発熱June
じめじめすると思ったら梅雨に入っていた。紫陽花が雨粒に打たれて不安げに揺れる、灰色の夕暮れ時。鳴羽田の街はより鬱々として、日陰は闇を濃くしていた。
一応の雨具を身につけて、フードを目深に被り、今日はどんなルートでパトロールすべきか考えながら、電柱の上から街を眺める。ぐるりと見渡して、ナマエのアパートのある方向へと視界が向いた時、遠く豆粒ほどの窓から違和感を感じた。
まだ帰宅には早い時間。いつもなら暗い窓は、ほのかな光をカーテンの隙間から漏らしている。ゴーグルを外して目を凝らして見ても、やはりそこはナマエの部屋に間違いない。
そこはかとない胸のざわめきが、行って確かめろと俺に訴えかける。
四方に伸びる電線のうち、踏み出した一本は、真っ直ぐ彼女の方向へと続いていた。
走り出し、捕縛布を使って地面へ降りて、はやる足に疑問を抱く。何をそんなに急くことがあるだろうか。彼女の部屋に灯りが点っていたとして、消し忘れて仕事へ出たのかもしれないし、用事があって休みなのかもしれないし、体調不良で早退だとか、ともかく考えられる理由なんて色々あるだろう。数ある可能性のうち、俺が駆けつけなければいけない事態があるだろうか。
水溜りをぺちゃりと踏み抜いて、一応、という言い訳にならない理由を捏ねる。ナマエに、どうしたのこんな時間に、なんて言われたら何で返すべきか考えて、最短ルートではなく少しだけ回り道をして、けれど足を止めることなく彼女のアパートの近くまで来てしまった。
ここからだと窓は見えない。けれど、玄関のドアは見える。
気配だけ、ドアの外から、争ったりするような音が聞こえないかだけ確認して、こっそり立ち去ろう。
そう決めて歩みを再開した時、視線の先の扉が開いて、出てきたのは男だった。遠目でもわかる、見覚えのある男だ。
ナマエの同期なはずの彼は、アパートの外廊下から部屋の中に愛想を振り撒き、手を振ってドアを閉めた。急にむかむかと胸焼けがしはじめる。軽快に階段を降り、徐々にこちらに近づいてくるスーツ姿に、俺は咄嗟に脇道へと身を隠した。
雨と日陰に紛れ男が通り過ぎるのを待って、入れ替わりに彼女の部屋へ向かう。雨水がばしゃりと跳ねてブーツを汚す。電気の消し忘れとかじゃなく、ナマエは部屋にいるのだ。俺はさっきまでの考えを撤回して、ポーチの中の合鍵を握りしめた。
ドアの前に立つが、人の気配は薄くナマエの動きを感じることはできなかった。鍵が、鍵穴からズレてカチンと音を立てた。
眉間に力が入る。ナマエに拒まれたわけでもないのに。いや、拒まれたら何だっていうんだ。
今度はゆっくりと鍵を差し込み、ピンを押し上げる感触を感じながら回し、ドアを開けた。
薄暗い室内で雨具を脱いで、明るいリビングに入っても、彼女はいない。テーブルには、スポーツドリンクとゼリーがコンビニ袋からはみ出して倒れていて、仕事用だろうファイルが数冊置かれていた。不意に寝室から、布擦れの音と、ナマエが動く気配がした。
「……夏深くん? あれ、私鍵……あ、消太」
寝室の引き戸を開けて顔を出したナマエは、少し驚いた顔をして固まった。
「どうしたの、こんな時間に。珍しいね」
すぐにへらっと笑った顔に、なんだか無性に苛ついた。
「たまたま、珍しい時間に電気がついているのが見えたから……」
「そっか。ちょっと風邪ひいちゃって」
ゴホゴホと咳き込んだナマエは、寝室に引っ込んで顔を隠した。そう言われてみれば、顔も赤くて息苦しそうだ。
なるほど、それで差し入れが。
「誰か、来ていたのか」
下手くそな演技だ。どうしてこんな質問の仕方にしたんだ。
「うん、っけほ、同期の、夏深くんが少し差し入れをね」
「この部屋に上げたのか?」
部屋を見回すが、彼女の印象を著しく悪くしそうな部屋の状態だ。数日来ないとすぐこれだ。どうして着替えで選ばれなかった服を片付けないんだ。
「ううん。玄関だけ。玄関は片付いてたから、よかった」
俺が靴を置くために確保したスペースにあいつが立ったのか。いや、だから何なんだ。
「消太、風邪移っちゃうから、今日は帰って」
扉に半分顔を隠して、ナマエは潤んだ瞳で俺を見つめた。
「……いや……」
「う、待って、吐きそう」
口を押さえて、フラフラと寝室から出て来たナマエは、倒れそうに壁に手をついた。
「おい」
体が勝手に動いて、咄嗟に細い肩を支えていた。体温が高いのは、布団にこもって寝ていたからってだけじゃない。相当熱があるんじゃないか。
ナマエは、うぅ、と呻きながら、俺の支えを受けてトイレへとよろめきながら歩いた。
「ごめん、う、あっち、行ってて」
そう言われても、放っておけるわけがない。トイレでへたり込んで、嗚咽する背中を撫でると、ナマエは緩く首を振って俺を拒絶しようとして、けどすぐに便器に顔を向けた。
食事ができていないんだろう。口からこぼれ落ちたのは透明な液体だけで、ツンとした匂いも薄い。あいつが買って来たスポーツドリンクを飲んで、それを戻してしまっている。いつから熱を出していたのか、脱水症状を心配しなきゃいけない状態じゃないか。
「病院は」
「だいじょ、ぶ、だから」
「部屋の片付けはやらせるくせに、風邪を引いたら看病はさせないのか」
自分で言って、腑に落ちた。
わかった。苛立ちの正体が。
呼んで欲しかったんだ。弱っている時に真っ先に頼られる存在じゃないことが悔しいんだ。彼女からの連絡を受けて、簡単に手を差し伸べる権利を持っている同僚に嫉妬していた。偶然来なければ、俺は彼女が風邪を引いて寝込んだ事実を知らないままだっただろう。今日は無理、とメッセージ一つ受け取ったら、それ以上を詳しく聞くこともない。飲み会の予定も知らない。長期任務でも連絡を取り合わない。他の男を部屋に入れたとして、それを問い質す権利も、怒る権利も俺にはない。
「しょうた、仕事中でしょ」
そうだ。個人事務所とはいえ、決められた範囲のパトロールは責任持って行わなくては。
「薬も買って来てもらったから、大丈夫。ありがと」
ナマエは、吐き気が落ち着いたのか、立ち上がると力なく俺を押しのけた。寝室へ向かう背中に不安定さがないから、今度は支えることができない。
「……ナマエ」
「ん?」
彼女は寝室に入りかけで振り向いた。
熱でとろんとした目と、だるそうな表情。無駄に世話を焼いてしまったら、それは彼女のセフレとしての線引きを超えてしまうだろうか。
「何かあったら、連絡しろ」
キョトン、とした顔がゆっくりと傾いて、頭上にハテナを浮かべている。
「うーん……ヒーロー呼ぶくらいなら、タクシー呼んで病院行くよ」
いや確かに。そうなんだが。
あは、と力なく笑いながらのそのセリフに、俺は、中途半端に口を開けたまま、うまい返しが出てこない。まごついた呼吸を落ち着けている間に、彼女はもう一度咳込んだ。
「……そうか。まぁ、うん、それならそれで、いい」
がしがし頭をかきながら、気まずさを誤魔化そうとした声は歯切れが悪くてクソダサい。
下がった目線の先に、夏深だかが持ってきた仕事のファイルが目に入って。
「仕事のことばっかり考えてないで、体調のことも考えろよ」
口から出るのは心配と紙一重の小言ばかりだ。
「バレちゃった。うん……そうしたいけど……やらかしたなぁ、っけほ、ゴホ」
どうしてこう、自分のことに頓着ないんだ。当たり前の顔して無理しやがって。その姿勢は立派だが、体調管理ができていてこそだろうが。夏深とやらも、どうしてわざわざ仕事のモン持ってくるんだ。頼まれたとて断ればいいものを。
ダメだ。イライラする。
「……もう、寝ろ。邪魔したな」
んん、と咳払いして扉の影に隠れていたナマエは、最後に少し、涙目で眉根を寄せて苦しそうな顔を出した。
「うん。ねぇ、もし、移しちゃってたらゴメンね。手洗ってから行ってね」
あぁ、と返事をすると、彼女は、オヤスミ、と寝室へ引っ込んで、パタンと扉を閉めた。壁一枚向こうで、ちゃんと布団に潜り込んだかを物音と気配で探って、彼女が寝る態勢に入ったと聞き届けてから、俺は小さくため息をつく。
飲み物や薬は既にある。たとえヒーローのおせっかいを振り翳しても、俺にできることなんて何もなかった。
後ろ髪を引かれる思いは、俺だけだ。
片付けられた玄関で雨具とブーツを身につけて、弱い雨の降りしきる夜へと戻る。
黒猫のキーホルダーを揺らし、ドアノブをひねって施錠を確認すると、俺はまた敵意の隠伏する街へ繰り出した。
目深にフードを被り、雨の中を駆ける。鳴羽田の街は普段と変わらないのに、まるで慣れない土地のように道を間違えそうになった。
自分らしくない感情にうまく整理がつけられない。
皆まで言ってしまえば、好きなんだ。
ナマエへの特別な執着は今までならありえない。セックスした女が翌日別の男と歩いてたって、そんなの普通のことだ。これっぽっちも動揺しない。
なのにナマエに対しての、この異常な執着は何だ。他の男の影に苛立ち、一番に頼られないことに落ち込み、あまり体に負担のかかる無理をしてくれるなと叱りたくなる。
いつからだろう。どうしてだろう。自分のことなのに、何一つわからない。そういえば、しばらく遠方での任務に行っていた時、股も緩そうな女に一晩どうかと誘われたがこれっぽっちもその気になれなかった。あぁ、なんなら、帰ってくる約束をしてしまった時だって、もうすでに傾いていたのかもしれない。
恋人になりたいのか?
そうじゃない。そういう関係を望んで、そういう関係になって、結果ナマエを悲しませることになるならば、セフレのままで十分だ。好きになってほしいとも思わない。
けれど、ナマエには、他の男を見ないで欲しい。長く会えない時も、暖め合う相手を探さないでほしい。心配やわがままを言い合いたい。ナマエが一番に頼り甘えられる存在でありたい。無理するなと叱りたい。セックスをしない日も、苦しい時間も、分かち合いたい。
風邪なら移していいから、こんな時くらい甘えろと。言いたかった。
ひどく身勝手で大いなる矛盾を孕んだ欲望が、簡潔に言語化できない思考が、胸の中でぐるぐると渦巻く。
傷つけたくない。
なのに、俺はまだ、彼女のそばにいたい。たとえセフレとしてでも。 胸が苦しいほど重い感情を、自覚してしまった。たどり着く先の見えない糸がぐちゃぐちゃになってこんがらがっている。
ともかく、俺はこの気持ちを、全部、隠さなければいけない。
一応の雨具を身につけて、フードを目深に被り、今日はどんなルートでパトロールすべきか考えながら、電柱の上から街を眺める。ぐるりと見渡して、ナマエのアパートのある方向へと視界が向いた時、遠く豆粒ほどの窓から違和感を感じた。
まだ帰宅には早い時間。いつもなら暗い窓は、ほのかな光をカーテンの隙間から漏らしている。ゴーグルを外して目を凝らして見ても、やはりそこはナマエの部屋に間違いない。
そこはかとない胸のざわめきが、行って確かめろと俺に訴えかける。
四方に伸びる電線のうち、踏み出した一本は、真っ直ぐ彼女の方向へと続いていた。
走り出し、捕縛布を使って地面へ降りて、はやる足に疑問を抱く。何をそんなに急くことがあるだろうか。彼女の部屋に灯りが点っていたとして、消し忘れて仕事へ出たのかもしれないし、用事があって休みなのかもしれないし、体調不良で早退だとか、ともかく考えられる理由なんて色々あるだろう。数ある可能性のうち、俺が駆けつけなければいけない事態があるだろうか。
水溜りをぺちゃりと踏み抜いて、一応、という言い訳にならない理由を捏ねる。ナマエに、どうしたのこんな時間に、なんて言われたら何で返すべきか考えて、最短ルートではなく少しだけ回り道をして、けれど足を止めることなく彼女のアパートの近くまで来てしまった。
ここからだと窓は見えない。けれど、玄関のドアは見える。
気配だけ、ドアの外から、争ったりするような音が聞こえないかだけ確認して、こっそり立ち去ろう。
そう決めて歩みを再開した時、視線の先の扉が開いて、出てきたのは男だった。遠目でもわかる、見覚えのある男だ。
ナマエの同期なはずの彼は、アパートの外廊下から部屋の中に愛想を振り撒き、手を振ってドアを閉めた。急にむかむかと胸焼けがしはじめる。軽快に階段を降り、徐々にこちらに近づいてくるスーツ姿に、俺は咄嗟に脇道へと身を隠した。
雨と日陰に紛れ男が通り過ぎるのを待って、入れ替わりに彼女の部屋へ向かう。雨水がばしゃりと跳ねてブーツを汚す。電気の消し忘れとかじゃなく、ナマエは部屋にいるのだ。俺はさっきまでの考えを撤回して、ポーチの中の合鍵を握りしめた。
ドアの前に立つが、人の気配は薄くナマエの動きを感じることはできなかった。鍵が、鍵穴からズレてカチンと音を立てた。
眉間に力が入る。ナマエに拒まれたわけでもないのに。いや、拒まれたら何だっていうんだ。
今度はゆっくりと鍵を差し込み、ピンを押し上げる感触を感じながら回し、ドアを開けた。
薄暗い室内で雨具を脱いで、明るいリビングに入っても、彼女はいない。テーブルには、スポーツドリンクとゼリーがコンビニ袋からはみ出して倒れていて、仕事用だろうファイルが数冊置かれていた。不意に寝室から、布擦れの音と、ナマエが動く気配がした。
「……夏深くん? あれ、私鍵……あ、消太」
寝室の引き戸を開けて顔を出したナマエは、少し驚いた顔をして固まった。
「どうしたの、こんな時間に。珍しいね」
すぐにへらっと笑った顔に、なんだか無性に苛ついた。
「たまたま、珍しい時間に電気がついているのが見えたから……」
「そっか。ちょっと風邪ひいちゃって」
ゴホゴホと咳き込んだナマエは、寝室に引っ込んで顔を隠した。そう言われてみれば、顔も赤くて息苦しそうだ。
なるほど、それで差し入れが。
「誰か、来ていたのか」
下手くそな演技だ。どうしてこんな質問の仕方にしたんだ。
「うん、っけほ、同期の、夏深くんが少し差し入れをね」
「この部屋に上げたのか?」
部屋を見回すが、彼女の印象を著しく悪くしそうな部屋の状態だ。数日来ないとすぐこれだ。どうして着替えで選ばれなかった服を片付けないんだ。
「ううん。玄関だけ。玄関は片付いてたから、よかった」
俺が靴を置くために確保したスペースにあいつが立ったのか。いや、だから何なんだ。
「消太、風邪移っちゃうから、今日は帰って」
扉に半分顔を隠して、ナマエは潤んだ瞳で俺を見つめた。
「……いや……」
「う、待って、吐きそう」
口を押さえて、フラフラと寝室から出て来たナマエは、倒れそうに壁に手をついた。
「おい」
体が勝手に動いて、咄嗟に細い肩を支えていた。体温が高いのは、布団にこもって寝ていたからってだけじゃない。相当熱があるんじゃないか。
ナマエは、うぅ、と呻きながら、俺の支えを受けてトイレへとよろめきながら歩いた。
「ごめん、う、あっち、行ってて」
そう言われても、放っておけるわけがない。トイレでへたり込んで、嗚咽する背中を撫でると、ナマエは緩く首を振って俺を拒絶しようとして、けどすぐに便器に顔を向けた。
食事ができていないんだろう。口からこぼれ落ちたのは透明な液体だけで、ツンとした匂いも薄い。あいつが買って来たスポーツドリンクを飲んで、それを戻してしまっている。いつから熱を出していたのか、脱水症状を心配しなきゃいけない状態じゃないか。
「病院は」
「だいじょ、ぶ、だから」
「部屋の片付けはやらせるくせに、風邪を引いたら看病はさせないのか」
自分で言って、腑に落ちた。
わかった。苛立ちの正体が。
呼んで欲しかったんだ。弱っている時に真っ先に頼られる存在じゃないことが悔しいんだ。彼女からの連絡を受けて、簡単に手を差し伸べる権利を持っている同僚に嫉妬していた。偶然来なければ、俺は彼女が風邪を引いて寝込んだ事実を知らないままだっただろう。今日は無理、とメッセージ一つ受け取ったら、それ以上を詳しく聞くこともない。飲み会の予定も知らない。長期任務でも連絡を取り合わない。他の男を部屋に入れたとして、それを問い質す権利も、怒る権利も俺にはない。
「しょうた、仕事中でしょ」
そうだ。個人事務所とはいえ、決められた範囲のパトロールは責任持って行わなくては。
「薬も買って来てもらったから、大丈夫。ありがと」
ナマエは、吐き気が落ち着いたのか、立ち上がると力なく俺を押しのけた。寝室へ向かう背中に不安定さがないから、今度は支えることができない。
「……ナマエ」
「ん?」
彼女は寝室に入りかけで振り向いた。
熱でとろんとした目と、だるそうな表情。無駄に世話を焼いてしまったら、それは彼女のセフレとしての線引きを超えてしまうだろうか。
「何かあったら、連絡しろ」
キョトン、とした顔がゆっくりと傾いて、頭上にハテナを浮かべている。
「うーん……ヒーロー呼ぶくらいなら、タクシー呼んで病院行くよ」
いや確かに。そうなんだが。
あは、と力なく笑いながらのそのセリフに、俺は、中途半端に口を開けたまま、うまい返しが出てこない。まごついた呼吸を落ち着けている間に、彼女はもう一度咳込んだ。
「……そうか。まぁ、うん、それならそれで、いい」
がしがし頭をかきながら、気まずさを誤魔化そうとした声は歯切れが悪くてクソダサい。
下がった目線の先に、夏深だかが持ってきた仕事のファイルが目に入って。
「仕事のことばっかり考えてないで、体調のことも考えろよ」
口から出るのは心配と紙一重の小言ばかりだ。
「バレちゃった。うん……そうしたいけど……やらかしたなぁ、っけほ、ゴホ」
どうしてこう、自分のことに頓着ないんだ。当たり前の顔して無理しやがって。その姿勢は立派だが、体調管理ができていてこそだろうが。夏深とやらも、どうしてわざわざ仕事のモン持ってくるんだ。頼まれたとて断ればいいものを。
ダメだ。イライラする。
「……もう、寝ろ。邪魔したな」
んん、と咳払いして扉の影に隠れていたナマエは、最後に少し、涙目で眉根を寄せて苦しそうな顔を出した。
「うん。ねぇ、もし、移しちゃってたらゴメンね。手洗ってから行ってね」
あぁ、と返事をすると、彼女は、オヤスミ、と寝室へ引っ込んで、パタンと扉を閉めた。壁一枚向こうで、ちゃんと布団に潜り込んだかを物音と気配で探って、彼女が寝る態勢に入ったと聞き届けてから、俺は小さくため息をつく。
飲み物や薬は既にある。たとえヒーローのおせっかいを振り翳しても、俺にできることなんて何もなかった。
後ろ髪を引かれる思いは、俺だけだ。
片付けられた玄関で雨具とブーツを身につけて、弱い雨の降りしきる夜へと戻る。
黒猫のキーホルダーを揺らし、ドアノブをひねって施錠を確認すると、俺はまた敵意の隠伏する街へ繰り出した。
目深にフードを被り、雨の中を駆ける。鳴羽田の街は普段と変わらないのに、まるで慣れない土地のように道を間違えそうになった。
自分らしくない感情にうまく整理がつけられない。
皆まで言ってしまえば、好きなんだ。
ナマエへの特別な執着は今までならありえない。セックスした女が翌日別の男と歩いてたって、そんなの普通のことだ。これっぽっちも動揺しない。
なのにナマエに対しての、この異常な執着は何だ。他の男の影に苛立ち、一番に頼られないことに落ち込み、あまり体に負担のかかる無理をしてくれるなと叱りたくなる。
いつからだろう。どうしてだろう。自分のことなのに、何一つわからない。そういえば、しばらく遠方での任務に行っていた時、股も緩そうな女に一晩どうかと誘われたがこれっぽっちもその気になれなかった。あぁ、なんなら、帰ってくる約束をしてしまった時だって、もうすでに傾いていたのかもしれない。
恋人になりたいのか?
そうじゃない。そういう関係を望んで、そういう関係になって、結果ナマエを悲しませることになるならば、セフレのままで十分だ。好きになってほしいとも思わない。
けれど、ナマエには、他の男を見ないで欲しい。長く会えない時も、暖め合う相手を探さないでほしい。心配やわがままを言い合いたい。ナマエが一番に頼り甘えられる存在でありたい。無理するなと叱りたい。セックスをしない日も、苦しい時間も、分かち合いたい。
風邪なら移していいから、こんな時くらい甘えろと。言いたかった。
ひどく身勝手で大いなる矛盾を孕んだ欲望が、簡潔に言語化できない思考が、胸の中でぐるぐると渦巻く。
傷つけたくない。
なのに、俺はまだ、彼女のそばにいたい。たとえセフレとしてでも。 胸が苦しいほど重い感情を、自覚してしまった。たどり着く先の見えない糸がぐちゃぐちゃになってこんがらがっている。
ともかく、俺はこの気持ちを、全部、隠さなければいけない。
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