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Novel - Hanno | Kerry

少年の日が終わり、少女の日が終わった日





 夏の駐車場は絶好の休憩スポットだ。残暑に差し掛かったうだるような外気を隔てる涼しい空気が肌を滑る。ベンチ代わりの柱や縁石が冷たくて心地がいい。コンクリート造りの日陰、同じような景色が繰り返す、そんなこの無機質な空間が与えてくれる空っぽな時間が好きだ。


 束の間のひと時に、音もなく白髪の男に背後を取られた。
 あの五条家の六眼。先月、硝子さんについてきた男。先週、初めて二人きりの任務を共にした先輩。

 実戦で見せつけられた圧倒的な知識量、高速に処理されていく術式、無茶苦茶な胆力。その全てを守るように覆い隠す軽薄さ。
 生まれを差し引いても雄に持て余す才能のその全てが、瞳孔をこじ開けるように悔しいほど眩しい。

「うーわ、五条さんだ」
「おーい、一年〜?この俺に向かって随分強気な目つきじゃん」
「で、何の用ですか」
「硝子が昼休み入るとまずはお前、ここに来るって言ってたから」
「は?相変わらずチャラいですねー」
「そんなモン吸ってるお口で、何言ってんのかなー」

 長身を折りながらサングラスを外して隣の縁石に腰掛ける。相変わらず無遠慮に間合いを詰めてくる。咎めようと口を開きかけると、長い指が私の浮腫んだ頬をつねった。

 この手は、あの日見た以外にあとどれくらいの術式を知っているのだろう。こちらを覗いて悪戯っぽく笑う宝石みたいな目元や、形良く上がる口角は、どれほどの人の目を奪うのだろう。全部、全部私にはない。

 羨望と尊敬が混ぜこぜになって重く凝って、自分のやる瀬なさに沈みかける。口元から転げ落ちそうになったタバコを左手の人差し指と中指で掴み直した。肺いっぱいに白い煙を吸い込むと、鼻腔に抜けるタールが燃えた匂いが心地いい。縁石にたたいた灰がはらはらと落ちた。

 向き直れば、淡く燻る煙越しに白髪が午後の熟れた風にそよぐ。前髪から覗く碧眼が、私の瞳を執拗に捕らえた。

「てかさー、お前最近吸いすぎでしょ。何で吸うかなー。まずくね?」
「……落ち着くから、吸ってます」

 私の瞳を染めた蒼が、仄かに揺れた。しまった、読まれたくない。施しなんていらない。

「こんなもんで、どうにもなんなんでしょ。お前ん中の」
「うーわ、後輩が弱った隙に漬け込む気ですか?サイテー」
「はー、マジで可愛くねえ!」
「硝子先輩に頼まれたんですか?そういうことなら、私は要らな──!」

 指の間をタバコがすり抜けた。逃げようもなく唇に現実の感触が柔らかに触れる。目前を占めたのは、高い鼻梁を挟む艶やかな睫毛。対して、私は今どんな顔をしているかなんて、これ以上思考を進めない方がきっと良い。
 タバコ、まだ吸いきってないのに、なんて情けないほどベタな文句が思考を覆う。羞恥と憂鬱をなけなしの悔しさで上書いた。
 
「おかえり」
「っ、ムカつく……!」
「やっぱウソ。お前、かわいー」
「この状況で、やることですか」
「そんな顔で言っても説得力ないよー?」
「っ、最低……!」
「……よく、帰ってきた」

 上の空に、僅かに鼓膜で掠れた語頭の音をなぞり返していると、たちまち視界が制服の濃紺色に覆われた。ぎっちりと固められた上体に蒸し暑さが立ち込める。ただでさえ暑いのに、そう抵抗を試みる私の肌に、冷ややかに流れ落ちたのは、頬に伝う涙だった。
 水を得たイワヒバのように、途端に凝固していた感情の色が芽吹くように、その色を吹き返すのがわかる。次いで五感が巡ると、ぽたぽたとまた雫が滴った。

 硬い腕を密かに視界をくぐらせれば、閉じられた双眸の上で、白い睫毛が濡れていた。いまは瞼も口元も、先程の彩りはどこにも無い。

「せ、んぱ……?」

 かちりと合った青く見開かれた瞳は貴石めいて、私の腫れた瞳が映っていた。それも束の間、再びすっぽりと頭を胸に埋める形になった。

 先週、先輩は友を手放して、今週、私は友を貫いた。

 無尽蔵に広がる晩夏の青空は鮮やかだ。褪色した思い出ばかりを食み、灰色の隙間に置き去りにされたままの私たち。舌を絡める水温だけが響いて、呼吸だけになった悲しみを啜り合う。


 少年の日が終わり、少女の日が終わった日。ふたり、影に沈み、溶け合った。







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