傷とFebruary

 クソ。くだらないミスをした。
 ドラッグ常習者の幻覚による暴走だと判断し制圧の対応に当たったが、そいつに誘い込まれた先には更にヴィランがいた。
 最近裏界隈で名を聞くようになったチンピラが、イキってヒーロー狩りをしようとしたらしい。裏の世界で一目置かれるために、全ヒーロー社会を敵に回そうってんだから、本当に頭がイカれてるとしか思えない。
 ドーピングドラッグで興奮状態のヴィランを三人まとめて相手にして、廃倉庫での大立ち回り。捕縛布で拘束するには、なかなかに難儀なサイズの巨漢たち。すでに応援要請はしていた。味方の現着までこの場に縫いとめて、まとめて確保する。それまで、散り散りになられては困る。俺を後一歩で仕留められると、思わせる必要があった。
 まともに息もできない攻防の、一瞬の出来事。
 最悪のタイミングで抹消が途切れた。
 その刹那、腹が、内臓が熱くなって、脳がアドレナリンを大量放出して、全てがスローモーションに見えた。
 やたらと冷静な頭はそんな極限状態で、あぁ、変性意識ってやつだな、と俯瞰しながら、腹に刺さったぶっとい針を引き抜いた。出血が熱の広がりで分かるのに、痛みは少しも感じなかった。
 追撃は鼻先ギリギリの距離を掠めて、ゴーグルが視界の外に吹き飛ばされる。
 躱しきれなかったんじゃない。紙一重を見切ったのだ。
 直視せずとも、どこにゴーグルが落ちたのか、次はどこからどんな攻撃が飛んでくるのか、手に取るように分かる。瞬きを忘れて、全ての動きを捌ききる。
「さっさとくたばれ!」
 ヴィランが叫んで大手を振りかぶった、その時、突入してきたヒーローと、聞こえてきたパトカーのサイレン。
 三人はようやく包囲に気付いたようだがもう遅い。応援で駆けつけたヒーローたちの活躍で、瞬く間に拘束され、警察に引き渡されて行った。
 相性の問題もあるだろうが、プロヒーローが一人で対応できないほど強い相手じゃなかった。先輩ヒーローたちに礼を述べて頭を下げながら、どこで間違ったのかと、頭の中は無意味なたらればで埋め尽くされていた。
「イレイザー、お疲れ様です」
 警察の彼はこの辺の担当で、ナマエが襲われたときも現場で顔を見ている。
「お疲れ様です」
 吹き飛ばされたゴーグルを拾って挨拶を返すと、彼は、なかなかまとめて捉えるのが難しくて警察も手を焼いていた、イレイザーがここに引き付けてくれてよかった、などと俺に手柄を持たせるように褒め、そして最後に心配そうな顔で付け足した。
「怪我は?」
 実際に、ヴィランを確保したのは俺じゃない。俺だけで出来なかったことが恥ずかしいとすら思うのに、こんなに褒められては逆に苦い。
「いえ……大した怪我はありません。パトロール続けるんで、失礼します」
 服が黒くて、夜の闇が濃くて良かった。この程度の相手で怪我をしたなんて言いたくない。それも、わざわざ病院で処置をしてもらうほど大きな怪我でもない。
 現場から遠ざかり、狭い路地に隠れて、応急処置用のガーゼと包帯を腹に巻きつける。草木の揺れるような無駄な情報までも、脳が勝手に収集してあちこちから流れ込んで来て、耳鳴りがした。
 アドレナリンの作用で興奮状態の脳みそは、何をどう結びつけたのか、ナマエの存在を思い出す。
 抱きたい。
 無性に、あの柔らかく暖かい肌を感じて、俺の名前を呼ぶ声が聞きたい。
 気付けば、合鍵を握りしめてナマエの部屋に来ていた。もう寝ている時間だろう。電気も消えていた。
 そういえば合鍵を貰って、部屋から出て鍵を閉めるばかりで、開けるのは初めてだ。できるだけ閑静さを保てるようにそっと鍵を回し、無駄に足音を消しながら、不審者のように忍び込む。
 もはや見慣れたのどかなリビングで、俺だけが暴力の影を引き連れて、異質さが浮き彫りになる。無意識に、存在を闇に溶かそうと気配を殺す。
 暗い寝室へ入ると、ベッドが膨らんでいて、彼女はそこにいた。
 掛け布団を肩までかけて、顔しか見えない彼女を見下ろす。穏やかな寝息だけが聞こえる空間。嗅ぎ慣れた匂い。
 張り詰めていたゾーンが緩やかに解けはじめ、過度なストレスから解放された身体がぶるぶると震え出す。止め方のわからないこの感覚が、嫌いだ。
 乱雑に布団を剥ぎ取って、ギシっとベッドを揺らして、馬乗りに覆いかぶさる。平和ボケの頂点みたいな寝顔をしていたナマエは、ううん、と唸って眉間に皺を寄せて、布団を探そうと手を動かしている。伸ばした手が俺の太ももに触れて、ふえ、と間抜けな声を上げて、ようやくしょぼしょぼと目を開けた。
 傷が、どんどん熱くなっていく。
「しょーたぁ……?」
 寝ぼけた声が、怪我に染みる。
 捕縛布を頭から抜いて、床に落とす。ツナギのファスナーを下げながら、彼女のぽかんと緩んだ唇に噛み付くようなキスをした。
「んっ、う」
 逃げる舌を追ってしゃぶり、くちゅりと音を立てて、歯並びを確かめるように舐め、くぐもった戸惑いを飲み込むように強引に、何度も角度を変えて貪った。
 抵抗とも言えない優しさで肩を叩かれると、腹の痛みが増していく。
「はぁっ、く」
「しょ、た……もしかして、熱ある?」
「ない」
 色気のないスウェットに手を突っ込んで、ナイトブラを押し上げて、柔らかな膨らみを掌に閉じ込める。あたたかくて、すべすべしていて、ふわふわしていて。
 上がった呼吸と体温は欲情のせいじゃない。汗が吹き出るのに、指先が冷えている。アドレナリンの過剰分泌が落ち着いて、耳鳴りは止んで、代わりに激痛と安堵に襲われた。
 なぜか、自分の家でもないのに、帰って来た、という感覚がする。
「ナマエ……」
 ナマエはされるがままに服を乱されながら、心配そうに俺の顔を伺っていた。このまま襲われることを、拒否しようという様子は見られない。
 ツナギから袖を抜いてインナーがむき出しになると、彼女はぎょっと目を見開いて、俺の脇腹に手を伸ばした。
「っ、さわ、るな」
 肌に張り付いたインナーが、細い指に摘まれて、そっと捲られる。包帯が、見えてしまう。
「ひっ……やだ、消太! け、怪我してる!」
「大した傷じゃ」
 悲鳴に近い動揺した声で、ナマエは俺の傷に手を当てた。ぬるりとガーゼがズレて、激痛に筋肉がビクついて。
「血がっ、嘘、なにやって」
「い、ったいから触るな」
「だって、だって血が」
 出血が思ったより多かったらしい。ガーゼも包帯も通り越して、濃い赤がナマエの手を濡らす。
 ナマエは怪我をしている俺よりも青ざめて、震える手で必死に俺の傷に手を押し付けている。大きな目から涙がぼろぼろ溢れて、さっきまでキスをして蕩けるようだった唇も、わなわなと強張らせて
「……ナマエ……?」
「どうして、な、何、なんで? 病院……病院に……」
 ナマエが、取り乱している。
 しおしおと、戦闘の興奮が萎んで消えてゆく。戦慄していた神経が、ふぅっと一呼吸の間にすっかり弛緩して、そして、後悔が胸に重たく広がった。
 彼女は、誰か、ヒーローの親戚が、怪我で再起不能になったとか言っていた、それなのに。こんな不甲斐ない姿を見せて、心の傷を抉ってしまったんじゃないか。
「……大丈夫だ」
「大丈夫って、だって、こんなに血が」
「そうでもない」
「は? そうでもあるよ! 救急車、呼ぶ」
「呼ぶな、大丈夫だから」
 血のついた手がスマホに伸びるのを捕まえて、全身ぐったりと彼女に重なる。ナマエは預けられた体重に肺を圧迫されて、はっと息を吐いて、文句を言おうとした口を閉じた。
「消太……」
 繋いだ片手の、ぬるりと血を纏った細い指を、そっと絡める。
 首元に顔を埋めて、彼女を胸いっぱいに吸い込む。
 ナマエに、この震えがばれてしまったのだろう。彼女は俺の手をぎゅっと握り返して、空いている手をおずおずと背中に回した。それだけで、尖った何かが柔らかくなるのを感じた。
 なぜナマエを求めて来たのか、わかった。ここに来ると俺は油断する。安心する、ようになっていた。今までは一夜限りの関係ばかりだったから、こんな感覚は初めてだ。
 ギリギリの命のやり取りを切り抜けた、脳をフル稼働させたストレスが、正反対の穏やかな場所で静かに溶かされて、本来の自分にリセットされる。セックスしたかったんじゃない。ただ、抱きしめられたかった。抱きしめたかった。この、ひ弱な存在を。
 不思議と、シンクロするように、ナマエの震えも止まって、俺たちは二人で大きな深呼吸をした。
「……ごめん」
「何を、謝ってるの」
 怖がらせた。
 怖かった。戻りたかった。戻れなくなりそうな気がした。恐怖も痛みもゼロになる戦闘トランスが。全身がわななくほどの安堵が。
「こわかったね」
 ナマエの手が、俺の背中を小さくさすった。浅く弾んでいた呼吸が楽になって、酸素が脳に行き渡る。
 ナマエだって動転していたくせに。まだ、声だって強張っているくせに。
「頑張ったね」
「べつに」
「傷……病院、行って。身体が資本でしょ、ヒーロー」
 アドレナリンで麻痺していた神経は、正常に痛みを痛みとして伝達する。ぐっと息が止まる。よく考えれば、いやよく考えなくても、脇腹を貫通したのだ。痛いに決まってる。
 ナマエの心配そうな顔しか見えない。化粧をしていない桃色の唇が小さく動いて、ね、と合意を求めてくる。
「……わかった……ッ」
 起き上がろうとしたのに、それすら痛みでままならない。現場でなら飛び回れる程度のはずの痛みなのに、どうして。
「痛い……?」
「……っ、痛い」
 目を閉じて歯を食いしばる程度には、脇腹がドクドクと燃えて鼓動していると思う程度には、痛い。
 ナマエは俺の肩を押してベッドに転がすと、インナーをぐいっと捲り上げて、う、と顔を顰めた。
「包帯へたすぎ」
「……外で適当に……応急処置だし……」
「変えてあげるから、包帯ちょうだい」
 ナマエは、ひど、こわ、えぐ、ばか、と二文字の文句をたくさん言いながら、ガーゼと包帯を変えて、綺麗に巻き直してくれた。苦しそうに俺に触れる指先が、申し訳なくて。
 だからナマエは、ヒーローに恋はしないのだと、頭のどこかが冷静に呑み込んだ。

-BACK-



- ナノ -