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Novel - Hanno | Kerry

16





 nameの自宅玄関から、扉の外の共用通路へとカカシの影がすべて引き出された。
 視線を上げて上背の背中に会釈をすると、程なくして扉の閉まる音が手狭な玄関の四つ隅を叩いた。視覚からの情報が遮られれると、否応にも重たくもたげる記憶へと、意識は簡単に傾き始めた。

 何度も何度も、こうして後ろ姿を伝う影まで見送った。黒い外套に一切の感情を包み隠した、無機質に直線を模る影をなぞった。
 再びnameの間近まで隙間なく静寂が堆積しはじめた。息苦しさの残る廊下から足早に自室へと踵を返した。


 想定外のタイミングではあったものの、突然自宅に現れた元上司の存在は、name自身が思うより冷静さを取り戻す助けとなっていた。

 その証として、カカシが部屋を出たいま、氷塊のように凝固していた思い出がとくとくと溶けてはnameの胸の内で広がり始めていた。
 打ち砕かれた思い出は、こうしているうちにも窮屈に抑え込もうとする理性から逃れたがって逡巡を憚らない。思い出だったはずの破片は、思考の激しい奔流の中で研磨されてゆき、鋭利さを増して無機質な記憶となってnameを胸の内側から薄く裂くのだった。



 ……今朝、あの日の夢を見た。一切の逃避を許さない極彩色の光景、崩壊の色。イ夕チの容態の一切を知ることとなった、あの日の夢────

 目覚めのnameの頬と胸中には、まだ裂かれるような悲しみが、名残惜しむように細く伝う。それでも、今朝の目覚めは悪くなかった。薄い意識の中で幻影の兆しが緩く漂っていたからだ。

 イ夕チに触れられた温かい余韻と同時に、移り変わる場面はどれも大切に選別された断片だけで組まれたコラージュめいて、整然としているようでどこかアンバランスだった。
 以前と比べれば、身体を貫くような類の悲しみも、起きがけのnameの身体に良く馴染むようになっていた。だから漸く自分の心身もこの別れの尽痛を受け入れ始めた、そう思っていた。

 この部屋で、以前のように髪を梳いて、顔を洗い、食事をとろうとしていた。外へ出かければ、街の色も風の匂いも、切ないほどに再び感じ取れていたのに。確認するように今日過ごした道のりに沿っては思考を反復する。nameが幾度記憶をなぞれど、崩壊のトリガーは些細にも満たない小さいものだった。

 ぬるい湯に、一瞬冷水が紛れた。ただそれだけのことが、心の底で膨大な感情の澱を抑えていた堰を容易く壊して、再びnameを呑み込んだ。

 上体から被った血の暖かさ、一方で切ないほど冷え切っていた血の気の引いた指先、
 まだ感じていたかった息遣い、そこにあった体温、自分の胸中に差し込む灼けるような焦燥、その全てを、呼吸も忘れて縋りつくように追っていた。そこへ追い込むように兆した、最後の肉体の感覚。
 骨を絶った感触、血の匂い、最後のキス、失われゆく体温、凄まじい速度で繰り返し再生される記憶から逃げ帰れるはずなどなかった。
 現にこうして苛むようになだれたとしても、崩壊の記憶さえ宝物のように感じられた。



 斜陽に冷えてゆくこの部屋で、nameの瞳の奥だけが熱を帯び始めていた。

 薄暗い部屋の中で、投げやりにベッドへと身体を横たえた。顔にかかった自分の髪越しに、落ちかけた夕焼けと夜のあわいが滲んでいる。nameの中で過去に傾きかけていた思考は、すでに追憶を貪っていた。


 注意深く瞼を閉じれば、まだ鮮やかなまま焼き付けられたあの日。ついに痛みを喰らい尽くせなくなって、私の身体に血液の一切を吐き出したまま、崩れるように臥したあの日。

 酷薄な運命の鎖を、私はあの日も千切れなかった。だからせめても引き離されまいと、その鎖の重さだけでも分け合いたかった。

「こんなことを…一人で、たった一人で越えていかないでよ」

 独り言ちて空を切る言葉に、どんな色も冷たさも暖かさも、点しようもない。

 nameの中で溶け合わず濁った感情の澱は、さらに腐敗していくようだった。
 あとはただ無抵抗に、この汚濁した沼に泥んでゆく。こんな纏わりつくように硬い沼から肉体を救い上げられても、心持ちの大部分はどこか深く閉ざされた場所に置き去りのままだった。

 悲しみを背負うこと、それ自体は思うより簡単なことだ。

 そこに並列される他愛ない記憶が今はnameを掴んで離さない。柔らかな笑み、穏やかな声色、時折たった一瞬溢す憂いの表情、全ては今やnameの中では聖像のように清廉としていた。
 それを自分のちっぽけな痛みを洗い流すためだけに、利己的に捻じ曲げて整列して再生するようで、たまらなく厭わしい。イ夕チがその身を捧げた遺志も痛みをも穢してしまうようで膨大な嫌悪がせり上がる。

 濁流のままで閉ざされたnameの心持ちの内で、思い出は薄く磨がれていて、記憶は剃刀のように鋭く柔らかい記憶から裂くのだった。引き裂かれた心持ちからは、だらしなく嗚咽が漏らされる。誰のための涙かも掴めないまま垂れ流される感情に、薄ら笑いさえこみ上げてくる。

 考えたくないのでも、思い出したくないのでもない。忘れたくないだけだった。はらはらと鼻梁からこめかみに向けて涙が伝おうとすると、断ち切るように乱暴に拭った。


 そういえば、私は昼間に出かけた格好のままだった。このまま部屋にいて体だけ休めていても、きっと好きなように悲しみを貪っては分かりきった嫌悪を重ねるだけだ。
 そうだ、復帰に向けて新しい忍術書でも見に行こうかな。外の空気でも吸えば、頭も冷えるはず。

 窓から吹き込む肌寒い風が、今は少し心地良い。街灯が灯って、空は藍色を深めていた。





 宿舎を出て、夕食時の目抜き通りにゆく。
 行き交う人々は穏かな様子だが、よく見ればだれもが顔いっぱいに感情を湛えている。それを彩るように重ねられる食べ物の匂い、電灯の明滅、街を行き交う明朗な足音────今まで自分の身のまわりに充満していた生の実感とは対極のような空気。前から変わらず、ここにあったはずなのに、そこに思い至ることも忘れていた。

 あの人が守ったこの街は、今もこうして暖かい色と音に包まれている。そう伝えたくなると、存在しない影をまた追っていた。じんと胸の奥が焦げ付いて瞳の裏に再び熱が滲んだ。

「あーーっ!nameさんじゃないですか!もう大丈夫なんですか?」
「こーら、サクラ。綱手様に言われたこと忘れたの?外では」
「はいはい!気を付けますー。でも、まだ何にも言ってないじゃないですか」

 唐突に甲高い声で自分の名前が両耳に差し込まれて、慣れない事態に心臓が跳ねた。次いだ聞き慣れた声に、思わず肩を竦ませた。


 カカシさんにはもう隠せることもないけど、自分より歳下の女の子の前で、子供のように泣き喚いて取り乱した、その後処理をきっとまるっきりさせてしまった。それにそのまま倒れたあの日以来、まともに礼も言えずにそれっきりだ。場を改めるまでやり過ごそうともよぎったが、カカシさんにも気付かれている。そんなことを考えてるうちに白い華奢な手が私の手首を掴んでいた。翡翠色の瞳がきらきらと輝いている。

「えーっと、春野サクラ、さん?……あの」
「うわーっ!起きてるところちゃんとみるの初めて」
「は?……え、あの、この前は」
「間近で見ると本当に可愛い……お人形さんみたいって言われません?綺麗な目ですね!いや、目だけじゃないですけど。スタイルもいいし、こんな美人さんが隊長さんなんですよね?」
「えーっと」
「こーら、サクラ!」
「サクラちゃん、この人、だれだってばよ?カカシ先生も知ってるのか?」
「もー、ナルトったら!ほら、挨拶くらいしなさいよー!」
「よろしく!俺ってば」
「だから、挨拶!ちょっとナルト、ホント馴れ馴れしいわね、あんた!」

 ……この子は、あの四代目様の一人息子さん、だったよね。確かに御写真と似ているかも。

「あのー、サクラ?俺の話聞いてる?name、困ってるみたいだけど」
「あ、いえ、大丈夫です。その……私はただ」
「わ、私ったらごめんなさい!ずっとnameさんとお話ししてみたくて!」
「可愛いのは、サクラさんのほうですよ。素敵です」

 任務のための速い言いまわしとはまた少し違う、もっと明るくて溌剌とした響きのある口調。私は今のところ上手く二の句を継げていないれど、私の中で停滞していた何かが、少し動き出すような気がした。

「……サクラ。お前、やるじゃない」
「はぁ?カカシ先生ったら、急に何言い出すの?ニヤニヤしちゃって。うわぁ……」
「あのね、俺はnameがガキの頃からこいつ上司だったの。言いがかりは」
「やーね、カカシ先生。nameさんが可愛いからって、変な気起こさないでくださいよー!」
「あーあ。年頃の女の子ってのは、なんでこうも喋り続けるかねえ、どーも」

 こんなふうに手放しに笑ったのは何ヶ月ぶりだっただろうか。明るい雰囲気にすっかりあてられてしまっていた。迷惑をかけた人の前にも関わらず、柄にもなく気がつくと口元が綻んでいた。さっと脳裏に焦りが思い浮かんで、口をつぐんだ。

「あの、この前はご迷惑おかけしてしまって……その、お見苦しいところを」
「えっ、いえ!任務で大怪我して帰ってきた方を処置するのは、医療忍者として当然のことですから!って、そんな顔しないでくださいよー、ね?」
「本当に……すみませんでした」
「そんな、あんな傷を追って帰還したnameさんが謝るようなことなんて……!」

 nameの笑みにつられて綻んだのも束の間、じくじくとした疼痛が走ったのは、カカシの胸中だった。今まさに自分の目の前で久しく見た、少女の面影を宿したnameの朗らかな笑みはあっけなく奪われた。見えた焦燥感と、何かに追い立てられるような詫びの言葉が苦く広がった。今nameはサクラに詫びたが、きっとその言葉の淵には数えきれないほどの悔恨が滲んでいたに違いない。

「まーまー、立ち話はこれくらいにして、そろそろ飯、行くぞー!俺、お腹すいちゃったなぁ」
「そーだってばよ!行こーぜ、サクラちゃん!」
「name、お前も食べられそうなら来れば?」
「そうですよ!せっかくだし、一緒にご飯食べませんか?私、本当にずーっと喋ってみたかったんです!」
「でも……皆さんで食べに行くところに、私が居ると」
「そんなこと言うなってばよー!行こうぜ、サイも到着するころだってばよ!」
「あ、あとサクラ、分かってると思うけど、コイツの所属は任務に関わることは一切喋れない決まりだから」
「わかってますってー!綱手様にたっぷり怒られましたから!」
「name、ま、そういうわけだから。こいつら言い出したら聞かないから、諦めてちょーだい」
「はあ……お、お邪魔します」


 予測より容易にnameの参加を引き出すことに成功すると、俺の思いは晴れやかだった。あんな極限の任務には飄々と出かけたと思えば死にかけて帰ってくるのに、こんな何気ない誘いには肩をすくめて怯む。そんなnameの姿が滑稽でいて切なくて、俺の庇護欲と言うのもちゃちな何かが少し満たされた気がした。実のところナルトとサクラが上手く巻き込んでくれたんだけど。今夜は騒がしくなりそうだ。





 

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