コーヒーとMarch

 アラームもないのに、瞼は自然と開いた。
 シワだらけで乱れたシーツと、ティッシュがたくさん入ったゴミ箱。それから腰に残る疲労感。背中に感じる肉感と、脇腹にかかる腕の重み。布団の中の温もりは二人分。
 チュンチュンと窓の向こうで小鳥がさえずる爽やかな朝に、消太がいる。
 消太が帰らずに一緒に眠って朝を迎えるなんて、初めての事だった。無精髭が似合わないくらい幼く見える寝顔は、黒髪が目や鼻にかかって少し邪魔そう。
「ん……」
 布団から出て、ヒヤリとした床に足を下ろしても、消太は少し深い呼吸をしただけで、目覚めはしなかった。
 リビングは綺麗に片付いている。
 消太が怪我をしてきたあの日から、痛みが無くなるまで、それから私の生理が終わるまで、私たちはセックスをしなかった。それなのに、消太はその間二回ここに来て、ただ休憩したり、片付けたりしてくれた。カップラーメンやお惣菜のパックばかりのゴミ箱に小言を言いながらゼリー飲料を咥えてる姿には、さすがに言い返したけども。
 今日は二人とも休日で、だからってわけじゃないけれど、昨夜は久しぶりにお互い好き放題快楽に溺れて、泥のように眠ったのだ。
 人肌の温もりが心地よくて、適度な運動も相まって、ぐっすり眠れて目覚めも爽快。
 カーテンを開けて床に広がった朝日を踏み、きちんとテーブルの上に置かれたリモコンで何気なくテレビを点ける。
 朝らしい爽やかなスーツ姿のアナウンサーが、素晴らしい滑舌で今日はホワイトデーだと伝えてくれた。もちろん、バレンタインも無かった私たちにホワイトも何もない。いやある意味ホワイトは頂いたけれども。
 コーヒーを淹れようと、キッチンでケトルに水を入れてスイッチを押すと、寝室からのそりと消太が現れた。
「あ、おはよう。お湯沸かすけど何か飲む?」
「おはよう。いや……シャワー借りる」
「ん。どーぞ」
 猫背でボサボサ頭、背中を掻きながら、てちてちと素足でフローリングを鳴らして、彼はお風呂へ消えて行った。
 不思議な光景だ。
 消太は人と寝るのが苦手なのかと思っていた。スタンドアローンを絵に描いたようなアングラヒーローが、あんな緩みきった顔で私を抱き枕にして寝るなんて。ヒーローとしての消太しか知らない人が見たら解釈違いだと目を丸くするだろう。
 そりゃあ生きた抱き枕を抱いて寝たい日もあるでしょう。人間だもの。けれど、お腹に穴があいてもすぐに痛みを感じない、張り詰めた日常を送る彼だから。そんな彼が油断する場所が私なことに少しの特別を感じて、張り合う相手のいないドヤ感がわずかに胸を躍らせる。
 それは職場で、職業訓練に来ている利用者さんから『ミョウジさんが一番話しやすいわ』と言われた時の嬉しさに似ている。全く同じではない気がするけど、どこが違うのかと言われたら言葉で説明はできない。
 朝ごはんは何を食べようか、と冷蔵庫を開けてみて、私は、苺を発見した。消太にビタミンがどうこう言われて珍しく買ったのを忘れていた。完熟もいいところなそれを洗って、お皿に盛り付けて、あとは一昨日夜中に食べて余ったビスケットを添える。
 マグカップで適当にインスタントコーヒーとお湯をくるくる混ぜて、薫るほろ苦い香りを吸い込む。部屋に差し込む朝日と湯気が混ざって、上質な休日の匂いがした。
 お皿とカップをテーブルに並べてソファにお尻を沈めると、消太が早くもシャワーを終えて、パンツ一枚にタオルを肩にかけて現れた。
 湿った足で、さっきよりぺたぺたとした足音を立てながら、まるで自分の家かのように、躊躇いもなく冷蔵庫を開けて、ミネラルウォーターをぐびぐび煽る。
 雑に拭いた黒髪から雫が垂れるのを、なぜだか注意したくならない。
 暗い部屋の中でも思ってはいたけど、明るい所で見ると尚更に、肉体の造形の良さが際立つ。剥き出しの厚い胸板、割れた腹筋。がっしりとした肩周り。どうりで腕だけであんなに重いはずだ。第一印象が不審者だったのに、数ヶ月で見慣れたせいだろうか。濡髪から滴る雫がこれまた色気を増幅させて、無気力な瞳が生むアンニュイな雰囲気は、なかなかにいい男を演出している。
「何見てんだよ」
 むうっと眉を顰めたまま、消太はもう一度ペットボトルの口を唇にくわえた。
「消太って、思ったよりかっこいいなって思ってさ」
 傾けようとしたボトルは戻って、消太は、ゲホッと一度だけ咳をした。お水が口に入っていたら面白かったのに、発言のタイミングを間違えたかな。
「……おまえ、セックスの相手に頓着なさすぎないか」
 綺麗な並びの歯を見せて口を引き攣らせ、消太は呆れたように私を一瞥。
「そんなことないよ。恋人じゃなくてセフレだとしても、やっぱり合格ラインみたいなのはあるもん。消太もあるでしょ?」
 消太は、まぁ確かに、と、どことなく歯切れの悪い肯定をして、ペットボトルの中身を吸い込む勢いで空にした。
 ふぅん、と思いながらテレビへと視線を戻す。ふぅん。へぇ。やっぱり消太は過去にもセフレがいたらしい。そりゃ童貞じゃない確信はあったし、恋人を作らない主義ならば、そうか。どうりで、私との距離感もちょうどいい。
 テレビでは、ホワイトデー限定メニューを提供しているお洒落なカフェが紹介されている。数量限定ホワイトチョコのザッハトルテ。上品に輝くグラズールに空腹を刺激されながら、私はビスケットを噛んだ。
「ねぇ……今日、ホワイトデーなんだって」
 Tシャツを着てしまった消太は、もう一本ミネラルウォーターを持って私の横に座りながら、え、と目を見開いて、記憶を辿るように視線を泳がせてから首を傾げた。
「……バレンタイン、何も貰ってない……だろ」
「あげてない」
 はぁ? と間の抜けた声が飛んでくる。私は、レポーターの女性が美味しそうにケーキを頬張るテレビを指差した。
「このホワイトデーのケーキ美味しそうだけど、これ一人では食べに行けないでしょ」
 ホワイトデーだから、バレンタインのお返しをくれと言っているわけじゃない。ただ、このメニューを食べに行くのって、きっとカップルで、バレンタインのお返しに奢るってことなのだ。そんな中お一人様で行って食べるのはちょっとね。
「……俺は行かないからな」
「でしょうね」
 期待してもいません。
 消太は行かないと言いつつも、一緒にテレビを見つめて、ふぅんと興味なさそうに鼻から息を抜いた。無関心そうに、けれどちゃんと見ている。「ケーキ一つのために出るには少し遠くないか」なんて真面目な顔して言うから笑いそうになってしまう。
「消太がこんなおしゃれカフェにいるの想像できないな。浮いちゃうね」
 消太はヒーローの時も黒い服だし、私服も暗い色の服しか見たことない。私の知る限り、モッズコートがカーキなのが一番色って感じの色だ。仕事でなくても闇に紛れたい性分なのか、デニムでさえ黒を選んでいるのだもの。
 今度はポップでメルヘンチックな内装のお店が紹介されて、そこでファンタジックな名前のラテを飲む消太を想像したら、面白さしかなくて。くすくす笑う私の頭に、ぺしっとゆるく手のひらが飛んで来た。
「この店で浮かない男なんて逆に珍しいだろ」
「あ、じゃあここは?」
 今度はアンティークっぽい落ち着いた雰囲気のお店に切り替わり、ナレーションが、男性も入りやすい老舗、と高らかにうたい、続けて創業について説明している。
「ここなら、服とかちゃんとして行けば浮いたりしない」
「ちゃんとしてない自覚があるの? ちゃんとした消太も見てみたいかも」
「見せないし、行かない」
「ケチ」
 言葉だけで戯れる私たちは、きっとこれからも外でデートなんてしない。セフレだから当然だ。私は熱いコーヒーに口をつけて、いつもより苦い気のする液体をまったりと味わった。
 消太は、意外と、恋人とはカフェとか行くのかな。彼女に強請られて、可愛いお店に一緒に入ったりするのかな。根が優しいから行くだろうな。私が相手でも、おそらくだけど、押せばついて来てくれそうな感じはする。
 顎を飾る無精髭を親指で撫でながら、消太は、そこまで浮かないだろ、なんて唇を尖らせている。私と一緒にあの店に行くのを想像しているらしい。
「消太って、なんだかんだ甘いよね」
 すぐにこっちを向いた顔が、どこがだよ、って表情だけで喋ってる。
 抱っこしておんぶして、部屋を掃除して眠るまでいてくれて、食事に来てくれて、肉まんを買って来てくれて、合鍵を持ち帰り、あぁ、たった、出会ってから四ヶ月で彼の甘さを裏付ける記憶が多すぎる。でも、それらは全て無自覚なわけだ。
 ふっと笑ってしまった私の前に、おもむろに筋肉質な手が伸びて来て、苺が一粒奪われる。あ、と目で赤を追いかけると、あんぐりと開いた口にぽんと放り込まれてしまった。
「消太って、甘いものは好き?」
「たまに食べる。嫌いなわけじゃない」
「そうなんだ。じゃあお誕生日ケーキとか普通に嬉しいタイプ?」
 消太は、あぁ、と頷いた。へぇ。ふぅん。こんな見てくれで意外。
 だっているじゃない。甘いもの苦手だからケーキはいらないとかって人。夏深くんがまさにそうで、同僚何人かで誕生日に飲みに行って、花火のついた誕生日スイーツプレートをサプライズで頼んだら、俺甘いもの苦手なんです、ってしょんぼりされちゃったんだもの。
 そういえば私たちは、体については交流を深めたけれど、趣味思考についてはお互いにほとんど知らない。
「誕生日、いつなの?」
「十一月八日」
 さらりと答えてから、消太はじっとりと目を細めて、ちらっと私を伺ってため息をついた。
「祝うなよ。聞いても覚えないからおまえのは言うな」
「ふふ。祝わないよ。私の誕生日は聞かれても教えません」
 質問してから、知る必要もなかったと思ったから、消太からの牽制はむしろありがたかった。
 私もきっとすぐに忘れてしまうだろう。冬生まれ、ってくらいしか覚えていられない気がする。でも、それでいい。誕生日を聞いたからメモしておかなくちゃとか、プレゼントを用意するだとか、そんな事を義務として思ってやらなくていい。消太も、祝ってもらおうなんて微塵も思っていない。ただのセフレだもの。やっぱり私たちが知っているのは、体の相性の良さだけで十分。
 ホワイトデー特集は終わって、各地の天気へと放送は移り変わる。本日は一日中快晴の模様。寒さが残るとはいえ、陽射しの暖かさは日増しに冬を忘れ、春へと向かう。
 私たちは、出会ってたった四ヶ月。セックスのために夜を共にしたのは片手で足りる回数。
 なのに、どうしてだろう。私は消太との距離感が、おかしいと思う。
 今までの割り切った関係の相手なら、朝こうして一緒にテレビを見るなんてありえなかった。だってこんなの必要ない。私はピロートークですらいらないからさっさと帰ってどうぞと思う方なのに、翌朝の時間をまったりしてどうすんの。
 ヒーローだから、助けてくれたからって、さすがにあんまりのスピードで心を許しすぎている。
 セフレとしての線引きをしっかりしないと、仲のいい友達みたいになって情が湧いてしまう。それはそれで楽しいのでしょうけれど、別れが厄介なのは嫌。この関係の利点をしっかりと享受するならば、線を曖昧になんて、しちゃいけない。だらだらと二人の時間を長引かせることは私にとって有益じゃない。
「さーて、今日はシーツの洗濯して、勉強するかな。消太もそろそろ帰ったら?」
 苺を摘んで、咀嚼する。完熟の甘みが口の中で解けて、喉奥に消えた。
 ぐうっと伸びをする私の横で、消太は、あぁ、と返事をして立ち上がる。さっさと退散のために寝室へ向かいながら、彼はひとつ大きなあくびをした。

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