やけ酒August

 どうやら、俺は全く彼女の眼中にないらしい。
 できるだけ悟られないように、おっかなびっくりつま先だけ侵入した線の向こう側、彼女は何食わぬ顔をして、それ以上こっちに来ないでね、と線の色を濃く引き直した。と、俺は受け取った。
 先日、透明になる個性を濫用して、複数の女性に対してストーカー行為を働いていた男を確保し警察に引き渡した。ナマエとハンバーガーを食べた後の事で、街中を走り回って、姿を隠せないように個性を抹消し、他のヒーローと協力して追い詰めて捕縛した。そいつが抵抗しながら喚いたのだ。『俺がどれだけ金をかけたと思ってる! 裏切りやがって!』と。
 それを聞いてハッとした。気のない相手に奢られる不快感について、俺は配慮が足りなすぎた。金額の大小に関わらず、トラブル回避を徹底する彼女を賞賛したくなった。
 同時に、ブルーにもなる。俺が勘違いをする隙など一分もない。
 それは普段から、小さなことひとつとっても徹底されてきた。彼女は俺に何か買ってきてと頼むこともないし、逆に彼女が俺のために何か用意しているということもない。そして、俺が何か買っていくと、必ず等価交換で何かを差し出してその場で帳消しにしてくる。
 それが嫌だと感じたことなど一度もない。
 せっかく用意してもらって残すだとか、好みと合わない事態を考えると、確かに合理的。趣味じゃないものを提供してきた上で、せっかく用意したのに、といじける女の面倒くささを思えば、遥かに好感が持てた。
 依存しあわない関係。約束も、貸し借りも、部屋に俺のものを置いていくこともしない。
 ようするに、どんなに彼女と気の置けない仲になったと思ったって、所詮セフレ。
 いいんだ、それで。彼女に幸せでいてほしいならば、俺はセフレのままでいるべきだ。そして、そのうち彼女が本当に惚れ込んだ男と、幸せになってほしい。穏やかでいられるか分からないが、表向きだけならば上手に祝福できるだろう。
 いや。どうだろう。
 曇天の夜風にため息を混ぜる。
 どうしたもんか。何にどう理由をつけても、想いを通わせたいわけじゃないとアレコレ言い訳しても、頭の中に確実に彼女のための領域が確保されている。
 今日も、彼女の帰宅ルートを気にかけてしまっていた。
 定時の時間に姿を見なかったから、残業か。また、飲み会だとしても俺に連絡なんてあるわけがないし。
 台風接近の影響で、深夜から天気は崩れていく予報だから、あまり遅くなるのは、なんて心配を勝手にして。
 まだ雨は降っていないものの、すでに風は強まっていて、街ゆく人は普段よりもずっと少ない。
 呼ばれていた現場で仕事をこなし、他に要請が無いなら今日は終わりにしようかと考えながら、彼女の部屋へと向かう。さすがにもう帰っているだろう。別にセックスしようってんじゃなく、ただ、無事帰り着いてるのか確認するだけだ。会うわけじゃなく。
 その道中、こんな時間にふらふらと歩いているナマエを発見した。例の団地の横の道を、缶チューハイを飲みながら。
 なにやってんだ。警戒心のかけらもない。あんな目にあったくせに。
「何してるんだ、こんな時間に」
 話しかけずにはいられなかった。街灯の少ない暗い道で、彼女の行手を塞ぐように向かい合う。
 ナマエはビクッと肩で跳ねて驚いたが、俺の顔を見てへにゃっと力なく笑った。
「しょーた。おつかれ」
 微笑みの形を見せながら、なぜか、泣いているような表情だった。
 何か、よくないことにでも見舞われたのか。
 何かあったのか、と聞こうとして、言葉が詰まる。俺はそこに踏み込んでいいのかとか、拒絶されるのではないかとか、俺の気持ちを悟ったらナマエは離れていくのではないかとか。頭の中で渦巻く懸念のせいで、手を差し出すこともできない。
「歩きながら飲むな。危ないだろ」
 絞り出したのが注意だなんて。弱ってるナマエを責めるつもりはないのに。
「飲まなきゃやってられないの」
 ぶら下げたコンビニの袋には、空き缶と未開封の缶が混在してぐちゃぐちゃだ。
 手に持っていた缶を小さく振って中身の量を確かめてから、ナマエは月を見上げるようにしてそれを飲み干した。
 ぷは、と空き缶になったそれをガサガサと袋に入れて、ナマエは俺を睨む。
「ねぇ、消太、私って可愛くない?」
「はぁ?」
 突拍子もない質問に、喉から変な声が出た。
 可愛いか可愛くないかと聞かれれば可愛いだろ。そもそも見た目がアウトなら一晩の相手にすら選ばない。可愛いと思ってるのが悟られてるのか? どういう意図の質問だ。
 ナマエは新しい缶を取り出して、プルタブに爪をかけてカチカチ空振りながら、不満気な唇を開いた。
「資格の研修受けなきゃいけないの。それが十一月にあるんだけどね、休みの調整とかを、上司に相談したの。他にも色々勉強してるって話をしててさ。そしたら、それを聞いてた人が、私のいないところで、仕事にガツガツしてる女は可愛くないって噂してた」
 そういうことか。仕事を頑張っていることの何が問題なのか分からないが、ともかく軽率に可愛いとか言わなくてよかった。
「そんなこと、ないだろ。仕事に熱心で何が悪いんだ」
 たくさんの本を読んで、一生懸命に人と向き合う彼女を尊敬している。それなのに、ナマエは、はぁと大きなため息を吐いた。まるで俺なんて、その悩みの一端も理解できていない、想像力が貧困だと、呆れるように。勝手に距離を感じて、勝手に言葉に詰まる。
「悪いんだよ。女だから」
 ナマエは缶を開けるのを諦めて、ぶらんと手を下げた。
「男女関係あるかよ」
「あるんだってさ。私、絶対婚期逃すらしいよ」
 そんなことはない、と、言ってしまえるだけの度胸が俺にはない。
 セフレだからって、相手を褒めていけないことなんてないはずだ。慰めていけないことも、ないはずだ。
「んなわけないだろ。俺は、おまえの、楽しんで努力ができるところ、才能だと思うよ。気にするな」
 バカみたいにたどたどしく、感情の乗せ方がバグっている。
 好きだと自覚した途端、何がセーフで何がアウトかわからなくなって、気付かれたくないと思うほど言葉は限られて。
 ナマエは、下手くそな慰めに更に唇を尖らせた。
「ん……。開けて、コレ」
 差し出された、夏季限定の青い缶。ラムネ味のアルコールが、ナマエの鬱屈をどれだけ晴らしてくれるだろう。
 濡れた缶を手にして、簡単すぎる注文を聞いてやる。カシュ、と気持ちよく音を立てた缶の口から、夜闇に白い煙が揺らいだ。
 伸ばしたまま開栓を待っていた手にチューハイを返してやると、ナマエはありがとうと小さく呟いた。
「誰かに、よしよしとかちゅーとかして、甘やかしてほしい気分」
 夜道で襲われても、熱を出しても、一人で乗り越えようとする彼女の弱音が、ずんと俺の胸を貫いた。
 吐き捨てられた要望を、叶えるのが、俺ではだめなのか? そういう気分の時に気軽に温もりを得るための関係じゃないのか? いや、そういうのは恋人に頼めよと突っぱねるべきなのか?
「なーんちゃって!」
 あは、と花開いた鮮やかな笑顔が、綺麗で、痛々しい。
 半べそで顔を顰めて、キュッと閉じた艶やかな唇。酔いで赤く染まる頬。缶の冷たさを残す指先が、本能のまま、その頬に触れて顎を掬う。
「んっ」
 ラムネ味になるより先に、俺が塞いでしまった。
 さっきまで飲んでいたパインが僅かに甘く香る。ふんわりと柔らかさに押し付けるだけの口付けだってのに、いつもなら感じない緊張で、自分の唇が強張っているのがわかる。
 やってしまった、と胸が騒がしくて、それ以上は何もできなかった。
 少しだけ顔を引いて、生まれた隙間に夏の夜風が割り込んでくる。
「これで、元気になったか?」
「ん……。あり、がとう……?」
 ナマエは元気というより、きょとんと目を丸くして固まってた。見開いた潤んだ瞳に、俺の、なんとも言えない顔が映っていて、慌てて一歩下がる。
「ぉ、お前が言ったんだろ、元気になるって……」
 まずい。
 捕縛布を引き上げて顔を半分隠しても、体温が上がって。
 驚いていたナマエは、えー、と、あー、をこぼした後に、頬を引き攣らせてドン引きを隠せてない顔で笑った。
「じょーだん、だったのにさぁ。消太も酔ってる?」
「仕事中だって言ってんだろ」
 焦って語気が強くなる。睨んでしまう。動揺をコントロールできない。
「それはそう、だけど、だって……」
 ナマエはしおしおと俯いて、持っていたチューハイの口を見つめて黙った。こっちに向いたつむじが揺れている。これは、今撫でたら、ダメなのか?
「……ちゃんと、帰れるか」
「うん」
「俺は、その、仕事に戻る」
「あ、うん、ごめん」
 表情は伏せられて見えないが、その声は落ち込んでいるというより、驚いて動揺しているように短く弾んでいた。癒されたってよりビックリして吹き飛んだのかもしれないが、少しでも悲しさが薄れたならまぁそれはそれでいい。
 けど、これ以上は、余計なことをしそうだ。
 ざあっと木々が喚く。台風の気配を連れたぬるい風も、早く立ち去れと警告している。
 風に乱れる髪を抑えるように、ぽん、と頭に手を置いて、じゃあ、また、と背中を向けた。歩き出したつま先が、急いで向かう場所なんてどこにもない。闇に溶けてから振り向くと、ナマエは風に押されてアパートへと早足を進めていた。
 本来なら、天気も時間も、送り届けて然るべき状況だった。ヒーローを言い訳にすればかせたはずの手は臆病になって、だからって心配は心配で、影から見守るこの迷走っぷりはどうなってんだ。
 セックスはしても、心まで繋がらないもどかしさが、胸の内側で膨張して苦しい。
 恋人ならば、抱きしめて、落ち込まなくてもいいと、手放しに彼女を慰められるのだろうか。気にするな、美味しいものでも食べようと気分転換に連れ出せるだろうか。
 俺は、そういうおまえだから好きなんだと、愛を囁けるだろうか。

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