心持はどの感情も象れないほどに滲んでゆく。

「おい……いつから、そんな駄々を捏ねるようになったんだ」
「もう、黙ってよ…許してよ…痛みも悲しみも、もう一人で背負えたって、背負いたくなんかないよ…!」
「……」
「イタチだって……まだこんな死に方していい年じゃないじゃない!っ……私が決めたことって、あの日言ったでしょ、任務の結末としてもそのほうが自然だよ。」
「今の、俺には…受け入れる時間しかないようだな。」

 沈黙の中でイタチのいつもより早い呼吸が、nameの心に惜別の現実をまざまざと叩きつけた。

「ねえ……」
「……なんだ」
「っ、愛してる」

 イタチはわずかに口角を上げ、nameの方に頭を傾けるように努めた。nameは、ようやく泣いてくれたあなたの頬に触れると、もう何度目かわからない焼けそうなほどの嗚咽をこらえて、返事も疎かに口づけた。
 まだほんのり温もりを感じながら、イタチの背負ってきたものを最後の一瞬だけでも一つでも私に分けてくれるように──そして、彼はもう光を写すことのない瞳を、静かに閉じた。

 私は長くなった髪を払いながら背刀に手を伸ばし、あの日まだ少年だった彼の背負った痛みを今なら少しは理解できる気がした。

 するりと背刀を抜くと、雲の隙間からわずかに細い光が差してきており、きらきらと背刀を反射し、私たちを照らした。まるで、暖かい解放を暗示するように。



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