「ねーちゃん元気でね!」
「うん、みんなも元気でね」
「絶対迷子になっちゃダメだよ!」
「空港とかで置き引きされたりしたらダメだからね!」
「君たちみんな私のお父さんとお母さんなの?」

久々に祖父に付き添って公民館に来たら、みょうじさんが子どもたちを見送っていた。先日のコンクールでの舞台からうってかわって等身大の彼女は初めて出会った日と同じだ。

「みょうじさん」
「ててて手塚くん!」

みょうじさんに声をかけるとやはり緊張したような話し方があの日と同じだ。

「またここで会ったな」
「ホントだね」
「子どもたちにピアノを教えているんだったか?」
「まぁ厳密には遊んでるだけかな。でも、今日で一旦最後」
「どういうことだ?」

理由を聞けば、みょうじさんは明らかに動揺した。顔を真っ青にしている。一体何事かと一瞬訝しく思うが、理由は……俺にも察しがつく。

「みょうじさんは……」
「ああああまだ心の準備ができてなかったのにぃぃ!」
「……」

分かっているとこちらが言い出し辛くなるほどみょうじさんは頭を抱えて、しまいにはしゃがみこんでしまっている。それだけ今まで考えて言葉を選ぼうとしていたんだろう。

「みょうじさん」
「な、何でしょうか?」
「今、時間は空いているか?」
「あ、うん。今日はもう帰るだけだし……」
「なら、話をしないか?」
「えっ」




みょうじさんは承諾こそしてくれたが、本当は嫌だったのではないだろうか?まるで喫茶店が初めてのようにびくびく怯えている。

「みょうじさんは気に入らなかったか?」
「喫茶店のこと?そんなことないよ!綺麗だし……ただ私はいつも寄り道はファストフードなので慣れないと言うか……いやすぐ慣れます!」
「そうか、それなら良かった。好きなものを頼んでくれ。俺が払う」
「ダメダメダメダメダメダメむしろ私が全財産捧げます!」

遠慮するなまえさんは遠慮しすぎているのかなぜか俺に自分の財布を渡そうとする。

「先日のコンクールの祝いとしてでもいけないだろうか?」
「それでもダメ!払うよ!多分1000円くらいなら……あ」
「どうしたんだ?」
「……お化けの金太……」

お化けの金太、とは熊本の伝統工芸品だったはずだがなぜそれが急に。

「すみませんお言葉に甘えさせていただきます……」

みょうじさんは遠慮するのをやめた。お化けの金太は一体みょうじさんにどんな心境の変化を与えたのだろうか?この前の『道端の石ころ』といい、俺にはみょうじさんの考えていることが分からないのが少しもどかしいくらいだ。

「いいや構わない」
「じゃあ私は……あ。手塚くんは何にするの?」
「ブラックコーヒーをいつも頼んでいる」
「ひえっ大人だ!なら私も」

コーヒー、紅茶とメニューを辿る指は細長い。身長の割りに手が大きいということを俺はこの前初めて知った。みょうじさんの指はたくさんの紅茶の名前をなぞった後にソフトドリンクの欄にたどり着いた。

「ううん、やめとこ。やっぱり私は100%オレンジジュースにする!」
「合宿でも毎朝飲んでいたな、そんなに好きなのか?」
「100%じゃないと絶対ダメ!ポンジュースだとなお良し!店員さん!ここのオレンジはポンジュースですか!?」
「そうです」
「ポンジュース!」

店員からポンジュースだと聞いて喜ぶみょうじさんは素直で可愛い、と思う。俺に大事なことを話に来たつもりだったはずなのに、すっかり忘れて今を楽しんでいる。みょうじさんには悪いがここは本題に戻らせてもらう。

「それで、みょうじさんは俺に何か言いたいことがあったんじゃないのか?」
「あ、そうだ!大丈夫。ここに来る途中に心の準備はばっちりしたから」

みょうじさんには演奏前に大きく深呼吸をする癖もある。それと同じ深呼吸をして、俺をまっすぐに見つめた。変な話だが、ピアノに感情があればきっとこんな気持ちなのだろう。その目に射止められて、それくらいしか形容しようがない。

「私ね、パリに留学することにしたの!」
「……ああ」

口下手だとは周りにも言われているが、俺でもかける言葉に候補はいくつかあったのはわかる。しかし、いざ出て来たのは相槌だけだった。
俺は先日の夜、みょうじさんと二人になったときにこの瞬間まで想像して腹を決めたはずだった。

「今日一日私より年下のちびっ子たちになじられまくったからあんまり自信ないけど……」
「いや、みょうじさんならうまくやっていけるはずだ」
「本当!?手塚くんに太鼓判押されたら安心だね!」
「いつからだ?」
「それが9月から」
「随分早いな」

あと1週間もないのか。彼女のピアノを聴けば聴くほど強くなる、手元からすり抜けていく感触はここに起因している。気付けばあっという間にいなくなる。

「本当は、もっと早く言うつもりだったけど、なかなか言えなくて……なんていうか、手塚くんと一生会えなくなる気がして」
「なかなか怖いことを言うな」
「フラグ立ててるみたいで怖くて言いづらかったんだよね……」

考えていることは意外に同じなのか?
なら、もっと恐ろしい気がする。別にこのことを神社に祈願したわけでもないが。

「でも、これも手塚くんのおかげだよ。ありがとう」
「俺は何も」
「それなのに私は手塚くんに奢らせてしまって……!」

みょうじさんは次は泣きそうな顔になり机に突っ伏す。小声で『腹を切る……!』などと怖いことを言っている。そこまでしなくてもいい。
それから、オレンジジュースとコーヒーを持ってきた店員の一言であっという間に立ち直った。

「ポンジュース!」

笑顔のみょうじさんを見ると本当に安心する。みょうじさんが良いと思うなら、それで構わない。その気持ちは本心だ。それに、あの日の覚悟のままで今でも変わらない。

「本当は」
「ん?」
「後悔するかもしれないと思っていた」
「なんの後悔?」
「……今のは忘れてくれ」

鋭いみょうじさんは勘付いてしまったかもしれない。
俺の自分でも御しにくい感情と、今も後悔を恐れていることに。

「あ、え、まさか……奢るの後悔してる?」
「それは違う」
「本当?良かった。あ、そうだ」

彼女に気付かれなかったことに安心と残念な気持ちがないまぜになる。その気持ちは御しにくいそれと同じだ。
みょうじんはあさっていたバッグの中から……これは……。

「これあげる!手塚くんにお礼。買いすぎちゃったものだけど」
「これはお化けの金太か」
「おお!よく知ってるね」
「わざわざありがとう」

本物は初めて見た。まさかみょうじさんから受け取るとは思っていなかった。
みょうじさんは嬉しそうに笑って、オレンジジュースを飲んでいる。その顔を見ると、俺の気持ちを打ち明けることが彼女の邪魔をしそうになる予感がする。

「また後日もっと良いお礼する!」
「これでも構わないが」
「ううん、私のわがままだよ。
こうやって約束してればまた手塚くんに会えると思うし」
「……そうだな。俺もみょうじさんに会いたいから、そうすることにする。
待っている」
「てっ、手塚くん!!」

みょうじさんはオレンジジュースを一気に飲み干してしまった。オレンジジュースはあっという間になくなってしまって、みょうじさんはピアノを引き終わった後と同じように息をついて、
グラスの中に取り残された氷がカランと小さな音をたてた。


2016/10/08修正

私が頑張って切ない系を目指した結果がこれ……。
手塚くんだけなんかエースをねらえ!の住人になっている気がする。
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