嘘つきApril

 年末年始に引けを取らず、四月も、年度替りの歓迎会や花見などで酒の席が多い。春の陽気で開放的な気分になるのか、この時期は毎年アルコール起因の諍いがあちこちで頻発する。
 言い争いがヒートアップして暴力沙汰になったり、酔って個性を暴走させたり。
 桜の盛りは既に過ぎたが、月末の金曜日である今日は飲み会の件数も多いと予想されて、抹消のできる俺は飲み屋街に行くように指示を受けていた。
 想像していた通り、いくつかの小さなトラブルに首を突っ込んでは、必要に応じて警察を呼ぶ。俺はまた一人個性を暴走させた一般人を捕縛して、馴染みの警官に後を頼んで居酒屋を出た。
 きらきらと暖色の光が瞬く陽気な通りを見回りながら、俺はふと、左の掌を見つめてため息をついた。さっき、飛んできた瓶の破片を受けたせいで、切れて血が出ている。絆創膏レベルの些細な傷だし、痛みだってほとんどない。
 それでも、怪我をすると、ナマエが頭に浮かぶ。
 彼女はセックスの時に、俺の打撲や擦り傷を見つけると労わるように撫でるのだ。俺がそれで痛がらないか、ひどい怪我じゃないか確認しているのかもしれない。彼女の少し冷えた指先が、痛みを生むことはほとんどないが、その行為はなぜか俺の中で印象的で。
 彼女は今頃、家でコンビニ弁当食べながら、また何かの勉強をしているのだろうか。
 なんとなく道ゆく人の往来が増えたと感じながら歩いていると、イタリアン酒場と書かれた店の前でたむろする団体の中にナマエを発見した。発見してしまったから、反射的に聴覚がそっちに集中する。知り合いを見つけたら誰だってそうだろう。
 ナマエのグループでは、恰幅のいい年配の男が、次のカラオケ全員いくよね、と面々に聞いているところだ。彼女の上司だろうか。
 なるほど。今は多くの団体が、二次会へと移動するタイミングらしい。
 彼女の存在に気が付かなかった事にして、通り過ぎてしまおう。外で会うのは少し気恥ずかしいというか、ベッドでの姿とかけ離れていて変な感じがする。
 歩きながら横目でこっそり伺うと、ナマエの横に立っていた男が、彼女の耳に顔を寄せて何やら笑顔で話していた。
 見覚えがある。以前、ナマエと一緒に歩いていた男だ。それにしても、あまりに距離が近い。男の赤らんだ頬と締まりのない表情からは、すでに酔っていることが伺える。セクハラになりそうな心配が、もやっと腹の底を暗くする。
 だから目が離せなかった。
 ナマエは笑いながらも半歩後ずさりして、やんわりと男と距離を取る仕草をした。へらへらと楽しそうな男に、しゃんと背筋を伸ばして貼り付けた上品な微笑みを返して、あれは若干イラついているな。
 現実から逃避するためか、ナマエはすっと明後日の方向に視線を流す。
 その先に、運悪く俺がいた。
 ばちっと音が鳴りそうなほど、ぴったりと目が合ってしまった。もう知らなかったフリはできない。見つかった、というか、見ていたことがバレた気まずさに、ドキリと心臓が跳ねた。
 しかも、俺を見つけたナマエの顔が、安心したようにパッと輝いて、何かを訴えている。
 なんだよ、その目は。
 ぐっと眉間に皺が寄る。足は止まって、下唇に力が入る。
 あからさまに、げ、を表現したってのに、彼女はどこ吹く風でこちらに手を振ってきた。
 冬より明るいカラーになった唇が、ラッキー、と動く。俺は何もラッキーじゃない。アンラッキーな予感しかしない。
 ナマエの隣の彼は目を見開いて固まって、周りでは何人かが俺の方へと振り向いて、ひそひそと沸き立つ。
 俺は、どうすりゃいいんだ。
 誰々、なに、ナマエさんの知り合い? そんな当然の質問に、ナマエは俺に意味ありげな目配せをして、そして、堂々と言い放った。
「彼氏が迎えに来たので、帰ります」
 視線が一気に俺に集まる。
 あいつ。やりやがった。
 ナマエはぺこりと頭を下げて、歓声と驚愕の輪を抜けて、こっちへと小走りでやって来た。
 俺は咄嗟に、左手の傷をぎゅっと拳にして閉じ込める。
「ごめん、お兄ちゃんって言った方が良かった?」
 ごめんと言いながら少しも悪いと思っちゃいない顔で、当然の権利のように隣に立つ。
「そういう問題じゃないだろ……」
「なんで。これがセフレの便利なところじゃん」
 いいよ、消太もめんどくさい女を切る時に彼女役してあげるよ、なんて言いながら、腕を絡めてくる。飲食店の香ばしい匂いを漂わせ、春物のコートが風になびく。
 背中に視線と興奮を感じながら、彼女に引っ張られて来た道を戻る。
 もうどうにでもなれ。悪いが、どっかでトラブルがあったら飛んでいく。まぁ、セクハラから助けた、これもヒーロー活動だと思えば――。
 ちらりと肩越しに後ろを伺うと、あの男は項垂れていて、何人かが肩を叩いて慰めているように見えた。
 ナマエは鼻歌を歌いながら、るんるんと早足で進む。早く同僚たちの視界から出たいのだろう。
 面倒くさい。無許可に巻き込みやがって。そう思う反面、あの男にベタベタされているよりは、安心する。安心、という言葉が適切かはわからないけれど。
「二次会、行かなくてよかったのか?」
 俺は分かりきった質問を、あえて口にした。
「なんか眠くて。生理なの。早く帰りたい」
「そうか」
 我にも無く、落ち込むようなニュアンスで飛び出した相槌。その理由を頭の中で言語化できないうちに、彼女はちらりと俺をみて、再び気のないごめんを口にした。
「ごめんね、今日はうちに来てもできないよ」
「それは、べつに」
 セックスを期待していたわけではない。から、どうでもいい、と言おうとして、やめた。そうじゃないなら何かと聞かれても、返答に困る。
 分かりきったと思っていたナマエの、口にした理由が思っていたのと違って。
 てっきり体目的かと。これから家に連れていかれるのだとまで、早とちりした。実際には彼女の体調の問題で、あの場を去りたいだけだった。改めて考えれば、実に合理的な対処法だ。彼女が職場で恋愛するわけがないし、俺の正体なんて言ったところで誰にも真相は分からない。今後無駄に言い寄られることも減るのだろう。
 なんだ、と、落胆に似ている心模様は、当てが外れたせいだ。それしかない。
 いつの間にか、二人分の足音がはっきりと聞こえるようになった。
 飲食店の匂いが届かなくなった道は、まだ間がある葉桜が貧相な姿で並んでいる。花もなければ青々ともしていない。
 物寂しい風景の中で、ナマエは俺の腕を離して、一人歩き始めた。
「うまく抜けられて、助かった」
 へらっと緩んだ表情は、さっきまでとは打って変わって他所行きの色を無くし、歩き方も油断しきってヒールの音まで丸くなる。
 ナマエの頭上の枝葉は隙間だらけで、月光をよく零す。すっかりネオンのなくなった薄暗い通りで、ナマエのサッパリとした笑顔だけが明るく見えた。
「もういいなら、俺は仕事に戻るよ」
「うん。仕事中なのにごめんね。ありがとう。またよろしくね」
 また。その言葉が、まるで二人に訪れる次回の存在を認めているかのようで。
「そんなにいつでも都合よく俺がいると思うなよ」
 ナマエは、きょとんと固まった。
 だって、俺たちはこれっきりかもしれない。お互いその身に何が起こっても、連絡の届く関係じゃない。お互いの性的ニーズがマッチしなければ自然消滅。それが、セフレのいいところだろう。
 今日はセックスができない。またよろしく。そんな風に言われて、なんだか、まるで未来の約束を期待されているようで、心臓がむずむずとして居心地が悪かった。
「そうだよね。消太がいつも助けてくれるから、つい」
 それは偶然助けられるような距離で助けを求めているからだ。けれど、物理的な距離が開けば、そんな偶然すら起こりえない。
「明後日から……遠くのマッチアップに呼ばれてる。しばらく行けない」
 俺が助けられる距離にいない時に、彼女は危ない目に合わないだろうか。温もりが欲しくなって、他の男と寝ることだってあるかもしれない。別に、俺がそれに口出しする権利はないから、関係ないが。
「そうなんだ。気をつけてね」
 あっさりとそう言った彼女は、あ、と口を丸くして、それからニタリと悪戯っぽく歯を見せた。
「また怪我した状態で襲いに来ないでよ?」
 う。それを言われると。
 俺は小さな切り傷を隠すように、左手をポケットに押し込んだ。
「あれは悪かった。気をつける」
 気をつける?
 気をつけるって、なんだ。まるで、気をつけなかったら、怪我をしたまま彼女の部屋に転がり込むと言っているようなものじゃないか。しかも、俺とナマエの間に、またそういう状況が訪れるかもしれないと、俺自身がそう感じていることになってしまう。
 弁明を探しきれずに唇を彷徨わせる俺をよそに、ナマエはあっけらかんとして。
「帰って来たら、怪我がないかボディチェックだね」
「あ、あぁ……」
 感情を処理できなくなった頭が、うっかり承諾の返事を誤発した。
 ナマエは、ふふふと笑って、じゃあ頑張ってね、と手を振って背中を向ける。
 俺は、待ってる相手を作りたくなくて、待たせたまま帰らなくなって悲しませたくなくて、だから恋人は作らないはずだったろうが。
 帰って来たら、なんて約束は、その前提を覆す。
 彼女にとっては、社交辞令に近いのかもしれない。無事に帰って来てほしいとかって願いは、そこには殆ど込められていないだろう。
 なのに、淡く内蔵が暖かくなる。離れていく背中が角を曲がるまで見送ってしまう。
 想定外の翻弄が、渦になって脳内に巡る。その中心に何があるのか、まだ、不明瞭なまま。

-BACK-



×
第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -