たまたま近くを通ったらピアノが聴こえてきた。
廊下の灯りは落とされていて、部屋の明かりだけがよく見える。そして、ピアノの旋律もはっきり聴こえる。

「なまえちゃん、本当に熱心だね」
「……」
「手塚は何か思うところでもあるのかな?」
「いや……」

それだけでもっと聴きたいと自然と足が向くのだから、なまえの力は結構なものだ。
手塚と、続いて不二は廊下を抜けてなまえがいるであろう部屋へと向かっていった。



「……」
「やっぱりいた」

見え透いた罠を仕掛けたのは案の定なまえだった。
故意なのか、無意識なのかは別として。 

いつもとは、別人のようだ。

空から落ちてきたような激しい低音が余響を残して消えていく。
余響はまるで地を這って、最後にはあっさり立ち上がってから、知らん顔して通り過ぎる。

不二は、その旋律を美しいと思える。少からず覚える
恐怖などすぐに忘れて、そう思える。
もっと聴きたいと思っていたのに、それを遮ったのは手塚だった。

「みょうじさん」
「うわっ、手塚くんと不二くんか。びっくりした……」

なまえは話しかけられて初めて手塚と不二の存在に気付いた。二人のほっとしたような表情に一瞬訝しげな顔をするものの、どうでも良かったからなのかすぐに笑顔になる。

「なまえちゃんが弾いてるところが見たくてね」
「遮ってすまない。その曲は?」
「ああ……サティの星たちの息子のためのプレリュード。本当は盛り上がるのはもっと後なんだけど」

なまえは外の景色を指した。
夜空にはやはりたくさんの星がある。どうやらこれに感化されて弾き始めたらしい。なまえは夏の天気よりも気まぐれで、ちょっとしたことで変わっていく。

「やっぱり都会と違って星が綺麗に見えるから、弾きたくなっちゃって」
「確かに、今夜はよく星が見える」
「いっぱいあるから何個か落ちてきそうだよね」
「……なるほど」
「続き、弾いてもいい?」

鍵盤を星屑がこぼれ落ちるように鳴らすなまえに、不二も自然と笑顔になる。いいよ、という前に遮ったのはやはり手塚だった。

「すまないが、別の曲を頼む」
「えっ……」

途端になまえの顔が真っ青になる。『下手だったかな……』という声がぼそっと聞こえる。手塚に憧れているらしいなまえからすれば頭の上に隕石を落とされる程のショックだったに違いない。

「手塚、なまえちゃん気にしてるよ」
「!」
「『!』じゃないよ……何でそんなことを」
「すまない、みょうじさん。そういう意味ではない。ただ、気分の問題だ」
「気分?」
「……へぇ」

気分屋のなまえには、気分という言葉が一番説得力があるものだった。ほっと安心して胸を撫で下ろしている。
しかし、一方の手塚にとっては全く説得力を持つ言葉ではないはずなのに。さっきから、手塚の様子がおかしい。らしくないのだ。

「じゃあ、何弾こうかな」
「僕はサティをお願いしたいかな。ね、手塚?」
「……ああ」

一瞬、横の手塚が睨んできたのを不二はいつもの微笑みで受け流しながら、先手を打っておく。なまえのファンというカテゴリなら先輩なのだからこれくらいは許されるだろうと考えていた。

「じゃあ、1分くらいの曲で。夜っぽくちょっとしんみりした感じで……」

すうっと、なまえが呼吸する。
その1秒くらいで彼女は魂ごと入れ替わったのではないかとすら思う。

「……」

なまえは消えていきそうな音を水際で支えている。
本人がその消えゆく音を甘受しているのが分かってしまう。
それを目の当たりにすると、時間の感覚さえ忘れてしまいそうだ。

この1分は、永遠よりも長い。


「あー……終わっちゃった。この曲あっという間なんだよね」
「この曲は?」
「Désespoir agréable」

日本語で何だったっけー?と頭をひねるなまえのスマホが着信音を鳴らす。着信音はなんか軍歌っぽい響きで対照的だったから、はっきりと自分たちがなまえワールドから戻ってきたことを確信する。

「げっ、兄ちゃんだ。ごめんね、ちょっと出てくる」
「うん、ありがとうなまえちゃん」

出ていったなまえを見送りながら、不二は手塚を見る。

「いつもの手塚らしくないね」
「何がだ?」
「聴いてる時の顔が、まあいつも通りといえばそうだからなまえちゃんは気付いてないかもしれないけど険しかった」
「……最後に、みょうじさんはさっきの曲があっという間だと言っていた」
「確かに」
「俺にはとても長く感じた」

手塚は結構堪えているらしい。
彼をこうも狼狽えさせる存在はテニス以外で見たことがなかった。

「それで嫌がったのか。確かに焦燥感を煽られる」
「……どういうことだ?話が見えん」

不二はクスリと笑う。

「星と人間じゃ時間の感覚が違うって話」




2016.04.21

Désespoir agréable
快い絶望

タイトルはケイト・ブッシュ『魔物語』(原題:Never for ever)から。この原題から魔物語ってする日本人のセンスは本当にいろんな意味ではぁーってなります。

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