レジーム
午前4時、睡眠を妨害するのには充分すぎる音が不快にドアを揺らした。夏の早朝、少し温度の低いフローリング。沸き立つ苛立ちの一つずつを踏みつけて、ドアに手をかけた。
想定よりも早くギィという音が鳴る。立ち上がりきらない意識にぼやける頭を上げて、後悔した。
「……は?…いくら五条にしたって、趣味が悪すぎんだろ」
別にそれが任務で受けるような許容を超えるようなグロテスクさがあったわけでも、級友と後輩の色恋を連想させたからでもない。
それでもただ、明け方に起こされた腹いせを吐きつけるよりも先に、目の前の光景に息が詰まった。首筋についた赤色も、鎖骨に残る錆色の咬創もきっと、見間違いではない。
たった一枚のブランケットに包まれて、五条の腕の中でぐったりとするのは、紛れもなく目をかけてきた後輩でもあり、この男の恋人でもあるはずのnameだった。
平静を張り付けた言葉の先を見れば、碧い瞳が焦燥にぐらぐらと揺れていて、まだ獣性の残渣が残したままで、それでいて呆然としている。薄暗い部屋に、掠れた声が低く響く。
「しょーこ、助けて……?」
五条がnameに目をかけてから、あからさまに態度を変えて躍起になる五条を、夏油と嘲るのが近頃の日課だ。
ふいに、nameが昼休みにいつもの”相談”を持ちかけて来た時の横顔が脳裏に浮かんだ。
いつも天真爛漫に笑っていた後輩も、恋をしてはにかむようになった。そう思うと、私の任務前のささくれた心が少しばかり解けたところだった。
泡沫に浮かび上がる記憶は、また別の記憶を呼び起こす。忘れていたはずなのに、いやに鮮やかに、そして記憶の隅から内側まで精細さを増して、脳裏に染みわたって塗りあげた。
残りは夜に任務があるからまた今度、と伝えると「いつもすみません」と申し訳なさそうに微笑んでいた。
術師になる高専で、多少の傷がつくのは日常茶飯事のこと。だから、その輪郭の少し下の首元の傷跡に、ミルクティーのボトルを受け取った手首の影に、相談を持ちかけながらもどこか核心を避けるような言及に、共同浴場から足が遠のいていることに、少しも疑問を持たなかった。
五条がnameと懇意な男子を聞いてきたことも、たまたま見えた携帯のメモ帳にあった男子だけの名簿も、たまに脈略無く見せる夏油への牽制も、部屋に人を招き入れなくなったことも、唯一出入りのあるnameがやつれたことも”レンアイだから”とタカをくくっていた。
思い起こされたnameの表情が、言葉の端に滲んだ色が、点となり線となる。それを手繰り寄せるうちに、動揺が冷たく背を伝った。ぐいと凄まじい力が左腕にかかって引き戻される。
「今日は、どう起こしてもだめで…っ、息はあるのに、どうして……」
「っ、おーおー、この状況で言うことはそれだけか?クズが」
「診てくれって!今す!……なあっ、頼むから──!」
深い溜息のまま下顎でベッドを指すと、今までになく不安定な青い瞳が私の様子など気にも留めずに、ずかずかと床を鳴らしてnameを横たえた。するするとタオルケットが眠ったままの身体をなぞって、あらわになった腰元の肌の色に絶句した。
今日も見た、ピンクコーラルのチークがよくなじむ柔らかな様子はどこにもない。
「身体……見るから。全部、お前のせい」
「分かったから、早くしてくれって」
「金輪際、nameにバカみたいに八つ当たりするなよ……!」
「そんな事するわけ!……ッ」
疑惑が確証に変わるだけだ。自分にそう言い聞かせながら縋る五条の腕を制して、ブランケットを捲った。目の前の焦燥に身を焦がす五条を鼻で笑ってみても、指先まで竦んで震えかけた。
この滑らかな肌が誰のものかを示すには、あまりにも過剰で執拗だ。不気味な赤色だけが、いくつも鋭くnameの上で色づいている。先ほど見えた痕など、一部に過ぎなかったのだ。
「……ごめん、じゃ、すまない」
「大丈夫って…言えよ」
「あーー、少しは黙ってろって!……外出ててくれない?邪魔」
「無理!嫌だ……」
血の気の引いたnameの手首をとって、自ら招いたはずの事態に狼狽しきる顔にきつく背を向けた。脈も血圧も弱い。どんな抱き方をしてきたかなんて想像もしたくなかったけど、きっと普通じゃないことは脈なんて見なくても明らかだった。
性器の損傷がないか確かめようと、nameの両脚に触れる。
「おい、それは……!」
「お前、容態急変したらどうすんの?ここまでバカだったとは知らねーな」
「クソっ……」
緊張に瞼の縁を硬直させたまま碧眼に一瞥して、ようやく立ちすくみ出した五条にありあわせの言葉を投げつけた。両脚の間にまだ体液が残されて、膣口に僅かに裂傷がある。足首と手首だけについた青紫の痣を確かめたところで、今度こそ気が遠くなって、nameの横にへたり込んだ。
「五条、お前いつから…こんな」
「いつから…?ただ──」
「ほら、言い訳なら聞いてやるよ、クズ」
高専に入学してから、五条悟という男が親友に限りなく自分にとって近しい存在になっても、どこかで苦手だった。いや、率直に言えば恐ろしかったのかもしれない。
背負わされたものと、軽薄さ、完璧な器用さと、たまに任務や術式にも見せる異様な執着。家系や才能といった類の言葉でも、どうも整合性が取れない相反する要素の均衡を保つ根幹がいつまでも見えない。
「……好き、だから」
「あーー、もういい。今日は私は休みだし、このままnameはここで預かるから帰れ。脳貧血ってとこだろうから、今回は大丈夫。だから──」
「は、そう、よかった……よかった。ありがとう、硝子。こんな時間に…」
大丈夫と口にした瞬間、一気に表情の温度を下げてnameの身体に手を伸ばす五条の腕。掴みかかることに躊躇などなかった。それでもあえなく割り込まれて、たちまちnameの身体がこいつの腕の中に収まってしまった。
「今回が偶然大丈夫だっただけで、こんな事繰り返されてたら、nameだって本当に壊れるって!安静に──」
「……じゃあ、硝子が俺の部屋に来るならいいだろ」
「はぁ?めんどくさ……」
「硝子ってさ、イマイチ俺のこと信じてねーもんな」
渇いた笑いと共に文脈を踏みつけるほどの屈託のなさを浮かべながら、あははと軽快に笑う大きな背中を追った。nameをベッドに寝かせてすぐに、朝の任務の打ち合わだとに五条が出かけた後の部屋にはしんしんと静寂が積もっていく。慣れないベッドの大きさも、肌触りのいいシーツに帳消しにされて、再び眠気が総身に広がっていく。
眠ってしまう前に、nameの目が覚めた時に必要そうなものを持って来よう。くっと小さく伸びをして、睡魔に曖昧になったまま踏み込んだ足先を何かが引っかかって阻んだ。
「いっ……やっべ…」
バラバラと足元に広がっていく籠の中に入っていた雑貨たち。スカイブルーのリボンが指の間をすり抜けて、高価そうな白い革の手帳と数多の写真の上に落ち着いた。ドクドクと鼓動が警鐘めいて速度を上げていく。
ナンバリングが施された写真に写る、私の知らないnameの姿。五条の思うままに制圧され、快楽に沈められた姿で写真に収まっている。再び芯を無くすように竦みはじめる右手が、写真の隣で開いた手帳に手を伸ばした。
ページの四隅まで写真が撮られた”理由”が敷き詰められている。動機に対する”罰”がこの写真、ということなのだろう。
「は、さすがにナシ、でしょ…」
呆然として、写真と手帳の間だけを視線が往復していると、本能的に身を固くした。襟ぐりが引かれた次の瞬間には首元が締まって上体が持ち上がる。
「あは、さすがの俺も焦って戻すの忘れちゃった」
「五条……」
「例えお前でも、今すぐ記憶から消しとけよ。嫉妬でどうにかなりそうだから、特に昨日と今日」
「こんなことしなくてもnameはお前を──!」
「俺もいろいろ面倒な立場だから、nameみたいな純粋な子はいつ誰に掠め取られるかわかんねえし、だからって本当に首輪でもつけて縛り付けるのは可哀そう、そうだろ?」
いつになく饒舌な目の前の男は、たちまち右手から握っていた手帳を奪い、床に散乱した写真を白い化粧箱に入れてリボンを丁重に結び直した。貴重品用ロッカーのバスケットにしまうと、何事もなかったかのように任務の支度に入る。
「悟、早くしてくれないかな……硝子?」
「…あ?おー……今行く」
朝日と共に不満げな夏油の声が唐突に空間に差し込んだ。一瞬五条の顔からあらゆる色が消えて、腕時計を確認した後、再びこちらに張り詰めた視線を突き付けてくる。小さく絞られたはずの声が重たく鼓膜にこびりつく。
「いくら硝子でも、口割ったりnameに何か余計なこと吹き込んだら、何するか分かんねえから」
「……しねえわ。面倒くさ」
「nameのこと…悪かったと思ってる」
「本人に言えば?」
「初めて付き合う男が俺だってところがnameの運の尽きだね」
「っ、てめえ…」
細やかな抗議は空を切って、向けられた背中に阻まれた。ベッドへと踵を返して、未だ目覚めないままのnameの隣に横たわった。緊張から解放されたのか、再び身体に広がる眠気に今度こそ身を任せた。
*****
「……しょーこ、先輩?」
聞きなれた声と、午前の日の光がじわじわと意識の隙間に染みて、立ち上げた。nameの目覚めを予感して、胸をなでおろす。
薄目に時計を見れば、既に午前10時を回っていた。けだるい身体を横にすると、まだ疲労の抜けない様子でもパッチリと開かれたアーモンド形の瞳が、こちらを不思議そうに覗いている。
「あー、よかった。気分は?大丈夫?」
「はい……?私…これは」
「ねえ、痛くないの?」
数秒の沈黙の後、全ての意味を悟ったらしいnameの顔がみるみるうちに紅潮して、二の句を継げずに瞳を泳がせている。
「赤くなってる場合かよ……」
「す、みません……色々と」
「いや、私も……五条には私から話を──」
「あ、怒らないであげてください…!好きだから…だから、あの…」
「大丈夫?」
nameが頷くと、入り口の鍵が開く音がする。
「おっはー!イイ子にしてた?」
頭が痛くなるほど能天気な声が響いて、腹の立つほど派手な顔に派手な笑顔を湛えながら、そのままnameに抱きついた。早朝の所業を既に忘れかけたように、抱きしめる武骨な手は華奢な身体をギリギリと締め付けている。この檻はだれにも明け渡さない、そう宣言するようだった。
nameの背中越しに、青い瞳がこちらに向いて、暗く光った。