「ショパンの雨だれの前奏曲か」

夕立にたちまち影響されて練習するはずだった曲を変えて弾いていた。ショパン24の前奏曲作品集のうち、最も長いその曲を弾き終えると私の背後から声がした。

「ちょっ、背後霊みたいに!」
「驚かせてすまない」

謝ってるけどちょっと笑ってる柳くん。私の反応を見て楽しんでやがるぞこの人。

「流石、俺のデータにある通り上手いな」
 
椅子のスペースを空けると、柳くんは座った。褒められると単純に嬉しい。

「ありがとう。柳くんはショパンにも詳しいんだね。すごい」
「もともと有名だろう」
「忘れもしないよ。私がっくんに第7番イ長調聴かせたら『ありがとう!いい薬です!』って返されたんだよ!」
「うちの赤也もそう言いそうだ」
「まあ私もそう思ったんだけどね」
「……」
「私、ピアノ始めたの5年生くらいからなの。それまで音楽の授業は好きだったけどね」
「ほう、なかなか遅咲きなのだな」

柳くんはノートを開いてメモしていく。そんなのメモして何になるのかは分からないけど柳くんの考えはきっと私だったら思考回路がショートする位難しそうだ。

「他にも越天楽とか聴いてもぶっちゃけ正月しか思い浮かばない」
「俺としては意外だ。音楽に関しては極めて趣のあることを考えているのだろうと思っていた」

それこそ赤也と同じことを言っているぞ、と柳くんに言われると、なんだかんだちょっとイラッとした。それでも笑えてくるのは、今の自分に不満はないことを表しているんだろう。

「みんなが持ってる音楽はどこかで噛み合わないよ。ほら、みんな違ってみんな良い……って奴。私がこう思って曲を弾いたとして、それを聴く人が私と全く同じ気持ちだって限らないし、それは間違ってることじゃないよ。雨だれの前奏曲も、中には雨っぽくないなぁって思う人がいると思うし」
「……」
「私はその中でもサティが一番好き。そのサティの曲は、私だけのサティの曲でいてくれる。だから、自分が好きだと思うものは世界で1つしかないものっていうか……うーん。何言いたいか分からなくなってきた」
「大丈夫だ。俺には分かるぞ。クオリアの問題、ということか」
「クオリア?」

困って柳くんの顔を見ると、柳くんは笑って、持っていた白いノートを膝上に置いた。


「このノートは何色だ?」
「白」
「どうして白に見える?」
「どうしてって言われてもなぁ……」
「つまりはそういうことだ。みょうじには白にしか見えないものも他人には赤に見えているものを白と呼んでいるかもしれない。白という質感はどのような手段で、どこからやってきたのか?それは科学的にも証明することは困難だ」
「なるほど」

人間ふとした時に考えることが意外に哲学してるなんてことがあるのかもなぁ。ニャースも哲学してたしなぁ……まあこんなこと考えてる時点でアリストテレスとかプラトンとは程遠いよね……。

「しかしお前の、好きなものをそう捉えることができるのは素晴らしい」
「ありがとう」
「一人ひとりが違うものを見ているとすれば独占なんてそれこそ起こらないだろう。しかしお前はあくまで概念だけで考えすぎている」
「?」

柳くんが目を見開き私を見て、一言。「無自覚とは末恐ろしいものだ」……だって?
ちょっと!それ私を馬鹿にしてるの!?ひどくない!?

「今までの話を追ってお前は好きなものについてどう考える?」
「うーん……自分で」
「『自分できれいだと思うものは、なんでもぼくのものさ。その気になれば、世界中でもね』
という」
「今何で当てたの!?すごくない!?」
「スナフキンだな」

柳くんのこと嘗めてたのは私の方だった。まさか当ててくるとは思ってなかった。テニスからショパン、はたまた北欧の妖精や吟遊詩人にも詳しいとは。歩くWikipediaかなんかなの?

「人類みなスナフキンとは限らない」
「俺のものは俺のもの、お前のものも俺のものみたいな奴もいるしね」
「その通りだ。現代人など俺も含め多かれ少なかれみな即物的だ。その中で音楽や色はまだ形をなしていないからまだましだ」
「つまり?」

柳くんの言葉を何気なく急かす。すぐに返事があるものと思っていたけど、違った。柳くんの微笑みはさっきから何回も見たのに、何と言っていいか分からないものだった。


「……形をなしていたらどうなる?
みんなには違って見えていたとしても、形として1つしかないものは……必ず取り合うことになるぞ」

「それって、この世に塩飴が1つしかないとして、みんなで取り合うことになるときってこと?」
「そういうことだ」

例えが塩飴とはいかがなものか、という柳くんの手が私の髪に触れる。
柳くんに優しく触れられて、ちょっとドキッとした。

「お前はまるで音楽だが、それと違って1つしかないものだからな」
「……ソウデスネ」
「……外してくる期待を含めても俺の真意を理解できていない確率98%
それより雨だれの前奏曲をアンコールする」


隣の観客の真意は、私の雨だれの音でかき消されていく。
柳くんのクオリアのありかを突き止めるのはショパンを弾くより難しそうだ。





2016/09/18修正

哲学的な話と言われて悩みました笑
私は、柳くんのように賢い人間じゃないので……と考えた時にクオリアの問題を思いつきました。
哲学的かどうか、ましてご期待に沿えられたどうかは分かりませんが、楽しく書かせていただきました!
ありがとうございました(*´∀`)
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