朝起きたらスーツケースが新しくなっていた。
ただし前のスーツケースにあった昇り龍はひょっとこに退化していた。私が寝ている間に兄貴がスーツケースを入れ替えたらしい。私はフランスのお土産に兄貴を合法的に抹殺する方法を考えてくるよ。待っててね!

「ひょっとこスーツケース……」

悲しいくらいイカしてないひょっとこスーツケースを抱えて搭乗時間を待つ。早く来すぎたのもあって暇だ。お母さんとお姉ちゃんは連絡やら化粧やらでどこかに行ってしまった。お姉ちゃんは化粧とか、もっと妹との時間を惜しまないんですかね?化粧より大切なことなんじゃないんですかね?

……。

大切なこと……。

何か忘れているような気がするのは何でだろう。
ここに来る前にお父さんにもお別れは言ったし、兄貴にも一発お別れのパンチを食らわせてきたし、ワトソンくんにはもう数日前にちゃんとお別れの比内地鶏を渡してきたし。
手塚くんにも報告した。跡部くんとは仲直りもした。塩飴も持った。心当たりはない。

……ない、はず?

搭乗券や時計を見ると胸のあたりのつっかえが大きくなる。『何かあるでしょ?』『いやないよ』『ほんとか?』『まさか』という言葉が頭と心臓の辺り循環しているような感じだ。

「何か引っかかるんだよなあー」

うーんうーん唸っていたら勢い良くスマホの着メロが鳴った。ウルトラマンタロウにでも呼ばれたかな?とかふざけたことを考えてたら『下剋上』と表示されていた。

若くん!

迷わず通話ボタンを押した。

「ボンジュール若くん!若くんから電話でお姉さんのテンションはさい……」
『おいこのバカ!今どこにいるんだ!?』
「ひっ!?」

かなりの大声だったから私はついスマホを落としてしまった。周りの人がざわついている……というより今ので分かった。私がいるベンチより遠くから大声がしたもんあれ絶対若くんだ。

「わ、若くん……?」
『さっさと答えないと一生後悔させてやるぞ』

電話口からすごい負のオーラが伝わってくる……っていうか、犯罪者みたいなこと言ってるし!めっちゃ怖ええええええ!
私生まれて初めてここまで恐怖したよ。今怖いものランキング1位で絶対王者だったはずの雷が余裕で陥落した。観覧車の順位も下がった。前に喧嘩したときの怒りなんて序の口じゃん。

『それともあろうことか手続きしてしまったのか?』
「めっ滅相もございません!わ、私、まだ手続きしておりませんですはい……」
『じゃあどこにいるんだ?』
「えと……お土産物屋さんいっぱいあるとこの……」
『今同じアナウンスが聞こえた。近いな。今から向かう』
「えっ、あっ」
『目立つところで立ってて下さい』

ただしそこから一歩も動かないで下さい、と私には釘は釘でも五寸釘を刺して電話は切れた。やっと敬語に戻ったとはいえ何と恐ろしい。手足がめっちゃ震えてる。
若くんに言われた通り開けた通路に立つ。なんか身代金の受け取りする気分になってる。相手の機嫌を損ねたら即死が待ってるみたいな。スーツケース持ってるし尚更……。

あと、今更思い出したけど私、

「氷帝のみんなに留学のこと何も言ってなかった……」

立海とか他の人には話したから同じテニス部のくくりで話した気になってた。若くんの怒りは100%それに違いない。これは跡部くんにバカにされた私でも分かるぞ。

「どうしよう、何と謝るべきか」

どうしよう、何言っても罵詈雑言が返ってくるビジョンしか見えない。

「ああああ!どぎゃんすれば良かとねー!」
「何騒いでるんですか?」
「はっ!」

背後に一瞬で現れた気配に全身が凍り付く。今まで数々の人々に背後を取られ続けたけれどこんなに恐ろしかったことはない。しかもそれが若くんなどと……!悪いのは薄情な私だけど夢なら醒めてお願い!

「あ、はは……ごめんね若くん」
「……」

振り向けば若くん。怒ったような悲しいような、色々入り混じってぐちゃぐちゃで苦しいって顔をしていた。私の胸のつっかえは申し訳なさだったと、今になって分かった。

「いや、ほんと忘れてただけ……悪気はなくって、ただほんと言った気になってたっていうか……薄情者って言われても仕方ないんだけど……こんなの言い訳だよね。ごめんなさい」
「俺が期待してたのはそんなことじゃない」

若くんから言われて身体がざわついた。罪悪感が爪先から頭のてっぺんまでじんわり広がっていく。

「アンタの突拍子もない言動はいつもですよ。俺だって、ここに来るまでなまえさんのくだらない冗談だって頭のどこかで思ってたのに……!」
「わっ……!?」

若くんに引き寄せられて若くんの腕に収まった。
私より大きい身体は、ちんちくりんな私よりずっと大人に見える、感じる。なのに上から私に零すセリフはまだ大人じゃない。

「なまえさんを止めるのが無理だって分かったからこっちはアンタに合わせようとしたのに、なのにアンタは容易にそれを振り切っていこうとするから……!」

内と外とが乖離する。
この感じ、何かを思い出す。
サティの曲、私の好きなものだ。

「どうせ会えなくなるならなまえさんを嫌いになりたい。なまえさんのことを忘れてしまいたいんです」
「若くんって意外に寂しがり屋なんだね」
「この際馬鹿にされても怒りませんから代わりに貴女を嫌いになる方法を教えて下さい」

寂しがり屋な若くんの頭をよしよししてあげる。嫌がらないのが、結構メンタル強めな若くんが珍しく弱ってる証拠だ。

「若くん、あのね」
「教えてくれるんですか」
「えー……それはちょっと」
「じゃあ何も聞きたくないです」
「私の話聞いてよ!」
「最後くらい話を聞いて、ってことですか?アンタバカですよ。俺の話も聞いてないのに聞いてもらおうだなんて都合が良いとは思わないんですか?」
「引き止めてくれてありがとう」
「聞きたくないって言ってるのが分からないんですか!?いい加減にしないとその口塞ぎますよ!」

若くんが私に向き直る。
自棄になりつつある若くんを抑えなければ。

「若くん。私ちゃんと帰ってくるよ」
「信じられるわけない」
「だから信じてってば!」
「あんまりうるさいと口塞ぐって言ってるだろ」
「だーかーら!私1ヶ月後に帰ってくるんだってば!」

ゆっくり近付いてきていた若くんの顔がピタッと止まる。

「……どういうことですか?」
「若くん、誰から何て聞いたか知らないけど私はフランスに1ヶ月短期留学するだけだよ」
「何だって……!?俺はてっきり、そのまま帰って来なくなると……」

やっぱりかー。何となく若くんのただならぬ様子に私が一生帰らないんじゃ、って思ってたのは分かった。でもついつい抱きついちゃうなんてかわいーなーそんなにお姉さんこと好きなのか。なまえさんも若くんのこと大好きだよ、ほんと。

「誰から聞いたの?」
「切原からです」
「あーじゃあみんな私が永遠にフランスから帰って来ないって思ってんのかな……」
「本当に1ヶ月だけですか?」
「本当だよ」
「……アンタって人は……」

若くんのため息と同時に、なんかこっちを見ていたギャラリーからもため息が出た……何で!?何か私悪いことした!?ちゃんと誤解は解けてなまえさんも帰ってくるって分かってハッピーエンドじゃないのかな?

「氷帝のみんなが一連の出来事を聞いたら……他校の連中も一ヶ月で帰ると知ったら驚きますよ。それと俺から離れてください」
「薄情者!抱きついてきたのは若くんの方じゃん!『行かせたくない!』って言ったじゃん!」
「俺も頑張って忘れるので忘れてください」

私より若くんの方が薄情なんじゃ……それでも私が何か文句が言える立場じゃないのは確かだ。

「でも嬉しいなー。若くんがそんなに私のことが好きだったなんて!」
「こんなことで知られてしまった俺の一生の不覚だ……!」
「先輩として後輩に愛される!こんなに素晴らしいことはないね!」
「……もう良いです。勝手にそう思っておけバカ」
「先輩として後輩に貶される……こんなに悲しいことはないね……」
「次はもっとスマートに決めますから」

この時々不意にドキッとする感じは何なんだろう。腑に落ちないそれは、やっぱり不可解な私の大好きな曲たちと同じだ。

「行ってくるんでしょう。気を付けてください」
「大丈夫だって。そんなに心配しなくても私はちゃんとやってけるから」
「向こうに着いた瞬間置き引きにあうとかやめてくださいよ」
「そんなにバカじゃないよ」
「あとは」

若くんが珍しく優しく笑ってる。さっきの余裕の無さが嘘みたいだ。

「ちゃんと、戻ってきてください。約束です」
「もちろん!約束するよ!」

指切りの小指を差し出すと、若くんの小指とぎゅっと結んだ。

「帰って来たら、俺にピアノを聴かせてください」
「何がいい?」
「もちろんサティで」
「さすが若くん分かってるね!」
「そう言われると嬉しいです」

嬉しい。
その気持ちは私がサティを演奏した時に感じるそれと一緒なのかな?
ううん、一緒だといいな。
その答えを確かめるのは一ヶ月先だ。


2016/9/18修正

タイトルはエリックサティ『Je Te Veux』より

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