「中華鍋こうたとね……」
「なまえにも今度これで作ってやったい」
「ほーうではスターゲイジパイを」
「それは中華鍋使わんたい。なまえはどこか行きたいとこはないと?」
「えっ、付き合ってくれると?」
「当たり前ばい。杏と神尾にも付き合ってもらっとるけんね」

うう……嘘ついてる罪悪感すごい……。
なまえさんもしょっぱい顔をしているから、きっと同じことを考えているに違いない。
でもすぐに開き直ったみたいだ。

「じゃあ、楽器店あるけんそこに行きたか!」
「もちろん良かよ」
「やった!」
「何階?」
「4階!早く行こう!」
「あんまり慌てるとつこけるばい……!?」
「あ」
「ほら、言ったそばから。そそっかしいところもあんまり変わっとらんね」

「お、お兄ちゃんやるぅー!」
「橘さんかっこいい……」

橘さんが転けそうになったなまえさんの腕を掴んで引き寄せたおかげで事なきを得た。
突然のことでなまえさんもぼーっとしている。

「あ……ありがと…………」
「どぎゃんしたと?」
「……桔平って今何センチ?」
「身長?179ばい」
「179!?きーっ!!悔しい悔しい分けろ分けろ!」
「なまえまだそぎゃん大きくなりたかったとね」

何で突然身長に嫉妬するんだ。
やっぱりなまえさんの考えていることは分からない。

「何考え事ばしとっと?行かんでいいとね?」
「い、行く行く!絶対行く!」
「分かったけん次は足元に気をつけなっせ。しかし何でつこけたとかね?」

「ほら、神尾くん行こう!」

まさか杏ちゃんは何もないところで転けるはずがないか。



「なまえさんってピアノやってるの?」
「その筋じゃすっごく有名だよ。今氷帝に通ってるのも、スカウトされたからだし」
「氷帝なんだ」
「そう氷帝よ氷帝……」

苦虫を噛み潰したような顔をしている杏ちゃん。多分脳裏に浮かんだ奴は同じだ。俺の頭の中でもすっげー高笑いしてる。

「フォーレ……主題と変奏……主題と変奏……」
「ピアノの曲?」
「そうそう。今度の氷帝の定期演奏会で弾こうと思って」
「氷帝学園か」
「……氷帝はテニス有名だったね」
「ああ。強いばい。部長の跡部は特に……」

なまえさんは橘さんの方を振り向いた。その顔はさっきの杏ちゃんと同じ顔だった。

「げええええ跡部くん!その名を桔平の口から聞く日が来ようとはオモッテナカッタ……」
「何ね、なまえ知り合いと?」
「私の数学の先生……」
「数学の先生?」

「嘘でしょ!?なまえちゃんあの人と知り合いなの!?」
「数学の先生……」
「信じられない!あの人がなまえちゃんに近付いてるなんて信じられない!」
「あ、杏ちゃん落ち着いて!バレちゃうから!」
「なまえちゃんのこといじめてないかな!?後でなまえちゃんに聞かなきゃ」
「杏ちゃんまるでお姉さんだ……」

案の定杏ちゃんは跡部の名前を聞いて慌てている。氷帝学園ってつくづくすごいよな……エキセントリックな人が多い。会って間もないけどなまえさんもその列に加えられてる。


「仲が良かとか。知らんかった」
「言うて最近知り合った家庭教師だし……」

あの跡部景吾を家庭教師にする女子ってどうなんだ。

「ばってんなまえは電話で聞くより氷帝で楽しそうにしとって良かった」
「桔平……」
「なまえは、音楽と出会って自分の世界ば大きく広げたたい。俺も嬉しか。俺にとってはそれがテニスだったけん、よく分かる」

橘さん……つくづく男前だ。
なまえさんは思う所があるらしく、楽譜を探すのをやめて橘さんだけを見ている。何か考えているらしい。


「それでも、なまえが音楽に夢中になって隣の音大生の所に行き始めたときはちょっと妬ましかったばい」
「……私だって桔平がピアノ始めたとき悔しかったばい……何か桔平取られたみたいで。それと同じだよ」
「同じじゃなか」
「そんな満面の笑みで否定されるなんて」
「なまえは誰かと似てすぐにどこかに行ってしまうたい。いやもっと酷かかも」
「誰かって……容易に想像つくんだけども」
「そうだな……なまえは音楽に翼ばもらったけん、どこか遠くに飛んで行ってしまう」
「そんなの……」

なまえさんは口ごもってしまった。俺の隣の杏ちゃんが溜め息を吐いた。

「やっぱり2年も離れてたら関係って変わっちゃうのかな」
「えっ?」
「橘家の悲願はなまえちゃんをみょうじ家から貰うことだけど……」
「杏ちゃん」
「……はぁぁ……」

杏ちゃんが落ち込んでいる。それくらい、橘さんとなまえさんのことを考えているのか。

「杏ちゃん、元気出して!俺もできることならなんでもするし!」
「神尾くん……ほんと?」

不安そうな目で俺を見つめる杏ちゃん……可愛い。ってそんなゲスいこと考えちゃダメだ俺!

「もちろん!杏ちゃんの為なら俺すっげー頑張るから!」
「あ、なまえちゃんが落ち込んでる」
「えっ」

……杏ちゃんにはものの見事にスルーされた……。
杏ちゃんが伺う方向にはかなり落ち込んでいるなまえさんが。

「……はぁぁ……」
「そんな落ち込まんでもいいたい」
「落ち込まずにいられんよ……」
「なまえには笑顔が似合うたい。それに、何だかんだ俺もなまえに追い付いとる。追い付いとらんかったら、こうして一緒に楽譜探したりしとらん。ほら、フォーレか?そこの段にあるばい」
「どこどこどこどこ!?」

テンションがV字回復してる。感情表現豊かだなぁ、なまえさん。橘さんが好きになるのも少し分かった気がする。でも俺はやっぱり杏ちゃんの方が……なまえさん変だし。

「踏み台ないと取れない……」
「これであっとる?」
「あ」

スマートに楽譜を取った橘さんを、なまえさんが呆然と見つめている。
何を言うかと思ったら、次は杏ちゃんに神尾くん、と呼び掛けられた。

「神尾くん、ありがとう」
「えっ?」
「協力してくれるんでしょ?ありがとう!」

あまりの杏ちゃんの可愛さに、いつかなまえさんと橘さんと、それから杏ちゃんと俺が正月集まるところまで想像ついた。



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