練習で学校に来ている間、ずっと音楽室からピアノが鳴っていて、音楽室にはなまえさんがいた。もともとピアノを弾いている時は集中して、何にも気にならないって感じだが、今回はいつにもましてそんな感じがする。

ふと黒板に掲示してあるカレンダーを見ると、×がたくさんついている。2日後には二重丸。そうだ、もうあと2日だったんだ。俺は冷房のスイッチをつけて、なまえさんに近付く。
なまえさんはやはり気付かずにピアノを弾いている。

相変わらず、なまえさんはピアノを弾いている時はまるで別人だ。
それは『俺の知らないなまえさん』として俺の心の中でカテゴライズされていた。ついこの間まで。
俺の知らないなまえさんは全部嫌いだった。
俺の心を不安で揺るがすあの3分弱しかもたない空間ですらもう耐えられないと思っていた。

「……はっ!?」

なまえさんは、弾き終わって初めて俺がいたことに気付いた。俺をじっと見つめた後、俺が本物なのかを疑い始めた。失礼な人だ。

「だって、若くんテレポートしたみたいに突然現れてるから!」
「前は何となく気付いてたじゃないですか?」
「前っていつのこと?」
「雨の日でしたね。俺に向かって気持ち悪いことを言いました」
「私気持ち悪いことなんて言わないししたこともないよ」
「そんなこと言ったらアンタ記憶喪失疑われますよ」
「え!?何で!?」

常日頃の言動に全く自覚のないなまえさんはやはりピアノを引き終わるといつもの俺の知っているなまえさんに戻っていた。

「あっ、そうだ若くん。アイス食べない?」
「アイス?持って来てるんですか?」
「おやつないと力が出ないじゃん」

音楽室と付属する準備室を完全に私物化しているなまえさんは、準備室にある冷蔵庫からホワイトサワーのチューブアイスを持ってくる。袋には『みょうじなまえ』と名前が書いてある。俺はこの私物化の件にはなまえさんと異常に仲の良い監督が関わっている気がしてならない。

「本当は艦長と半分こしようと思ってたんだけど」

やっぱりな。
なまえさんは監督を理由は知らないが艦長と呼んでいる。

「若くんなら特別!半分こしよ」

パキン!と半分に割ったアイスを渡される。特別、って言う言葉に俺は嬉しくなる……が、態度には出さないことにしている。絶対にだ。

「若くんここ座っていいよ」
「狭くなりますがいいんですか?」
「それは私が大きいってこと?ん?合宿でだいぶ痩せたんですよ?」
「痩せたようには見えません」

俺に文句を言いたげだが既にアイスをくわえていたから、黙って広めのピアノ椅子を詰めて空けてくれた。
そこに座ると結構なまえさんと近くなる。
鳳が一緒に座っているのは見たことがあるが、アイスの為とはいえ俺が座るなんて考えたことがなかった。

「おいしー冷房涼しー……」
「感謝してくださいよ」
「何を?」
「冷房つけたの俺です」
「冷房つける=パピコは高すぎるぞ!……私にお釣りが来てもいいくらい。しかもいつもはコーヒーなのに今日はホワイトサワーなんだぞ」
「じゃあいつか返します。それにしても、貴方がまさか冷房付けずに練習するなんてね」
「あー確かに……」

なまえさんには何事につけても自覚がまるでない。喧嘩だろうがなんだろうが、大好きな音楽であろうがそうだ。でも、今までと少し違う点がある。さっきもだ……俺が近付いていっても気付かなかった。前は何となく気配を察知していたようだったのに。
俺に余裕があるから相対的にそうなのかもしれないものの、今日はなまえさんに余裕がない。

「なんか……なまえさん、余裕がないです」
「そうかな?」
「自覚ないんですね」
「呆れられる理由が私には分からんよ泣きそう」

跡部さんとのことなのか、はたまた別のことなのか。書き込まれた膝元の譜面に視線を自然と落としているのだから恐らくピアノのことだ。

「若くんはなんか余裕だね」
「色々あって腹を決めましたから」
「若くんさ、急にかっこよくなりすぎてない?」
「アンタ……前は俺のことをどう思ってたんですか?」
「きのこみたいで……」
「第一印象にまで戻らなくていいです」
「可愛い後輩かな?それとオカルトきのこ」

なんて可愛くない先輩なんだ……結局きのこが付いているじゃないか。しかもオカルトまで付いている。何だオカルトきのこって。マタンゴか。

「それで今は?」
「今?えーそれ言わなくちゃだめ?」

なんて嫌そうな顔だ。可愛くない。
俺は色々と期待して聞いているのに、この人の考えていることと噛み合っていない気がする。俺も我が強い方ではあるし、なまえさんに合わせるのは難しいと言わざるを得ない。ていうか本当に可愛くない。

「うーん……最近の若くんはめっちゃかっこいいし後輩なのかな?って思っちゃってなんか複雑な気持ちになるんだよねー」
「……」
「私の先輩としての立場すら危うい……」

……手放しで空っぽのアイスをくわえるなまえさんが意外に可愛い。もともと危うい立場に今更危機感を持っているこの人は、そういえば年上が好みだったか。

「アイスいります?」
「え、いらなかった?」
「いえ、足りなさそうにしてたので」
「わーい!」
「これでお釣りは払わなくていいですよね」
「……やるな若くん」

だったら先輩としての面目丸つぶれにしてやると思った。俺はやっぱり下手に恋愛するよりも下剋上の方が気質に合っている気がする。



2016/9/18修正

2万打企画だったエキゾチックタイムですが、今思うと日吉くんだけじゃなく他のキャラと夢主の関係の方向性が決まった話だったと思います。 
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