「侑士、この合宿所に女子が来たって噂知っとるか?」

一緒に朝メシを食べていた侑士に聞くと、案の定その噂を知らんかった。この噂は朝練中に高校生の間で騒がれていた噂や。洗面所に女子が出たとか。

「誰がそんな嘘信じるねん」
「火のない所に煙はたたん言うやろ?」

まあ信じへんのも無理はない。この合宿所はほんまにむさ苦しい。異性といえばカフェの店員と食堂と清掃のおばちゃんと、医務室の美人女医と限られた場所にしか生息してへん。

そう、ほんで美人女医。

「しかも、あの美人女医の妹らしいで」
「あのめっちゃ色気のある先生の妹ねぇ……」
「やっぱり気になるやろ?」
「ちゃうわ。ヘタレはあの色気の前じゃ呼吸もでけへんやろなと思っただけや」

おい、それ誰のことやねん。
つい握りしめたドレッシングボトルから青じそドレッシングが噴き出した。

「謙也のことやない。謙也は元気で無邪気な女子が好きなんやろ。なまえちゃんみたいな」
「そうそう俺はみょうじみたいな元気で無邪気な女子が……って何言わすねん!」

青じそドレッシングで侑士を狙うがかわされてしもうた。『そんなに動揺せんでもええやん』と侑士に言われて俺はますますどうよ……うしてへんわ!

「ほな、コーヒーもろてくるわ」

頭の中にぽっと出てきたみょうじがドヤ顔でわろてくる……絶妙にウザい!

「ちゃうねんちゃうねん!確かに無邪気な子は好きや!でもそれはみょうじじゃないねん!あいつは可愛くない!」
「ほーん。俺はなまえちゃん可愛いと思うやで。実は国民的美少女コンテストにも応募を検討したこともあるらしいやで」
「書類審査で即落ち決定やんけ!」
「なまえちゃんに失礼やぞ!謙也くんがなんとかボーイ……あの仮面ライダーの登竜門的なアレに出るよりまだ芽があるやぞ!」
「うるせー!みょうじよか芽があるわ!つーか何やその変な関西弁……!?」
「まあ確かに。悔しいけど謙也くんイケメンだしな……」

……俺は夢を見てるんやないやろうか。
目の前にみょうじがいる。
みょうじなまえがいる。
偽物かと思ったがそうやない。ちょっと伸びた髪が逆にリアル。みょうじは怪訝そうにこっちを見た。

あ、イカン。一ヶ月ぶりヤバい。


「どうしたの?」
「ちょ、っ……!?おま……!?ほんっ……!?」
「何でちょっと泣きそうになってるの」

俺の青汁にどっからか出してきた牛乳を混ぜ始めたみょうじ。
そう、こいつはみょうじ。分かってるねん。

「だ……誰やっけ……」
「ヒドッ!なまえだよみょうじなまえ!私は謙也くんの名前覚えてたのに!てかさっきは私の名前言えてたじゃん!」

衝撃で口からその名前は出てこんかった。

「す、すまん。つい……」
「うむ、よろしい」
「こう目の前にするとなんか名前が……」

ふと俺はこの事態のおかしさに気付いた。

「いや、うむよろしいではないわ!お前何でここにおんねん!?それと青汁はそのまま飲んでこそ青汁や!勝手にマイルドにすんなや!」
「青汁は置いといてね、そりゃあパリから帰ってきたわけでね」
「確かにそうやろな!?でも俺が言いたいのはそんなことやないねん!」
「つまり、勝手に青汁飲むなってこと?」
「ちゃうわ!あ、いやちゃうくない!それもやけど!」
「抹茶ミルク風味〜」
「ああああマジで調子狂う!」

この謎のペースに乗せられる感じ……これぞみょうじゾーンや。
ちゅーかホンマに何でみょうじはここにおるんや。はっ!?まさか噂に聞くみょうじのドッペルゲンガー!?肝試しの夜を更なる恐怖のどん底に突き落とした、呪われしみょうじの……!

「何一人でぶつぶつ呟いとんねん」
「はっ!?ゆ、侑士!ん!?あれ!みょうじは!?」
「なまえちゃん?」

いつの間にかみょうじの姿はなかった。
見渡す限り、この食堂のどこにもおらん。こんなに一瞬で消えるなんて、俺くらい足が速いか、ドッペルゲンガーなみょうじが一瞬で消えたか二つに一つや!

「みょうじがおったんや!」
「何寝ぼけとんねん。それとお前、気色悪いことすんなや」
「は……?」

侑士が自分のホットサンドプレートを指す。
それには、でっかく「LOVE」「by KENYA」とケチャップで書かれている。エラいもん残していきおったなみょうじ(?)の奴!

「ちゃうわ!俺やのうてみょうじ!」
「はぁ?嘘が下手やで」
「ホンマや!みょうじの奴どこ行った!?やっぱ噂に聞くみょうじの分身か!?」
「朝食くらい落ち着いて食べーや」
「落ち着いてられるか!」
「謙也くん食べなさそうだし貰ってもいい?」
「ええで。もう食べてしま……」
「いっただっきまーす」

俺と侑士の間に沈黙が広がる。
俺と侑士の間の席にみょうじが座って、堂々と俺のトーストにイチゴジャムを塗って食べ始めた。

「やばい……みんな毎朝こんなの食べてんの?これほんとにトースト?どうやったらこんなに美味しくなるんだ……」
「こ、ここで手作りしとるらしいで……」
「贅沢だな!忍足くんのホットサンドもちょっとちょうだい!」
「な!?言うたやろ!?ホンマやろ侑士!?」
「うん、超美味しい」
「パンのこと聞いてるわけやないねん!あと俺はマーマレード派や!」

さっきからいらんことばっかするなコイツ!
しかし、みょうじの方はお構いなしにイチゴジャムのトーストを頬張りつづけている。侑士は……もう一度みょうじを眺めて本物かどうか確認しているみたいや。どこで本人確認しとんねん。


「ほんまになまえちゃんやな……何でここにおるん!?」
「久しぶり忍足くん!嬉し恥ずかしながら帰って参りました!」

口の端にジャムをくっつけて敬礼する。アホっぽさが際立っていて、ようやくホンマにみょうじがいるという自覚が出てきた。

「それは大前提やな!?何でここにおるんって聞いとんねん」
「聞いてよ!黒ずくめに袋詰めにされて連行されてきたと思ったらロン毛さんと姉ちゃんがここに住めって言ってさ〜」
「黒ずくめに袋詰め?」
「ロン毛と姉ちゃん?ジンと蘭姉ちゃんか?」
「ジンはいたけどロン毛さんはジンじゃない。あと姉ちゃんはうちの姉ちゃん」

冗談なのか本気なのか全く分からんが、これは多分本気の方や。これ以上聞いても、恐らくまともに状況は把握できへん気がする。

「訳が分からん……」
「あり?そういえば謙也くんその傷どうしたの?」
「なっ、何してんねん!?」

みょうじが乗り出して俺のほっぺたをがっちり両手で捕まえる。端から見ればめちゃスゴい光景や……。俺の頭は暴走しまくって逆に冷静になっとる。

くすぐったいし顔近い。
なまえが親指でさわさわと傷に触れてくる。
この上、心配されたら俺はどうにかなってまうわ……。

「うお〜メイクじゃない!」
「ああああこのマイペース!」
「メイクだと思ったん?」
「うん、中途半端なネコヒゲメイクだなって」
「片方だけヒゲ描く奴があるかこの変人女!俺はみょうじじゃないんや!」

俺の純情を返して。
しかも、みょうじは『あ。この傷大丈夫?』とケロリと聞きおった。あっさりすぎるわ!

「謙也の傷はどうでもええねん」
「お前もあっさり俺を切り捨てたな」

俺を蔑ろにする侑士はみょうじに笑いかけた。
あとでお前には顔半分にだけネコヒゲ描いてやるぞ。

「俺はなまえちゃんに深い心の傷を負わされたんやけど?」
「おかしいなあ。忍足くんて心閉ざせるのに心の傷は負うの?」
「俺の心を亀とでも思っとるんかい……。しかも、なまえちゃん、黙ってパリ行ったこと全然反省してへんな」
「ああ……そうやったな」

確かみょうじは同じ氷帝の連中には一切パリに短期留学することを知らせんかったとか。もしそれが俺たちだったらと思うと、そら恐ろしい。白石なら涙で溺死確実。

「もぐもぐ……本当に申し訳ない」
「どっかのクソ映画みたいな軽さやな」
「でもみんなだって黙って合宿に行ってたじゃん!ちょっと寂しかったぞ!」
「そりゃあ仕返しやったからな……」

U17参加を黙っていたのは仕返しだというのは俺も知っとったけど、まさか知らぬ間に、なまえの方が黙ってこっちに来るなんて思ってもみんかったやろうな。
にしても……。

「はははっ!その節はほんま残念やったな侑士!みょうじに教えてもらえんで!」
「謙也は千歳に教えてもろて知ったんやろ。千歳がおらんかったらどうやろうな?なまえちゃんが帰ってくるまで知らんままだったかもな?」
「はあ!?そんなわけないやろ!千歳が連絡くれんでもみょうじは知らせるつもりやったに決まっとるわ!あ、でも氷帝には知らせへんのは変わらんわな。はははははっ!」
「今日お前めっちゃ張り合ってくんな」
「おいみょうじ!お前からも何……か……」

みょうじがいない。
ちょっと口論した隙にみょうじの姿が消えた。俺も侑士も辺りを探すけどおらん。こっちを不思議そうに見とる高校生たちだけや。

「ま、まさか……」
「話は岳人から聞いてるけどこれはびっくりやわ」
「やっぱ今の本物のみょうじじゃあらへんのか……!?分身!?」

ただし、侑士のプレートの落書きと俺のマイルドな青汁、半分だけ食べられているトーストもそのままやった。

「あのテーブルの下、女子がいねえ?」
「これホラー映画のシーンだ!」
「トーストうますぎ……もぐもぐ」

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