君を
「悟、ちょっと、そろそろ……」
二人で外出するのは珍しいことじゃない。それでも面倒ごとが大嫌いな私たちは、大体いつも最後の角に差し掛かるところでお互い手を離す。それなのに、この男は絡めた指の付け根をぎちぎちと握って意地悪く口角を吊り上げている。
じりじりと温度を上げて、肌に夏を焼き付けるような真夏の日差し。ビージーエムというにはあまりに騒々しい蝉の音を背後に、正午を迎えた陽光は天高く、あらゆる物体の陰影が取り払われている。
古都の小路に相応しく整列した木々の緑や、透明であるはずの打ち水、この悠然と私を見下ろす憎たらしいほど澄んだ青い瞳まで、フチのない生々しい色たちが白昼の光を享受して、私の瞳には眩しい。
「今更ビビんのかよ。ウケる」
「あのね、冗談言ってる場合?ココは、さすがに──」
「へーへ」
「って、ねえ!」
やる気のない相槌を貼り付けていく間にも、振りほどこうにも私の右手はぐいぐいと悟に引かれていく。あの馬鹿みたいな空間に、馬鹿みたいなタイミングで。
うだるような暑さでただでさえ鈍い思考回路は、いまその動きをとうとう止めようとしている。放棄、というほうがしっくりくるかもしれない。
無理やり自分を急き立てて、なんとか食い下がって、悟の興味をこの企みから逸らしたい。
「ねえ、私は、今日……!着物が!重いの!ちょっと、ゆっくりしてって!」
「あーね」
「男だからって、お母様たちを見ていたら知ってるでしょ?総会で着る着物は夏だって重いって」
「担がれる、歩く、それとも……」
「あーー!その後は言わなくてよし。歩く。歩きますっ……!」
熱い石畳を許される歩幅の中で渾身の力で踏みしめて歩く。悟はニヤニヤといやらしく笑っている。家の人間に見られたら、どんな小言を何時間、何日、何週間言われるか。母さまなんかに出くわしたら、きっとただじゃ済まされない。再び指を解こうとすれば、今度は左手を加勢させて、ほぼ握りしめられた状態に陥ってしまった。この手を今すぐ解きたい。
「お前、いつにもまして今日はうるせーなあ」
いよいよ不服の顔を私の眉間に寄ったシワごと見せつけてやろうとするも、悟は私をするりとかわして、また進行方向を先にとられてしまった。
いやに歩みを速めて、気づけば今年の会場の、五条の家の庭の小石を踏み締めている。
終わった。ぎょっとした使用人の瞳が悟と私を交互に眺める。小奇麗に仕立てられたスーツ、整髪料で整えられた髪、それでも混乱を隠しえないと憚らない表情で、悟の肩に丁重に掌を触れた。
「悟様?あの、これは……?」
「お前もウルセーのかよ。今日マジでダルすぎ」
「……?す、すみません、しかし、これでは向こうのご両親も──!」
大きすぎる舌打ちと、有り余る目力を付き人に叩きつけ、肩に置かれた善意の静止を振り切った。本当に終わった。
何かと急展開をもたらす男ではあるけれど、気味が悪いほど外堀を埋める几帳面さも持ち合わせていたはずなのに。きっとこれから起こることは、良からぬことだ。
ほんの出来心だった。イマドキ珍しい湿気た内輪の会合。御三家総会と言えば尤もらしいが、時間のほとんどが、結局核心を避けて既にある事実を小難しく言い替えただけの有名無実。
特級と冠された私たちは、正直多くが自分の手で治めきれる事ばかり。更にこれに丸々三日間付き合わされるんだからたまったもんじゃない。
できるだけこのくだらぬ儀式から離れていたい、だから、いつも通り悟の誘いに乗っただけなのに。それだけなのに、いくらなんでも今日という日はさすがにまずい。しかも、こんな形で恋人ということを、この世界一面倒でウザったい場でされるなんて──!
ガタンと、強く扉を開く音がやかましく鼓膜に叩きついた。扉の向こうに広がったのは、その場にあった全ての視線だった。
ニヤリとする人、驚く人、見てはいけないものをお互いに見てしまったようで、足元がくらくらと揺れる気がする。
ざわつく声が、自分たちの足下から奥の当主席まで、放射状に大きく広がっていく。その伝播を切り裂くように、悟と私、それぞれを戒める声が場内に響いた。
「悟っ!これはどういうことだ!いくらお前でも……はしたないだろう!nameさんを──」
「name?……あなたって子は!また勝手に抜け出した上に────!」
私の右手はようやく解放されて、ほっと一息落とす心づもりだった。それなのにどうして、いまだに悟は私の両肩をこんなにも頑なに固定しているのか。思考に現状を噛ませかけたところで、ついに思考はすべてを放棄し始めたようだった。
悟に向けて突き刺すような「離しなさい!」という怒号は、きっと悟が子供の頃のお目付け役だった方。普段は冗談ばかり言うおじさまで、これまでなんども遊んでいただいたり、お世話になった方だった。その声に並ぶように、いつもおだやかな母様の怒声が同時に途切れた。突如として、しんとした静けさが場を満たして、たちまち膨張していく。
むに、という効果音がきっと相応しいだろう。この感触は、悟の唇だ。これまた憎たらしいほど柔らかい。同じリップを使ってるのにどうしてなのかなんて、本当に私は思考を放棄してしまったらしい。
だって今、自分は、周りの親戚、知人、恩師は、どんな顔をしてこの気まぐれを見ているのかなんて、想像もしたくないから。
「は〜?どこ家だか知らねえけど、黙ってれば呪詛師と内通してまで、人の恋人横恋慕しようとしてるの、だーーれ!」
「……は?」
「ボク、優しいから言わないでおいてあげる。どこの家だかは……知ってまーす!当たり前だろ、ったく」
自分の口元から鳴るリップ音だけが響いて、耳を塞いでしまいたいけれど、きっとこの男の計略に気付くのには遅すぎたのだ。瞬く間もなく、悟お得意の小馬鹿にしたような声が大きく響いて、信じがたい言葉がキンと鼓膜を裂いた。へなへなと私の身体から力が抜けていく。
「name様……!」という聞きなれた声。私はこの厳粛な場で、とうとう倒れてしまったらしい。
横恋慕とは何なのか、いまボソボソとこぼした「三日間で手が早い」とは、どういうことなのか。というか、この場をこの後どうする気なのか。
一瞬色めき立った場も、今度は悟の放った”呪詛師”の一色塗り替えられていく。とにかく噂の的からは少し反れただろうか。暑さにのぼせてしまったのか、滲んだままの意識の端にしがみ付く。
「おー?おーい、name?ちょっと?」
「っ、name様!……いま、お着物緩めますね」
「あ、俺が運びますよ……あ、その、すみません…」
先ほどまでの暴君ぶりはどこへやら。私を日ごろから後生大切にしてくれるこの付き人に、容易く威嚇されたであろう悟の少し怯んだ顔が面白くて、ふふと笑いがこみあげてくる。それでもやはり、ゆらゆらとままならない意識。この場は自分の身を任せるしかないようだ。
身体に残っていた緊張を解くと、緩められた襟元から、クーラーの冷気がひやりと心地よく肌を撫でた。
キラキラ、そんな擬音がぴったりな紺碧の虹彩と、それを飾るのに相応しい端正な瞼、豊かな睫毛。すべてが揃ってこちらを覗いている。体力が尽きても、危機になりうるものが近ければ、その気配を気取るのは相伝を抱える呪術師の宿命だ。
「おー、やるじゃん」
「……は?」
「おっかねー顔……って、その……時間がなかった」
「……」
「大丈夫かよ。……悪かった」
盛大に寝起き一番で舌打ちしたのは今日が人生で初めてだ。これまで随分と無茶ぶりな任務にも打ち込んできたけれど、こんなことはなかった。それでも不器用に謝る悟を前にすれば、特大の溜息も呑み込めてしまうこの瞬間が少し情けなくて、それでいて好きだ。
「何に?」
今日は少し意地悪しても、きっと許されるだろう。逞しい体躯と相反するような柔らかな頬を、また不機嫌に膨らますかと思いきや、悟はしおらしく居直って形のいい唇を開いた。
強引な行動と、人前での所作を、そしてそれが必要だった理由と共に詫びてくれた。
特段関係を隠すつもりこそ無いものの、私も悟も”名門”とか”相伝”とか仰々しく銘打たれたしがらみの中で生きている。
有力な家同士の交際は、なにかと波風が立ちやすいことは、幼少の頃よりいやというほど知るところだった。だからお互いのなかで暗黙の了解だった。
しかしそのしがらみに関係に漬け込む余地があると知った他家のある男が、どうやら邪魔を入れたらしい。しかも、どういうわけか私に執心した末、実力の埋め合わせのために呪詛師と手を組んだ上、家柄を後ろ盾に私の親類に取り入り始めて、ついに危険が近かった、と。
時計は17時41分。思ったよりも寝入ってしまっていたようだった。午後の会合はきっと混沌としていることだろう。あの時、母様の後ろで口元を覆って止まっていた父様はどうしているだろうか。惜しいほど柔らかな薄がけの羽毛布団からゆっくりと上体を起こした。
悟が差し出したグラスの中には、私の好きな冷たいサイダーが入っている。このことは悟しか知らないはずなのに、いつ誰に用意させたのか、そう思うと自然と頬が緩んだ。
意識が立ち上がり始めると、途端に悟の今後が気がかりになる。本気で父様が怒った時、声を荒らげない。あの様子ではきっと相当の様子だから、その怒りの矛先が悟に向かうことがないか気がかりだ。
「これから、どうするの」
「とりあえず夕食後に話してくる。今はお前の面倒を見てろって」
「へー、やるじゃん?」
「あ?」
「悟くん、こわーい」
「夜の会合同席してえのか?コラ」
「じゃあ……とりあえずごはん食べようか」
「は?マジで来るの?」
最近難しい顔をしていた悟の表情がここ一番にほぐれて、敵わねーなあなんて言っている。小さいころはお互いに張り合ったのに、いつの間にか大きな背中になって、先に進むようになっていたのは悟の方なのに。
隣に並んで居たくて、必死で駆け上がる日々。それでもその先で、いつも飄々としているこの人がずっと近くて遠かった。
「バレちゃったねー」
「気持ちよかったー、あの時」
「うわあ……」
「は?」
「……ありがと」
だけどこれからは、今私に屈託ない笑みを浮かべるこの人の前では、必要のない躊躇なのかもしれない。そう予感してキスをした。
廊下にはドタドタといくつかの足音が迫っている。にぎやかな晩夏に向けて、二人で悪戯に微笑んで、再び指を絡めた。